第8話 とある不審者の話 四

 警察に向かった善四郎は、その前で立ち止まっていた。


 周りの人間は、立ち止まっている善四郎を邪魔そうに避けながらも、特に気にする様子はなく歩き去っていく。


 その反応は、今までの善四郎にはなかった反応だ。今までなら、怪訝な顔で、怪しむような視線を向けられていた。


 もし、ここでそんな目を向けられていたら、善四郎は何もできずに帰っていたことだろう。

 それがないだけでも、善四郎の見た目が変わった効果は出ていると言える。

 そして、善四郎の心持ちも。


 手に持つのは問題の小包。

 そんなものを持ってずっと警察の前に立っているのは、怪しい者以外の何者でもない。

 が、今の善四郎には、最後に覚悟を決める時間が必要だった。


 深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。


「大丈夫。私を信じてください」


 玲美の言葉が思い出される。

 背中を押してもらったような、不思議な温もりを背中に感じた。


 そして。


「よ、よ、よし」


 震えた声は変わらなかったが、善四郎はゆっくりと、しかし、確実な一歩を前に出した。


 ◇◇◇◇◇◇


「では、次のニュースです。昨日、暴力団鐘松組の組員、幹部が逮捕されました。この組織は麻薬などを扱っており……」


 あれから数ヵ月が経った。


 ニュースが流れる。

 暴力団の組織の幹部が逮捕され、近いうちに解体されるだろうというものだった。


 それを眺めるのは玲美。客のいない喫茶店で、珍しく自分用に淹れたコーヒーを飲んでいた。


 本日は休業日のため、喫茶店に来る必要などなかったのだが、とある約束があり、ここに来ていた。


 時間まではまだ少しあり、暇な時間をニュースを見ながら潰していたのだが、そこでやっていたニュースは、玲美にとって興味深いものだった。


「ふふ、鮫島さん。仕事が早いですね」


 善四郎の件で、首謀者の逮捕のため、玲美は鮫島に協力をしていた。

 もちろん、表立って一般人である玲美が協力できるはずもなく陰ながらに、ではあったが。


 そこで玲美は、善四郎に麻薬の運び屋をさせようとしていたバイト先の人物についても調べており、少しきつめのお灸を据えていたのだが、それは鮫島との秘密である。


 とにもかくにも、今回、麻薬を扱っていた組織が、そのほとんどの機能が失われたのは確実だった。

 これで、善四郎に危険が及ぶ可能性も低くなったことだろう。


 それを満足そうに見ている玲美に、トシさんは、やれやれ、と溜息を漏らした。


「本当にお前は、直情的だよな」

「え? そうですか?」


 トシさんの皮肉に、玲美は白々しい笑顔を返す。


 玲美の知り合いの内、トシさんのように言う者はかなり少ないだろう。

 だが、玲美のことを深く知れば知るほど、トシさんと同じ感想を持つ者が増えていく傾向にある。


 それは、玲美が普段から無意識に醸し出している雰囲気に隠れているだけで、玲美自身はそれを隠そうとしていないからだ。

 だから、その一端を見るだけで、その印象はすぐに変わる。


 わかりづらいのは、どんな場面でも玲美の見た目の様子に変化がない点だろう。

 纏う空気が変わったとしても、それに気付かない人間は少なくない。


「さて、そろそろ時間ですね」


 その手の話題は、玲美にとって利のない話なので、早々に話を切り上げ、これ見よがしに時計に目を向けた。


 逃げるような玲美に、トシさんは呆れた様子で隅の方へと行ってしまう。



 それからしばらくして、喫茶店の外から誰かの足音が聞こえてきた。

 その音は喫茶店の前で一度止まり、それからゆっくりと扉が開かれる。


「お邪魔、しま、す」


 遠慮がちに入ってきたのは、少しだけ薄汚れているが、今までに比べれば大分綺麗な服を着た善四郎だった。


 善四郎の髪や髭は、玲美に切ってもらった時のようにきっちりと整えられている。


「いらっしゃいませ。どうぞ」


 玲美は善四郎をカウンターの方へと呼び寄せた。すでにコーヒーとケーキが準備されていて、準備万端といった様子だ。


 善四郎はいつもと変わらない玲美の様子に、ホッとしたような顔を浮かべ、そちらの方へと歩いていく。


 今日、善四郎がここに来たのは、来月から正式に正職員として働くことになった件について、お祝いをするためだ。


 善四郎が働くのは、製鉄所。

 特に何の資格も持っていない善四郎ではあったが、それでも快く受け入れてくれる所に廻り合い、働くことになった。


 今まで長期で働くことを避けていた善四郎が、正職員として働くような心変わりがあったのは、もちろんあの件が原因だ。



 知らず知らずとはいえ、麻薬の運び屋をさせられそうになった善四郎は、玲美に説得され、警察へと相談に行った。

 当然、警察は突然やってきた善四郎に、怪訝な様子だった。


 しかし、善四郎は下手ながらも、なんとか警察に事情を説明する。


 最初は疑いの視線を向けられていた善四郎だったが、やがて、少し年配の警察官がやって来たことで話が変わった。


 その警察官は、善四郎の話をしっかりと聞いてくれた上で、その後の対応の相談に乗ってくれた。


 仕事を紹介された経緯や紹介してきた人物。どうして請け負ったのか。受け取ったのは本当にそれだけなのか。紹介してきた人物について、何処まで知っているのか。


 事情聴取はかなり詳細に聞かれた。

 知っていることの少ない善四郎は、ほとんどの質問にわかりませんとしか答えられなかったが、嘘だけは言わず、すべてに素直に答えた。


 それが伝わったのか、最初に善四郎を怪しんでいた警察官たちも、善四郎の話を信じるようになっていく。


 それから数日は、警察からの事情聴取や報復をされる可能性を考慮し護衛をしてもらうなど、慌ただしい日々が続いたが、先日やっとすべてが解決したのだった。


 そうした日々の中、善四郎は警察と普通に話すことができるようになっていた。


 そう、普通に。

 善四郎は、普通に話すことができるようになっていた。


 今までのように、自分の話など誰も聞いてくれない、誰も自分のことを信じてくれない、と諦めていた時とは違う。

 本当に、普通の人と同じように、善四郎は誰かと話すことができるようになっていた。


 それは頭ではわかっていたが、心では納得できていなかったこと。


 世界には色んな人がいる。

 話せばわかること。話してもわからないこと。話さなければわからないこと。そんな人たちがいる、ということだった。


 それに気付いた時、善四郎は今まで感じていた不安が、本当の意味で消えるような気がした。


 それから善四郎は、少しずつだが普通の仕事ができるように、就職活動をするようになった。

 そうして先日、遂に何十件と受けていた面接の内の1つで、合格通知が来たのだった。



「今度こそ、ちゃんと、働けるようになりましたよ」


 染々と言う善四郎に、玲美は少しだけ笑った。


「ええ、そのようですね」


 今の時代、普通に働き先を探すだけでも大変だろう。ましてや、正職員として働くのは。



 善四郎は、今までずっと自分に自信を持てなかった。最初から、自分のことなんて、と諦めていた。


 過去の経験で植え付けられた記憶は、トラウマのように善四郎の心に残っていた。


 それは仕事をする上で、いや、それに限らず、生きていく上で、常に纏わりついてくる問題だ。


 今になって思えば、善四郎が見た目を中々変えられなかったのは、変えた所で状況は何も変わらないと思っていたからかもしれない。

 そして、諦めてしまったら、そこからは何も変わることはない。


 そうしたループを抱えている人間は、大勢いるだろう。


 しかし今回、そうしたループは、玲美は強引ながらも、いとも容易く越えられてしまった。


 無理矢理変えられた現状は、善四郎にとって良い方向へと変化をもたらす。

 そこに善四郎の努力が上手くかみ合わさった結果が、今回の結果というものだろう。


 まだまだ働き始めたばかりで、この先どうなるかなんてわからない。

 また今までのように上手くいかず、すぐに仕事をやめてしまう可能性も、確かにあった。


 だが、少なくとも、今までと違う部分が確実にある。


「俺、今までずっと言い訳ばっかりだったんだなって、思い知りました」


 何を問いかけることもなく、善四郎は自分から語り始めた。


「今までは、俺だって、金さえあれば、何でもできる。他の奴らは、最初からそれを持ってる、元から恵まれた奴らなんだって、思ってました」

「ふふ、まあ、一理あるかもしれません」


 善四郎の意見は、誰もが思うことだった。

 それは金に限った話ではない。才能も、人脈も、運も、すべてにおいて言えることだ。


 自分はそれに恵まれていないだけ。

 自分だって、成功者と同じ状況ならば、すごいことができるはずだ、と。

 誰もが一度は思うことだろう。


 だがしかし、現実はそうではない。


 恵まれている者、持っている者。

 確かに存在するだろう。

 だが、それだけで上手くいくことはない。


 どれだけ恵まれていても、それを使いこなせなければ意味がない。与えられたものを有効に活用できなければ意味がない。


 少なくとも、これまでの善四郎であれば、それらを持っていたとしても、上手くいくことはなかっただろう。

 いや、もしかしたら、気付くことすらなかったかもしれない。


「自己評価程、当てにならないものはありませんよ。良い意味でも、悪い意味でも。ですが、善四郎さんは、私の言葉を信じてみて、少しは変われたんじゃありませんか?」


 自分の人生は、落ちぶれていると思っていた。

 それは、客観的な事実であり、現実、今までの人生を思い返せば、そう思うのも仕方がないと言えるのかもしれない。


 だが。


「そう、ですね。やる前から諦めるのは、早すぎました、ね」


 一度、成功してみると、今までの経験や実績を言い訳にすることはできなくなる。

 その気持ちの変化は、善四郎が働こうと思った理由でもあった。


 これは、玲美でもできないことだ。


 善四郎が変わったきっかけは玲美だが、原因は自分自身の体験によるものだ。

 結局、自身の実感がなければ、人は変わることができないということだろう。


 だが、善四郎は、玲美にこれ以上ない感謝を感じていた。自分が変われた原因は、玲美にあると信じているから。



「まあ、結局、人と話すのは苦手なまま、なんですけど、ね」

「ふふ。私と話す時は普通なのに?」


 玲美はケラケラとおかしそうに笑う。


 その笑顔が眩しくて、善四郎は照れたように目をそらした。


 そんな反応にも気分を害した様子もなく、玲美は善四郎とは別に自分用に用意していたケーキを、楽しそうに頬張っていた。


 そんな玲美を見ながら、善四郎は口の中で深呼吸をする。


 仕事を始めることになって、善四郎の心持ちは変わった。そして、その結果、もう1つの変化があった。


「あ、あの、れ、玲美、さん」

「はい?」


 勢い勇んで善四郎が声を出す。

 突然の声は中々に大きな声で、玲美はキョトンと目を丸くする。


 しかし、声を出したはいいものの、それ以降、善四郎は何も言おうとしない。

 というよりも、何かを言おうとして、中々踏ん切りがつかないといった様子だ。


 おどおどとした雰囲気は、今までの善四郎と変わらず、見た目は変わっても本質は変わっていないというのがよくわかる光景だった。


 それでも、玲美は催促することなく、ゆったりと善四郎の言葉を待つ。


 そして、意を決したように、善四郎が顔を上げ、玲美を見据える。


「あ、あの、れ、玲美さん! お、俺、れ、玲美さんのことが……」


 勢いは最初だけ。

 どんどん尻窄みになっていく善四郎の声は、最後の方は玲美の耳にも辛うじて届く程度だった。


 やはりまだ、決心がつかない様子。


 それでもなんとか、口に出そうとする善四郎に、玲美は苦笑いを浮かべ優しく微笑んだ。


「善四郎さん。性急に、何もかもを決める必要はありませんよ。落ち着いて、考えを整理してから、またお話をしてください」

「え?」

「善四郎の言いたいことはわかりませんが、それは多分、もう少し、よく考えてからの方が良いと思いますよ」


 笑顔で言う玲美は、しかし、何とも言えない雰囲気を纏っていた。

 それ以上、その話題を続けてはいけないと、暗に伝えられているようで。


「そう、ですか」

「ええ、そうです」


 まだ触れてはいけない部分がある。

 踏み込めない一線がある。


 それを思い知らされたようで。



「じゃあ、よく、考えることに、します。だから、また、ここに来ても、いいですか?」


 それでも、善四郎は諦められなかった。

 駄目元で言ってみた善四郎。だが、その表情に不安はない。


 玲美の答えはわかっていた。

 それは、誰にでも分け隔てなく分け与えてくれる玲美の言葉。

 今までも善四郎を支えてくれた言葉だった。


「ええ、もちろん。今後もこの喫茶店をご贔屓に」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る