第9話 とある正義感の強い女性の話 三

「時に、冴子さん。いきなり質問になってしまって申し訳ないのですが、冴子さんにとっての正義とは、何ですか?」

「私にとっての正義とは、決められたルールを守ることよ」


 ただの一瞬も淀むことなく、冴子は玲美の質問に答えた。


「もちろん、ルール自体が間違っていないか、見極める必要はあるわ。でも、基本的には、ルールには従うべき。そう考えている」

「なるほど。すごく分かりやすく、そして、揺らぎがありませんね」


 冴子の中にある正義は、子供の頃から変わっていない。

 考え方に多少の変化はあっても、その本質は変わっていなかった。むしろ、変化というよりも、洗練されていったと言う方が近いだろう。


 その1本の信念は、今も昔も冴子の行動原理になっている。


 冴子が警察官を目指そうとする前、将来の夢は2つあった。


 1つは今と同じ警察官。

 そしてもう1つは、政治家だ。


 ルールを守る者とルールを作る者。

 そのどちらもが、冴子にとっては大切なものだと思っていた。


 ちなみに、最終的に警察官を目指したのは、父親の後を追ったというのが1番の理由だ。冴子自身は気付いていないが。


 冴子の答えを聞いて、玲美は考え込むように目線を下に向ける。


「私の基準では、正義とは、自分の中の譲れないものであり、そして、それに責任を、覚悟を持てるもの、です」


 その言葉には、自信が感じられない。

 本人も言っていたことだが、自分自身の考えではないということが影響しているのだろう。


「随分と、曖昧なのね」


 しかし、そこには触れず、冴子は率直な感想を述べた。


「そうですね。何処までも感覚に頼った正義感です」


 玲美は苦笑いだ。しかし、少しだけ嬉しそうに見えるのは、冴子の勘違いなのだろうか。


 そんなことを考えていると、不意に玲美が口を開いた。


「ですが、大抵の人は、その程度の認識なのではないでしょうか」

「……それは、そうかもしれないわね」


 冴子にとっての正義は、他人にも分かりやすい明確なものだ。

 納得できるか、できないかはともかく、その意味が理解できないということはないだろう。


 しかし、それが正義であると頭ではわかっていても、実際に実践できる者は少ないし、時によってはそれとは全く違う行動を取ることもある。


 では、それはすべて悪なのか。

 答えは否。

 少なくとも、冴子はそれらをすべて悪だと言いきることはできないでいた。


 そこには様々な状況や心境、そして、前後関係や時代の考え方など、数えきれない程の要因がある。

 それらを考慮せずに、正義と悪を切り分けるのは、冴子からすればただの独り善がりだった。


 玲美の言っていることは、至極真っ当だ。


 誰もが冴子のように、明確な正義感を持っている訳ではないし、揺るがない基準がある訳でもない。


 玲美ならば、あるいは、と思っての質問だったのだが、結局は最初の答えの通り「わからない」というのが答えなのだろう。


「まあ、それが普通というのは、確かね」

「ふふ、ええ」


 だが、その答えでは、玲美を見極めることはできない。

 ここに来た目的は、玲美の人物像を見極めること。もし、玲美が悪であるならば断罪し、正義を持っているのなら、また改めて考えようと思っていた。


 だが、結論とすれば、今はどっち付かずといった状況だ。

 悪人だとも、善人だとも言い切れない。そんな煮え切らない状況に、冴子は頭を悩ませる。


「でも、それなら、父さんは……」


 うわ言のように漏れる一人言は、冴子の本心から漏れ出た言葉だった。



「冴子さん。あなたが今日ここに来たのは、私を見極めるため、と仰っていましたよね?」

「ええ、そうよ」

「ですが、本当に知りたかったのは、私のことではありませんよね?」

「え?」


 玲美の鋭い指摘は、冴子自身も自覚していなかった本質へ向けられたものだった。


「冴子さんは、揺るがない正義感を持っている方なのでしょう。そして、それと同時に、すべてを1か0で語ることはできないと理解もされている。だからこそ、今の状況に、不安を感じられているのでしょう」

「不安? 私が?」


 思いもよらぬ指摘に、冴子はキョトンと目を丸くする。


 不安を感じている自覚などなかった。ましてや、今の流れで自分が不安に思う要因など、何もないように思える。

 しかし、何故か、それを全力で否定することもできなかった。


 何とも言えぬ感情を抱えながら、冴子は玲美に続きを求める。


「私が何に不安を持っていると言うのかしら?」

「自分の中にある正義が、揺らぎそうになっていることに、です」


 玲美の言葉に、冴子は強く反発する。


「それはあり得ないわ。私の正義に対する価値観は、揺らいでいない」

「では、何故、私を悪だと言い切れないのですか?」

「それは……」


 玲美に言われて、冴子は自覚する。


 今までの話を聞けば、玲美は特に大義を持つ訳でもなく、他者に暴力を振るったことになる。その相手が、犯罪者であっても許される道理はない。

 しかも、最後の確認事項であった質問に関する答えも、「わからない」というもの。


 冴子の持つ基準に従うのなら、今までの情報だけで、玲美を悪人と言い切っても良いはずだった。


 だが実際には、冴子はそれを判断しかねている。


 それは何故か。


「恐らく、私を悪だと言えば、あなたのお父様も悪だと言わなければなくなる、という不安があるのでしょう」

「っ! そんなことっ!」


 咄嗟に否定しようとして、冴子は言葉が出なかった。そんなことはない、と強く言える自信が自分にはなかったから。


 それを見て、玲美は話を続ける。


「それは、普通の感覚です。自分の親を悪者にはしたくないですからね。でも、あなたはそれが許せない。だから、許せる理由を欲していた」


 本来、冴子なら最初からわかっているはずだった。剛毅の行いは、限りなく黒に近いグレーであることを。


 だが、冴子はそれを認めたくなかった。

 だから求めた。正当な理由を。


 ここに来た本当の理由は、それだった。


 例えば、剛毅は玲美に騙された。それ自体は非難されるべきことだが、それならば、次から気を付ければ良い。


 例えば、玲美は善人であり、その行動の裏には確固たる正義の意思があった。正義の形は1つじゃないのだから。


 だが、それらの答えを、玲美は提供してくれなかった。


 だから冴子は、自分自身の正義に何か問題があるのではないかと疑う。


 その思考は、明らかに身内贔屓であり、自分の正義をねじ曲げることに繋がると、心底では気付いていた。

 そのことが、冴子は不安だったのだ。


 すべてを語られずとも、聡い冴子は自分の思考を冷静に分析できた。

 そして、玲美の指摘が間違っていないということにも気付く。


「そう、ね。その通りだわ。私は、自分の中にある正義感が、ただ家族というだけで揺らいでしまうことに、不安を覚えた。ええ、その通りよ」


 それを認めてしまえば、これまでの行動もすべてに合点が行く。


 何故、玲美の正義感にこだわったのか。

 それは、父親を悪だと断罪したくないがための行動。ただの言い訳探しだった。


 冴子は自身の正義に誇りを持っていた。確固たるものだという自信があった。


 だが、それらも、父親にそれを適用するのかという、ただ1点だけで揺らいでしまう。


 それがわかってしまうと、冴子は自分が滑稽に見えてきた。

 必死で正義の名の元にここまで来たと思っていたら、結局はただの言い訳探しだったのだから。


 何も言えなくなった冴子と玲美の間には沈黙の時間が流れる。

 居心地の悪い、気まずい雰囲気だ。


 冴子は黙ったまま、自分の意思の弱さにうちひしがれる。



 そんな時。


「私は、鮫島さんが悪だとは思いませんけどね」

「……え?」


 自己嫌悪に陥りそうになった冴子の耳に、玲美の優しい声が聞こえてきた。


「私が悪かどうかはともかく、鮫島さんは悪ではありませんよ」

「どうして、そう言えるのかしら?」


 冴子の価値観で言えば、剛毅の行動はどちらかと言えば悪だ。少なくとも、正義ではない。


 自分でもそう言えてしまえる状況で、玲美がはっきりとその考えを否定してきたことに、冴子は納得がいかなかった。


「ふふ、これはあくまで、私の価値観ですよ。理由は、私は鮫島さんに救われたことがあるから、です」

「救われた?」

「はい。昔の話ですけどね。その時は、鮫島さんや私の友だちたちには、本当に迷惑をかけました。内容は、秘密ですが」


 笑顔で唇に人差し指を当てる玲美は、その真意を覗き込ませない虚無のような瞳をしていた。


 それに微かにゾッとしながらも、冴子は毅然とした態度を崩さない。


「父さんが、あなたを救った。だから、父さんは善人だと?」

「ええ、シンプルでしょう?」


 冴子の正義が、悪いことをしないこと。だとするならば、玲美の価値観は、良いことをすること。ということだろうか。

 どちらにしても、分かりやすいという点では、似ていると言えるのかもしれない。


 だが、そう簡単に納得できるものでもなかった。


「冴子さんは、難しく考えすぎなんですよ」


 玲美は少しだけ可笑しそうに笑う。


「私は悪。鮫島さんは正義。それでいいじゃありませんか」

「……あなたは、悪なのね」

「ふふ、ええ。言い逃れなんてできませんから」


 冗談なのか。本気なのか。

 冴子には全くわからなかった。


 だが、1つ言えることは、玲美は何も考えずに適当なことを言っている訳ではないということ。


「冴子さんにとって、正義は揺るがないもの、なのかもしれませんが、現実には正義は揺らぎます。もしかしたら、土台からして砂上なのかもしれません」

「それはわかっているわ。それでも、それは貫き通さなければならないことでしょう?」


 自分の中にある正義。冴子はずっと、その正義を信じてきた。そして、そのために人生を費やしてきた。


 例え、完璧ではないとしても、それを求めることを止めてしまえば、冴子の今までの努力が無駄になってしまう。

 それが冴子は恐かった。


「ええ、そうかもしれません。ですが、やっぱり、難しく考えすぎなんですよ」

「さっきも言っていたわね。どういう意味?」


 冴子の瞳は恐れに揺れていた。

 玲美の言っていることは、冴子の思考を簡単に越えていく。


 さっきだって、自分が不安を抱えているなんて、玲美に言われなければ自覚することはなかっただろう。


 故に、冴子は次の玲美の言葉を警戒する。

 またしても、自分にとって、自覚していない何かを指摘されてしまうのではないかと。


 そして、そういった予感は大抵、当たってしまうものだ。


「冴子さんは、お父様が、大好きなんですね」

「っ! な、なななな、何をっ! そ、そんなこと、いえ、嫌いじゃないけど、だ、大好きだなんて!」


 笑顔で言われた突然の発言に、冴子は顔を真っ赤にして否定した。


 剛毅がこれを聞いていたら、涙を流していたことだろう。だが、ここには剛毅はいない。だから冴子はとにかく全力で否定する。


「そ、そんなこと、今は関係ないでしょう」

「いえ、関係ありますよ。つまりは、人の感情とは、そういうものだということですから」


 玲美はあくまで真剣な様子。


「正義とか、悪とか、そんなことは関係なくて、お父様のことが大好きだから、悪だと言い切ることができない。それは、別に悪いことではありません」


 多少の恥ずかしさは残るものの、あくまでも真剣な玲美を見て、冴子は少しだけ冷静さを取り戻した。


「い、言いたいことはわかるわ。でも、それは身内を贔屓することになる。そんなことでは、正義を遂行することなんてできない」


 少し顔を赤くしながらも、冴子は冷静に反論する。


 しかし、その表情は、普段のキリッとした姿ではなく、年相応の女の子のような表情をしていて、玲美はそれを面白そうに眺めていた。


「では、お父様に直接、お話を聞いてみてはどうでしょうか? 私の所に来ていただいたように、話してみれば、新しい価値感が見えてくるかもしれませんよ」


 無邪気な様子で言う玲美に、冴子は恨めしそうな視線を向ける。


 父親が大好きだなんて言われた後に、父親と話をしてみろなど、冴子にしてみたら、どんな拷問だと言いたいくらいだった。


「嫌がらせかしら?」

「え? 何のことですか?」


 玲美の表情は、本当に何を言っているかわかっていないように見える。


 首を傾げる玲美に、冴子は溜息を漏らして、何でもないわ、と諦めたように呟いた。



「まあ、何にせよ。冴子さんの欲しい回答は、私ではなく、お父様の方が詳しいと思いますよ」

「父さんが?」

「はい。だって、多分、冴子さんの正義の考え方の根本は、お父様の影響でしょう?」

「あ」


 言われて思い出した。


 冴子が正義を考えるようになったのは、剛毅の仕事を見たことがきっかけだった。


 他愛ない万引き犯を連行しただけの仕事だったが、それでも真面目に仕事をする剛毅に、冴子は感銘を受けたのだ。


 そして、それは今までにも繋がっている。


「そう、ね。その通り、だわ」


 今回のことだって、始まりは父親のことだった。


 自分の知りたい答えを知るために、どうするべきなのか。冴子にはすぐにわかる。


「ありがとう。目が覚めたようだわ」

「ふふ、そうですか。それはよかった」


 冴子と玲美は目を合わせると、会話もせずに意志疎通ができた。

 お互いに何を言いたいのかはわかっている。だから、それ以上の言葉は必要なかった。


「それじゃあ、私は行くわ。これ、お会計」

「ええ、ありがとうございました」


 別れの言葉もそこそこに、冴子は店を出ていく。しかし、扉に手を掛けた所で、冴子は足を止めた。


 そして、振り向くと、悪戯っぽく笑って玲美を見る。


「あなたへの評価は、お預けね」

「あらら。不問にはしてくれませんか」

「ふふ、えぇ、まだ、わからないからね」


 それだけを言い残して、冴子は今度こそ店を出たのだった。

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