第12話 とある幸せだった女性の話 二

 心が定まると、彼女たちの関係は1本の芯が通ったようにはっきりとなった。


「利樹。私、大学を卒業したら、喫茶店を開こうかと思っているのです」

「喫茶店? いきなりだな」


 彼女が将来の夢について語ったのは、この時が初めてだった。利樹ですら、これまで彼女の夢について聞いたことはない。

 いや、そもそも彼女には将来の夢というものがなかったのかもしれない。


 何でもできてしまう彼女は、なろうと思えば何にでもなれた。

 周りの人たちが彼女に進める仕事は、医者であったり、弁護士であったり、学校の先生であったり、起業を薦めてくる者もいた。


 そのどれもを、彼女は完璧にこなすことができるだろう。

 それだけ彼女は期待されていた。


 しかし、他人からの期待とは裏腹に、彼女自身にはやりたいことはなかった。

 最終的には、生きていくために仕事をしなければならないが、それは何でも良いと思っていた。その時の流れに身を任せれば、などと。


 しかし、そんな彼女が初めて語った。

 喫茶店を開きたいという夢。


 とはいえ、いきなり喫茶店という発想になる意味がわからず利樹は首を捻る。


「お前、そんなに喫茶店に興味あったのか?」

「そうですね。興味を持ったのは最近です」


 言いながら思い出すのは、女子生徒と話した相談のこと。


「私、喫茶店の雰囲気が好きなんです。ゆっくりと流れる時間。そこにいる人たちには、色んな感情を持った人がいる。そして、そこでの出会いや会話で自分に変化が起きることもある。そんな空間を私が提供する。そういうのって、素敵な気がするのです」


 必ずしも喫茶店だからという訳ではない。

 しかし、彼女の経験則はそれだけ印象深いもので。女子生徒との会話も、落ち着かせるために飲んだコーヒーも、心地よい音楽も、彼女にとっては素敵なものだった。


 そんな喫茶店を、自分も作りたい。それが、彼女が初めて思った、やりたいことだった。


 嬉しそうに夢を語る彼女は、子供のように純粋な笑顔を見せている。

 そんな笑顔を見せられたら、それ以上、利樹も野暮なことは言えなかった。


「まあ、やりたいようにやれば良いさ。でも、いきなり仕事の話なんてどうしたんだよ?」


 彼女が仕事の話をすることは珍しい。


 まだ大学を卒業した訳でもない。ボロいアパート生活ではあるが、生活が苦しい訳でもない。

 そもそも、家計の財布は彼女が握っている。特に彼女が仕事を気にしなければならないような問題は起きていないはずだった。

 もちろんただの世間話という可能性もあるが。


 しかし、そこには確かな理由があったようで。


「私たちの今後を考えた時、私も働いた方がいいと改めて思ったので」

「あ、ああ、そ、そうか」



 先日、利樹のプロポーズに対しての考えを、彼女から打ち明けられた。

 その答えは、「結婚を前提としたお付き合いを続けましょう」というもの。


 最初から、すぐに結婚はできないと言っていた利樹にとって、それは大した問題ではなく、むしろプロポーズを受け入れてくれたということに他ならなかった。


 それに利樹は飛び上がる勢いで喜んだのだが、それに伴って、彼女からの約束事ができた。


「ただし、結婚をするからには、しっかりとした家庭を築きたいです。そのためには、家計のやりくりも今まで以上に頑張りますよ」


 利樹の収入だけでも、2人で生活する分には問題がない。しかし、これから先のことを長い目で見た時、それだけでは心許ないのも事実だった。

 そのため、彼女はこれからのことを緻密に計画した。

 その結果として、彼女も利樹と同様に働くというのが、最も現実的で確実な方法だった。


 そして、働くとなった時、まず思い付いたのが喫茶店だった。


「いつか子供ができた時のためにも、ね?」

「そ、そうだな」


 慈愛に満ちた表情を見せる彼女に、利樹は赤くなった顔を隠すように顔を背けた。


「もう。こんなことで照れていたら、いざという時にどうするんですか」

「う、うるせぇよ」



 軽口を叩いていた2人から、ふと会話が途切れる。そして、利樹が彼女に目を向けると、2人の視線が重なった。


 その瞳に、互いに吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えながら、どちらからともなく手を握る。

 ゆっくりとした時間の中で、世界から音がなくなったようだった。


 彼女はソッと顔を利樹の胸に埋める。


「利樹。これからも、ずっと一緒にいてくださいね」

「当たり前だろ」


 利樹の答えに、彼女は満足そうに顔を上げて、ソッと唇を合わせた。


 ◇◇◇◇◇◇


 それから2人は多忙な毎日を送っていた。


 利樹は今まで以上に仕事に励み、彼女は大学に通いながら、喫茶店を経営するための勉強も始めた。


 彼女が目指す喫茶店は、誰かが訪れた時、ほんの少しでも何かが変わるきっかけを提供することができる場所。


 そのためには、やはりそれに相応しいコーヒーが必要だと考えた。


 練習相手は利樹。コーヒーを淹れるための知識は持っていたため、何の問題もないと思っていた彼女だったが。


「苦い。まずい」


 利樹の評価は低かった。

 というのも、利樹は苦いものが苦手だった。そもそもコーヒーなんて、飲みたいとすら思ったことがなかった。


 それでも、彼女は利樹に美味しいと言ってほしかった。利樹に言ってもらえたら、喫茶店を開いても上手くいくと、確信が持てるような気がしていたから。


 しかし、それを続けて半年が過ぎると、流石に彼女も苛立ったようで、利樹にいたずらを仕掛けたりもしていた。

 その時は、珍しくこってり怒られたのだが。


 それでも、その時の利樹の言葉が、彼女にとっての考え方を変えるきっかけになったのは間違いない。


 対して利樹も、順風満帆な日々だった訳ではない。


 利樹は見た目の雰囲気のせいで、子供の頃から厄介事に巻き込まれることが多かったが、社会人になっても、それは変わらなかった。


 仕事に関しては、会社の仲間たちが良き理解者として支えたくれたが、外に出るとそんな人間ばかりではない。


 少しずつ働きを認められて、仕事を任されるようになっていった利樹だったが、どうしても見た目の雰囲気が足を引っ張る。


 取引先の相手から印象だけで非難され、契約を破棄されることもあった。そのことで業績を下げ、せっかく積み上げてきた信頼を失いそうになることも。それに不貞腐れ、腐りかけたこともあった。


 そんな利樹を救い上げたのは、やはり彼女だった。


「こんなことで、あなたは負ける人なのですか?」


 信頼を勝ち取るのは時間がかかる。しかし、その勝ち取った信頼を壊すのは一瞬だ。その難しさを知るからこそ、理不尽に壊された時の悲しみは深い。

 不条理な世界を受け入れるのは、いつもどんな時でも、できる人間はいないだろう。


 それでも、彼女は利樹を信じていた。

 どれだけ打ちのめされようと、理不尽に打ち負かされようと、必ず自分で起き上がれると確信していた。


「利樹の頑張りを、私は知ってますよ。だから、心の底ではまだ諦めてないって、わかってますから」

「ちっ。当たり前だろうが」



 お互いがお互いを支え合って、お互いがお互いを大事にしている。今までと変わらないように見えて、確かに2人の関係は変わっていった。


 依存するのではなく、支え合える関係。


 結婚を意識し始めた時は、まだ関係が変わることに怯えていた部分もあった。心が定まっても、すべての不安が消えた訳ではない。


 心の何処かには、常に不安があった。

 しかしそれは、時の流れと共に薄れていく。忘れた訳ではない。不安を感じないくらい相手への信頼が強くなっていた。


 結婚をしても、2人でなら乗り越えられる。

 そんな自信が2人を強くしていった。


 そうして、時はあっという間に過ぎていく。


 ◇◇◇◇◇◇


 それは、とある冬の日だった。

 街はクリスマスの装い。雪が降っていて、光る電飾に染まる景色は、汚れのない美しい世界のようだった。


 彼女と利樹がやって来たのは、有名なレストラン。予約を取るのも半年はかかる人気のレストランだった。


 静かな雰囲気の店内は人もおらず、2人だけの空間を作り出していた。


「ふふ、そんなに緊張しなくても」


 ただ食事をするだけの動きのはずが、利樹は壊れた人形のように覚束ない。手は震えてフォークも上手く使えない程だった。


「う、うるせぇよ」


 心なしかその声さえも震えている。


「ふふ……」


 しかし、緊張をしているのは利樹だけではなかった。


 2人の間に沈黙が流れる。

 黙々と食事をするだけの時間。


 どちらも声を出すことはなく、ふと目線を相手に向けても、目は合わず、口を開くこともなかった。声を出すことはできなかった。


 やがて、最後の料理が運ばれてくる。


 ここまでお互いに沈黙をしていたのは、人生で初めてかもしれない。


 彼女はまた、目線を利樹に向ける。

 そこでちょうど利樹と目が合った。

 今日初めて目線を合わせた。


 彼女はそれに動揺し、すぐに目をそらしてしまう。不安そうに揺れる彼女の目を見て、利樹はハッと気付いた。


「お、美味しい、な」


 やっと出てきた言葉は、なんとも言えない不格好なものだった。


 気の利いた台詞とは程遠い。これならば、いつものようなぶっきらぼうな言葉の方がまだ場は和んだことだろう。


 しかし、そんな不器用さこそが利樹らしくもあり、彼女は思わず笑ってしまった。


「ふふ、ええ、美味しいですね」


 一度言葉が出れば、後は難しくなかった。


「ですが、黙ったままの食事というのも味気ないですね」

「そ、そうだな。悪い」

「いいえ、私も同じですから」

「いや、それでも俺が……」


 お互いにお互いを庇い合って、結局どちらが悪いのかもわからなくなり、それが可笑しくて2人同時に笑ってしまった。


「すみません。緊張をしてしまったようです」

「ああ、俺もだ」


 また少しだけ沈黙が流れる。

 しかし、今度の沈黙はすぐに終わった。


「あの、さ」

「……はい」


 改まった様子で利樹が口を開いた。

 その真剣な雰囲気に、彼女は居ずまいを正し、真っ直ぐに利樹を見つめる。


「真剣な話があるんだ」


 利樹の声は震えていた。

 次に続く言葉はわかっている。


 その言葉は一度言われたことのある言葉だ。

 利樹だって、一度は口に出しているはずだ。


 それにも拘わらず、ここまで緊張しているのは、それだけ2人の感覚が普通に近付いたということなのだろう。

 これまでの日時を積み重ね、本当の意味で家族というものに向き合った結果だ。


 彼女は気付かれないように息を飲んだ。


 利樹の言葉は予想がつく。それに対する答えも決まっていた。しかし、実際にその言葉を聞かなければ、彼女も安心できなかった。


 ここぞという時に、利樹は二の足を踏む。

 緊張で口が動かない。


 必死に言葉を紡ごうとする利樹の手を、彼女は優しく握った。

 大丈夫。そう心を込めて。


 やがて、意を決した様子で利樹が口を開いた。


「お前を必ず幸せにする。俺と結婚してくれ」

「はい。喜んで」


 彼女は涙を流した。

 嬉しくて涙が止まらなかった。


 これから先、2人でならどんな困難も乗り越えられる。そう確信していた。


 これ以上の幸せなんてない。

 彼女にとって、この日は決して忘れることのない最良の日になったのだった。

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