第9話 とある正義感の強い女性の話 四
「父さん。話があるの」
剛毅は冷や汗を流していた。
というのも、仕事から帰ってすぐ、上着を脱いでいた頃に、突然、娘である冴子から、真剣な表情でそんなことを言われたからだ。
剛毅は誰よりも冴子の性格は知っている。
この声音は、真面目な話をしようとする時のそれだ。しかも、この雰囲気は仕事に関わること。
先日の質問を踏まえれば、十中八九、玲美の件に関することだと予想ができた。
玲美の存在を隠そうとしていた剛毅ではあったが、冴子ならそう遠くない内にバレてしまうだろうとも思っていた。
ここまで早いとは思っていなかったが。
冴子は正義感が強い。
それは例え父親であっても揺らがないものだろう。と、剛毅は思っていた。
そして、自分のやっていることが、かなり危ない橋を渡っているものだということも。
だからこそ、剛毅はヒヤヒヤしているのだ。
「ど、どうかしたのか?」
「そんなに畏まらないで。少しだけ、話を聞きたいだけだから」
剛毅は職務質問を受けたことがない。同僚たちも、することはあっても自分が受けたことはほぼないだろう。
しかし、もし受けたとするならば、こんな感じなのだろうと、剛毅は簡単に想像できた。
「わ、わかった」
流石に警察に突き出されることはないだろうと思いつつも、冴子ならば、もしかしたら、という不安もあり、剛毅はおどおどしながら冴子の後ろをついてリビングへと向かっていった。
◇◇◇◇◇◇
リビングに郁江はいなかった。
カチャカチャと食器の音は聞こえてくるので、キッチンで剛毅の食事の準備でもしているのだろう。
普段なら、冴子と2人っきりでも大して気にしない。
いや、むしろ、剛毅にとって愛娘との時間はとても貴重なのだが、今日だけは、郁江がいないことが、この上なく心細かった。
先に席に座る冴子は、平然とした様子で剛毅が座るのを待っている。
あまり長く待たせる訳にもいかず、剛毅は意を決して冴子の前に座った。
「で、話とは?」
焦る剛毅は、まず本題を求めた。
自分の予想が当たっている自信はあったが、間違っていた場合、変に気負いしていたのが馬鹿らしくなるからだ。
とはいえ、そんな間違いはあり得ないのだが。
「えぇ。玲美さんのことについてよ」
たった一言で、剛毅の懸念は確信に変わった。
この時点で頭を抱えたくなるが、それを表情には出さず、あくまで平然とした様子で、冴子の話を聞いていた。
「彼女のことを、知ってるのか?」
「えぇ、勝手に調べてしまったわ。ごめんなさい」
冴子は頭を下げる。
それは律儀な冴子らしい行動だったが、正直、剛毅としては気が気じゃなかった。
わかっていたことではあるが、着実に話題は剛毅の思う悪い方向へと進んでいる。
だが、ここまで来てしまっては、何も言い訳などできない。覚悟を決めて、剛毅は冴子の話の続きを待った。
「父さんは……、えっと」
しかし、いつもの冴子と違う態度に、剛毅は少しだけ違和感を持った。
普段の冴子は、きっぱりと言いたいことを言う性格だ。こんな歯切れの悪い話し方をするような性格ではない。
それがどういう訳か、今日に限って冴子は、言いづらそうに口を結び、言葉を選んでいるようだった。
幼い頃から、冴子はしっかりとした性格で、手間がかかったことなどない。
年齢に合わず自律した冴子は、剛毅にとって、寂しくなる程に優秀な子供だった。
そんな姿しか見たことのない剛毅は、今の冴子の姿に驚きを隠せなかった。
何かを言おうとしながらも、上手く言葉が出てこずに、途中で止めてしまう。
それは、言いたいことを言えずに戸惑う普通の子供のようで。
それでも、必死に言葉にしようとする冴子を見ながら、剛毅はさっきまでの自分を恥じた。
自分のことしか見えていなかったことを。
剛毅は誰よりも冴子の性格は知っている。
であるならば、冴子がどれ程優しい性格をしているのかも知っているはずだった。
冴子がどれ程、家族を大切に思っているかを知っているはずだった。
それを思い出すと、剛毅から自然と言葉が漏れた。
「冴子、大丈夫だ。父さんはしっかり答えるから、ゆっくり話しなさい」
「……父さん」
どんな言葉を言われても、例え断罪されようと、冴子の父親であるということに違いはない。
固く覚悟を決めた剛毅に、冴子はホッとしたように表情を緩め、そして、真剣な表情に変わった。
「ありがとう、父さん。じゃあ、改めて聞くわ。父さんは……」
◇◇◇◇◇◇
冴子が玲美の喫茶店に来てから、数日が経っていた。
その間、特に冴子が来ることもなく、剛毅から連絡が来ることもなかった。
平穏無事、と言えるのかもしれないが、このままでは終わらないというのも、玲美にはわかっていた。
そんな中の、今日。
遂に聞こえてきた足音に玲美が気付くと、トシさんもスッと起き上がった。
「ついに捕まっちまうのかぁ」
トシさんはケラケラと笑う。
「殴りますよ?」
玲美は笑顔のまま言う。
それに怯むことなく、トシさんは、「おお、恐い恐い」なんて言って、何処かへと行ってしまった。
それに溜息を漏らして、玲美は居ずまいを正す。それと同時に、カランカランと音を鳴らして、その人は入ってきた。
「入ってもいいかしら?」
「ええ、もちろん」
やって来たのは、もちろん冴子だ。
許可をもらった冴子は、迷うことなく玲美のいるカウンターへと向かう。
「ブレンドコーヒーを」
「かしこまりました」
2人の間には、妙な緊張感があった。
意図して作った空気ではない。しかし、自然と流れるその空気感は、他人からすれば、なんとも居づらい空気感だった。
トシさんが去っていったのは、こういった空気になると予想してのことだったのだろう。
コーヒーを淹れる音だけが、コポコポと聞こえる。
「先日のことだけど……」
しばらく黙ったままだった冴子が、唐突に口を開いた。
「はい」
玲美は余計なことは言わず、ただ一言で答える。
「父さんと話してみたわ。そして、少しだけ、わかったことがあるの」
「そうですか。それはどういう?」
玲美は特に気負いせずに尋ねる。
冴子が導き出した答えがどんなものなのか、それは玲美にはわからない。しかし、その答えが何であろうと、玲美は受け入れるつもりだった。
そんな思いを察したのか、冴子は勿体ぶることなく、単刀直入に伝える。
「今回の件は、保留にするわ」
「あら、そうですか?」
1番予想していなかった答えに、玲美は驚いていた。傍から見ると、そこまで驚いているようには見えないだろうが。
そしてそれは、冴子も同様だったようだ。
「そんなに驚かないのね」
「いえいえ、これでも驚いていますよ。冴子さんは、そこら辺、バッサリ行くタイプだと思っていたので」
「バッサリって。まあ、そうかもしれないけれど」
◇◇◇◇◇◇
あの日、冴子は剛毅に1つ質問をした。
それは。
「父さんは、父さんにとっての正義とは、何?」
「父さんにとっての、正義?」
単純で曖昧な質問。
しかし、真剣な表情の冴子に、剛毅は一瞬だけ考えて、答えを返した。
「困っている人を助けること、かな」
「……あ」
そう言われて、冴子は思い出した。
それは昔、一度だけ、冴子は剛毅に、どうして警察官になったのかを尋ねたことがあった。
「それはな、困っている人を助けたいと思ったからだよ」
剛毅は警察官として、いや、それだけでなく、困っている人は放っておけない性格だった。
道端で困っているおばあちゃん。
転んで泣いている子供。
コンビニの前でヤンキーに絡まれている学生。
どんなに些細なものでも、大きなものでも、剛毅は困っている人を見過ごさなかった。
そんな剛毅を見て、冴子は育った。
剛毅が警察官で、正義を全うする仕事をしていると理解できた頃からは、正義について深く考えるようになっていったが、最初の始まりはそんな単純な話だけだった。
正義とは。
正しいこととは。
冴子にとっての始まりは、そんな高尚なものではなく、ただ単純に、困っている人を助ける剛毅がカッコいいと思ったからだった。
それを思い出した時、冴子の揺らいでいた正義感が、強い光を放ったような気がした。
「そう。そうなのね。そんな単純なことを、私は忘れていたのね」
「失望、してないのか?」
恐る恐るといった様子で、剛毅が尋ねてくる。
そんなみっともない剛毅に、冴子はおかしそうに笑った。
「どうして? すごく、素敵な理由だと思うわ。私なんかより、ずっと」
最後に小さく呟かれた言葉は、剛毅の耳には届かなかった。
それでも、その言葉に込められたものは、焦燥や諦めではない。
次なる目標に向けた決意の表れのようだった。
「父さん。私、やっぱり、まだまだ勉強が足りないみたい。もっと勉強しないと、ちゃんとした正義なんて、わからないみたいだわ」
「そうか? お前は十分勉学に励んでいると思うが……」
向上心の塊のような冴子だが、やりすぎは禁物だと剛毅は制止する。
しかし、そんな剛毅に対して、冴子は悪戯っぽく笑う。
「いいえ、それでも足りないわ。だって、そうじゃないと、父さんを断罪しなければならないもの」
「うっ!」
それ以上、言葉は出てこなかった。
それでも、その場に流れる空気は穏やかで、2人から、どちらからともなく笑みが溢れる。
「はぁい。ご飯の用意ができたわよ」
そんなタイミングで、準備を終えた郁江がリビングへとやって来た。
話は途切れてしまい、答えは出ていない。
それでも、冴子の表情は清々しいものだった。
◇◇◇◇◇◇
「私は、難しく考えすぎていたのね。私の根本にあるものは、父さんみたいに、ただ単純に、誰かを助けたかっただけなのに」
玲美に言われた言葉。難しく考えすぎ。
最初、冴子にはピンと来ない話だった。
玲美の話を詳しく聞いてもなお、それは変わらなかった。
だがしかし、剛毅の話を聞くと、自然とすんなり受け入れることができた。
それは、今までずっと目標にしてきた人からの言葉だったからか。それとも単純に、父親からの言葉だったからなのか。
どちらにしても、結果的には玲美の言った通りだったと認めるしかないだろう。
冴子の求める答えは、誰よりも近い、剛毅が持っていたのだから。
冴子の中にあった正義感は、まだ答えが出ていない。未だに発展途上の正義感は、これからも追求していかなければならないものだ。
しかし、その道筋は少しだけ明るく見えた。
ゴールは見えなくても、目の前の道だけは見えている。ならば、その道を突き進んでいこう。
冴子には、それをするための足も、実力もあるのだから。
迷いの消えた冴子の瞳には、不安などもうない。あるのは、先を見据える真っ直ぐな視線だけだった。
「ふふ、悩みが立ち切れたのなら、何よりです。それで、保留、というのは?」
話が落ち着いた所で、ふと玲美が、それを尋ねた。
玲美が警察の仕事に首を突っ込んだこと。そしてあまつさえそこで、暴力を振るったこと。
それらについて、冴子は保留すると言った。
その理由をまだ、玲美は聞いていなかった。
冴子は少しだけ苦笑いを浮かべ、玲美を見る。
「そのままよ。今の私では、あなたが悪なのか、正義なのか、判断がつかない。だから、保留」
「ふふ、私が正義である可能性が、まだ残っているのですね」
「ええ、極微少ながらね」
冴子は挑発的な笑みを見せる。
が、玲美は平然とそれを返すように笑った。
「でも、勘違いしないで。暴力を振るったことは、間違いなく悪いことだと思ってる。だから、これは経過観察というものよ」
「ふふ、ああ、なるほど」
2人の間には、奇妙な敵対関係が結ばれたようだ。いや、敵対関係と言うのか微妙だ。むしろ、全く逆で、不思議な信頼関係と言えるのかもしれない。
どちらにしても、不思議な繋がりを感じていたのは変わりなかった。
「だから、またここに来ることもあるわ。あなたが、何か悪いことをしていないか、確認するためにね」
言葉とは裏腹に、冴子の表情は柔らかい。
まるで、遊びに来ると言っているようなテンションで、玲美は嬉しそうに微笑んだ。
そしていつもの台詞を、何でもないように冴子にも。
「ええ、喜んで。今後もこの喫茶店をご贔屓に」
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