第11話 とある女性の話 四
大学での講義を受けながら、彼女はぼうッと呆けていた。
講義の内容なんて耳に入ってこない。ホワイトボードに書かれた文字を適当にノートに書き移すだけで精一杯だった。
その代わりに思い出されるのは、利樹がプロポーズをしてきた、あの日のことばかり。
あの時の言葉がずっと頭に残っている。
動揺という程でもないが、あの日から胸にしこりが残ったままで、彼女はどうすれば良いのか、頭を悩ませ続けていた。
◇◇◇◇◇◇
「結婚、ですか?」
「ああ。もちろん。今すぐって訳じゃねぇ。もっとしっかりと金を貯めて、自立できるようになってからの、先の話だ」
あまりにも突然な話に、流石の彼女も理解が追い付かなかった。
「それは大して気にしていません。何故、いきなりそんな話をするのですか?」
彼女の口調は、自然と問い詰めるようなものに変わっていた。それは怒っているという訳ではなく、意味不明なことを言い出す子供を諭すような。
利樹もいきなり過ぎるという自覚はあったのだろう。彼女の声音に少しだけ怯んだように声が弱くなった。
「いや、前から、考えてはいたんだ。今さら付き合うってのもよくわからねぇしな」
「それは、まあ、確かに」
それは彼女も同感だった。
利樹と恋仲になりたい訳ではない。
もはや、そういった次元の関係ではない。
そんな2人が、今と違う関係になろうとするなら、もう結婚しかないというのは彼女も理解できた。もちろん、それを本当に実行に移す気持ちは理解できなかったが。
「前から思っていた、ですか」
それはつまり、乱暴な言い方をするのなら、利樹が彼女を自分の女にしたいと思っていたということになる。
その気持ちは素直に嬉しいし、受け入れたいという気持ちは確かにあった。
しかし。
「私は、利樹と結婚したいのか、わかりません」
その言葉は拒絶ではなく、純粋な疑問だった。
まるで迷子になったような気分だ。
利樹が彼女と恋仲になろうとはしていないと予想はしていたが、そのさらに先の関係になろうとしていたなど、予想もしていなかったのだから。
「まあ、いきなり過ぎたよな」
「ええ、本当ですよ」
彼女は非難するように利樹を睨む。しかし、その視線にはいつものようの余裕はなく、戸惑いを隠しているようにしか見えなかった。
「でもな。これは、別に感情的になってる訳じゃねぇ。ずっと考えてたんだ。俺が一人前になったら、お前と結婚したいって」
何も言えなくなってしまった彼女に代わって、利樹が自分の気持ちを吐露する。
彼女にとって、利樹に求められていたということは嬉しいことであるはずなのに。今だけは戸惑いが勝っていた。
「少し、考えさせてください」
結局、その日のうちに答えが出ることはなかった。
利樹も、その答えを急かすことはなく、いつか答えられるようになってから。と言ってくれていたのだが、彼女には、それがいつになるのか、想像すらできなかった。
◇◇◇◇◇◇
「あっはははは! そんな突拍子のないタイミングでプロポーズされたんですの?」
「笑い事ではありません」
とある喫茶店で、2人の女性の話し声が聞こえてきた。
プロポーズをされてから数日が経過した頃。
どれだけ考えても1人では答えが出ないと判断した彼女は、ある人物に相談していた。
それが、高校時代の友人である女子生徒だった。
久しぶりに連絡を入れたのは彼女だ。
今でもよく食事に行ったり、遊びに行ったりと仲の良い2人だったが、今回は真剣な話あるということで女子生徒を誘っていた。
いつにもない真剣な雰囲気に、女子生徒も神妙な面持ちでここまで来たのだが、聞かされた話はなんとも可笑しくなってしまう話で、女子生徒も笑いを堪えられなかった様子。
彼女にしてみれば、あくまで深刻な悩みだったのだが、話を聞き終えるよりも前から笑われ、少しだけ不満そうに口を尖らせていた。
「まあ、利樹さんの考えていたこともわからなくはないですわ。確かに、今さら付き合ってくれ、なんて、言う意味はあまりないですから。でも、まあ……」
女子生徒の感想は、概ね彼女と同じだった。
その上で、女子生徒が感じたのは、彼女たちと女子生徒たちの認識の違い。
それは今までも、ずっとあっただろうこと。
「それも、今さらという気がしますけれど」
「……え?」
傍から見れば、2人は恋仲というよりも熟年の夫婦にも見える。
結婚をすることで関係性は変わるだろうが、今までの生活と何が違うのかと言うと、そこまでの変化はないだろう。
そもそも2人は、高校までは同じ施設で育ったのだ。共に生活するということは、すでに経験済み。お互いの私生活はお互いに誰よりも知っているだろう。その上、彼女も利樹も、お互いを家族のように大切にしている。
そうなれば、変わるのは名字くらいのものだ。
女子生徒からすれば、結婚というワードに過剰に反応しているだけで、大したことではないことのように思える。
とはいえ、彼女が本当に悩んでいるというのなら、真剣に相談に乗ろうと思っている訳だが。
「とりあえず、気持ちの整理は必要ですわね。あなたは、利樹さんとの結婚を、嫌だ、と思いますの?」
「そんな気持ちはありません」
一瞬の迷いもなく彼女は答えた。
その反応は、女子生徒も予想通りだった。
「なら、何が気になっているんですの?」
彼女が利樹に関わることで、嫌だ、という言葉を使うことはないと予想していた。
それでも、利樹のプロポーズにすぐに答えられなかったということは、他の何が気にかかっているからとしか考えられない。
女子生徒の質問に、彼女は首を横に振った。
「私も、わからないのです」
それから、彼女はポツリポツリと語る。
「私は、利樹が望むことなら、私は何でも受け入れられると思っています。ですが、それを口にしようとしても、喉から先がひっかかってうまく言えないのです。何がひっかかってるのかもわからないし、どうしてひっかかるのかも、わからないのです」
利樹のプロポーズ。彼女にとって、それは嫌な話ではなかった。むしろ、喜ばしいことにさえ思える。
であるはずなのに、彼女は答えを先延ばしにしてしまった。
その罪悪感と困惑は、彼女の人生で経験したことのない程、強い感情だった。
彼女が悩みを抱えることは本当に少ない。
今までで唯一悩んだことと言えば、友だちを作るにはどうすれば良いか、くらいだ。
それ以外で彼女が悩んだり、困ったことはほとんどない。彼女の才能があれば、どんなことだって乗り越えてしまえるから。
しかし、だからこそ、彼女は自分の悩みに弱い。何でも乗り越えることができたゆえに、乗り越えられない時の彼女は、誰よりも脆いのだ。
そもそも、それほどの事態が起きることなど、滅多にないことなのだが。
「なるほど」
女子生徒は小さく呟く。
彼女の心境をすべて理解することはできない。
彼女の境遇は、女子生徒とは違いすぎる。
しかし、その一端を想像することはできた。
これまで彼女のことを見てきた女子生徒だからわかること。
家族ではなく、友だちとして彼女と過ごしてきた女子生徒だからわかることがあった。
彼女が意識していないこと。もしくは、それを認めないようにしていることを。
それを指摘できるのは、利樹ではなく、自分だということを。
「あなたは、恐いんですわ」
「恐い? 私が、結婚を恐がっていると?」
「というより、利樹さんのことを、ですわね」
彼女は目を見開いた。
「それはあり得ません。私は、利樹を恐がってなんて……」
「まあ、言いたいことはわかりますわ。そして、それに嘘がないことも。だから、少し落ち着いてくださいな」
女子生徒は頼んでいたコーヒーに口をつける。少しだけ冷えてしまったそれは、一呼吸おくにはちょうど良い温度になっていた。
それを見習うように、彼女は心を落ち着かせるためにコーヒーを口に含んだ。苦い風味が口の中に広がり彼女の頭を冴えさせる。
そして、落ち着いたのを確認して、女子生徒が詳しく説明を始めた。
「ですが、それとこれとは話が違うんですの」
女子生徒の言葉を、彼女は黙って聞いている。
「あなたは、自分の知っている利樹さんでないことに恐さを感じているんですのよ」
「私の知らない、利樹」
その言葉に、彼女はハッとした。女子生徒の言うことは彼女にも心当たりがあった。
あの場面で、彼女は利樹がプロポーズをしてくるなんて全く思っていなかった。
いや、それ以前に、利樹がそんなことを考えているなんて考えてすらいなかった。
彼女は利樹が自分のことをどのように見ているか、ある程度はわかっているつもりだ。
いや、わかっているつもりだった。
そう思い込んでいただけ。に過ぎないのだと、思い知らされた。
「あなたは、何でも完璧にできてしまうから、すべてに完璧を求めてしまう。でも、1番近い人のことを完璧に理解していなかったということに戸惑い、恐くなってるんですわ」
人は誰しも、知らないことに対して不安を抱くものだ。それは彼女であっても例外ではない。
むしろ、彼女が最も感情的になるのは利樹のことだ。それに関わることで、不安を覚えるなど、彼女にとっては一大事なのだ。
「恐いという感情が、あなたの判断を鈍らせる。不安を強くさせる。思考が遅れる。だから、あなたは答えを出せなかったのですわ」
反論のしようのない指摘に、彼女はうつ向いてしまった。
「……その通り、かもしれません」
自分の知らなかった利樹の本心に、いつもならスーパーコンピューターのように、瞬時に答えを出せる彼女の思考が、まるでショートしたように停止してしまったのだ。
味わったことのない不具合に、直すきっかけを見つけることができなかったのだ。
そして、それがわかっても尚、彼女にはそれを直す方法がわからない。停止したままの思考は、答えを導き出せず、ずっとエラーを起こしたままだった。
その事実に落ち込み、うつ向いたまま顔を上げることもできない彼女。
天才なんて言われていても、こんな姿はただの少女そのもので、女子生徒は得意気に微笑む。
彼女のライバルとしての自負がある女子生徒は、彼女に頼られ、助けることができることに喜びを感じていた。
いつもなら、これだけ弱っている彼女に何か勝負でも挑んで、初めての勝利をもぎ取りたいと思うのだが、それを我慢できるくらいには、彼女は幸福感を抱いていた。
「その上で、わたくしからアドバイスですわ」
「アドバイス、ですか?」
女子生徒の顔はにこやかで、楽しげだ。
女子生徒の内心を察した彼女は、苦笑いを浮かべながらも、素直に女子生徒の話を聞くことにした。
「どんなアドバイスですか?」
「簡単なことです。あなたは、あなたの知らない利樹さんを不安に思っているのですから、もっと利樹さんを知るべきです」
「それはそうですね。でも、もう知らないことなんて……」
同じ施設で一緒に暮らしていた2人だ。
私生活ですら、知らないことはほとんどない。
互いの本心以外は。
しかし、本心なんてものは、そうそうわかり合えないものだ。今の彼女がそうであったように。
「ええ、ええ、お気持ちはわかります。でも、まだ試していないこともありますわ」
「試していないこと? それは何ですか?」
これまでの生活以上に互いのことを知ることなんて、彼女には思い付かなかった。
本当にそんなものがあるのかと、彼女は怪訝な表情で女子生徒を見つめるが、女子生徒はあくまで自信満々だった。
「あなた方が、意味がないと、スルーしていることですわ。もう、わかりますわね?」
「え? ですが、それは……」
意味がないと始めから切り捨てていたこと。
それを聞いて、彼女には1つ思い浮かぶものがあった。しかし、それが意味のあることなど到底思えない。利樹ですら、そう思っていたはずだ。
しかし、女子生徒は譲る気配はなかった。
「ふふ、そうですわ。あなた方。一度、ちゃんと付き合ってみなさいな!」
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