第12話 とある幸せだった女性の話 一

 付き合う。つまりは交際すること。それは、彼女と利樹にとって未知の領域だった。


 変化なんてないと思っていた。

 だから、女子生徒から付き合ってみれば良いと言われた時も、そんなものに意味はないと呆れたものだ。


 それでも押し進める女子生徒に、やがて彼女も逆らうだけ時間の無駄だと折れて、利樹と正式に付き合うことにした。


 彼女の想像通り、付き合い始めは確かに変化はなかった。

 あえて言うとしたら、2人で同棲をするようになったりもしたのだが、それも大きな変化とは言えない。元に戻っただけ。

 しかし、その変化は少しずつ起きていた。


「利樹。仕事に遅れますよ」

「んあ? あー」


 利樹は眠そうな目を擦りながら、気だるげな声で返事をする。しかし、声は出すものの動こうとする気配はなかった。


 今までは、一人暮らしでもしっかりと起きて仕事に行けていたはずなのだが、彼女と同棲を始めてから、利樹はだらしない生活を送るようになっていた。


 これは、施設で生活をしていた時から同じだ。彼女がいると、利樹はその優しさに甘える癖がある。本人は否定するだろうが、その癖は本当に幼い頃からの癖であるため、本人がそれに気付くことはなかった。


 布団を剥ぎ取り、カーテンを無情に開ける。

 彼女も彼女で利樹に遠慮することはない。


 2人が暮らすのは、古いアパートの一室だ。

 居間と寝室が分かれているような高級なものではなく、あるのは居間とキッチンだけ。トイレはあるが風呂はない。


 そんな小さな部屋では、食事をするスペースも限られている。

 利樹が布団を広げて眠っているということは、必然的に彼女の食事をするスペースもないという訳で。


「ほら、もう朝御飯できてますよ」


 ベシベシと利樹を叩いて、彼女は利樹を横にどかす。そうして、なんとかスペースを作ると、彼女は1人で食事を始めた。


 微睡みの中にいる利樹だったが、目の前から香る美味しそうな料理に少しだけ目を開ける。


「朝めし、か」

「早く食べないと遅刻しますよ」


 綺麗な所作で彼女が味噌汁を口に運ぶ。

 ただ食べる姿だけでも彼女は魅力的で、利樹の頭はそれで完全に覚醒した。


「あ、ああ、今何時だ?」

「もう6時半になりますよ」


 テレビもなく、2人の会話だけが流れている。部屋の中にそれ以外の音はなく、静かな時間が過ぎていた。


 それは別に居心地の悪い時ではなく、むしろ落ち着く時間と言っても良い。ゆったりと流れる時間は、2人にとって大切な時間だった。


 この光景を第三者が見れば、2人はすでに結婚していると思うことだろう。それだけ普通に2人の生活というものを過ごしているのだから。



 とはいえ、彼女たちはまだ、あくまでお付き合いの関係だ。その一般とは少しズレた感覚が、生活を続けるに連れて2人に気付きを与える。


「んじゃ、行ってくる」

「行ってらっしゃい。私ももう少しで出ますので」


 仕事に行く利樹と大学に向かう彼女。そして、夜になれば2人は同じ家に帰ってくる。

 それは、施設にいた時と何ら変わらない日常。施設を出てからは別々に暮らしていたが、同棲を始めてからは、また2人の当たり前の日常になっていた。


 あの頃に戻っただけ。

 そう思っていた。


 しかし、本当は違った。

 違うことに気付いた。


 利樹の弁当を作ること。

 仕事へ向かう利樹を見送ること。

 帰ってきた利樹を向かえること。

 その何気ない日常が、彼女には幸せだった。


 そしてそれは、利樹にとっても同じなのだろう。声に出さずとも、心の何処かでそれを共有していた。


 ただ関係に名前がついただけ。

 利樹の彼女となっただけ。


 それなのに、彼女たちはその日常が今までに勝る至福の時に変わっていた。



「おー。帰ったぞ」

「はい、お帰りなさい」


 行ってくると行ってらっしゃい。

 ただいまとお帰り。


 その言葉を取り交わすことが、何よりも嬉しかった。利樹が自分の元へ帰ってきてくれているような気がして、とても幸せだった。


 ◇◇◇◇◇◇


「ほら、言った通りじゃありませんの」


 付き合い始めて1ヶ月が経った頃、彼女と女子生徒は以前と同じ喫茶店に来ていた。


 そこで最近の話を報告すると、女子生徒はほら見たことかと満足げに微笑んだ。


「ええ、正直、信じられませんでしたが」


 彼女の心境の変化は、女子生徒にしてみれば思惑通りのことだった。

 

「関係に名前がつくということは、心境に変化を与えます。今までと関係が変わらなかったとしても、それは同じですわ。そのこと、なんとなくわかっていたのではなくて?」

「そうですね。そうだったのかもしれません」


 結婚を申し込まれた時、彼女は自分の知らない利樹に恐さを感じた。


 しかし、彼女は今になって気付く。

 もしかしたら、それと同じくらい、関係性に名前がつくということに怯えていたのかもしれない、と。


 今まで彼女が他人に利樹のことを説明する時、家族のような存在だと説明していた。


 その思いはずっと変わらないが、正式な関係性で言えば、彼女と利樹は家族ではない。血縁者でもなければ、籍に入っている訳でもない。

 それは、見えない絆、繋がりしかなかった。


 実際、大学の知人たちには、利樹との関係を幼馴染みとして説明している。子供の頃の話をする程でもないと思っていたし、それを抜かして、詳しい関係を説明するのは難しかった。

 それが現実だ。


「夫婦と名前がつくことに、戸惑った。今までと違う関係になるのではないかと、恐くなったということなのかもしれませんね」


 彼女は苦笑いを浮かべる。


 利樹のことを信頼し、信用し、誰よりも大切だと思っていると言っておきながら、いざ関係性が変わるかもしれないと考えると、ただそれだけで尻込みしてしまう。

 そんな中途半端にも思える感情に、彼女は落ち込んでいるようだった。


 しかし、そんな彼女に女子生徒は呆れた溜息を漏らす。


「そんなの、誰だって同じに決まっているじゃありませんの」

「え?」


 最近の彼女は、以前に比べて大分普通の女の子らしい感情を持つようになっていた。

 それは、利樹だけに固執することがなくなり、多くの人の話、例えば女子生徒の話を聞くようになったお陰とも言える。


「結婚なんて、誰だって戸惑って当然ですわ。どれだけ大切な人であろうと、これから先の一生を添い遂げる覚悟を決めるというのは、そう簡単なことではありません。そして、そう簡単に決めて良いことではありませんのよ」


 彼女に覚悟がない訳ではない。

 彼女が薄情な訳でもない。


 結婚するとは、それだけ大きなことなのだと女子生徒は語った。


「まるで、体験者のようですね」

「ふふ、わたくしはこれまで、何度もお見合いをさせられてきましたわ。見ず知らずの人と結婚をするかどうかを見定める。その経験は、普通の人よりは多い方だと自覚しています」


 その優秀さとアグレッシブな性格から忘れられがちだが、女子生徒は大企業の令嬢であり、その暮らしは一般人のそれとは程遠い。


 女子生徒に兄弟はいない。

 それゆえに、女子生徒は子供の頃から、一族を背負う存在として育てられてきた。

 一族に恥じない生活を、身分を、関係を。


 女子生徒の今までを思い返せば、思い通りにならなかったことも多い。


 女子生徒の交遊関係は、親によって選別されている。とはいえ、女子生徒の両親は寛容であり、女子生徒の自由を奪うようなことはせず、ある程度は女子生徒に委ねられてはいた。


 しかし、一族の今後を担うであろう女子生徒の婚約相手となると話は変わってくる。

 将来、必ず誰かと結婚をしなければならないと決められている。それが好きな相手との結婚とは限らないということも理解している。


 しかし、だからこそ、女子生徒は妥協しない。

 交際や結婚に対して、女子生徒ほど真剣に考えている人間はそうそういないかもしれない。


「そう、でしたか」


 女子生徒の事情を察した彼女は、ゆっくりと外に目を向ける。


 この世界には、様々な境遇の人たちが存在する。今、街を歩く人たちは、いろんな関係の人がいるのだろうか、と。

 手を組んでいる人たちは恋仲だろうか。

 少し離れて歩くのはまだ友だちなのだろうか。

 仲良さそうに歩くのは姉妹だろうか。


 では、今の彼女と利樹は。

 そう考えた時、彼女の中である1つの答えが浮かんだ。


「結婚は、まだできません」


 彼女はおもむろに溢した。


「そうですか」


 女子生徒はその言葉に、一言だけ返す。そして、彼女の心がまとまるのをただ待った。


 やがて、彼女は自分の中にある気持ちを解放するように優しく微笑んだ。


「私は、利樹が好きです。本当の家族になりたいとも思っています。だから、結婚をすることは、私も嬉しいことです」


 以前、利樹にプロポーズをされた時とは違う。心の底から、嬉しいという気持ちが溢れていた。


 しかし、その上で彼女の答えは、「まだ結婚はできない」というもの。

 しかし、それは否定的な言葉ではなく。


「でも、まだもう少しだけ、この関係を続けたいのです。家族としての責任も、義務も考えずに、ただ利樹と仲良く暮らしたい」

「ふふ、あなたらしいですわ」


 清々しい程に明るい笑みを浮かべる彼女は、すべてが吹っ切れたようで、声も明るくなっていた。


「ですが、別に結婚だけが、幸せの形ではありませんわよ? あなた方なら、そんなものがなくても、上手くいくと思いますけれど」

「ええ、そうかもしれません。でも……」


 そこで言葉を区切り、彼女は照れ臭そうに顔を赤くする。しかし、口元はにやけていて、感情を隠しきれていなかった。


 女子生徒は呆れたように、ジトッとした目で彼女を睨んだ


「また惚気ですか?」

「いいえ、違いますよ。……とも言いきれないですね」


 呆れた様子の女子生徒ではあるが、その顔は優しく、彼女の心の成長を嬉しく思う姉のような表情をしていた。


「まったく。ここまで言ったんですから、もう最後まで話なさいな」


 先を催促する女子生徒に、彼女は赤くなった頬を隠すように手を添えながら、はっきりと告白した。


「いつかは、利樹との子供も欲しいですから」


 ◇◇◇◇◇◇


 それから彼女は、家に帰って利樹に自分の気持ちを告白するのだった。


「利樹、大事な話があります」

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