第8話 とある不審者の話 二

「……え?」


 予想だにしていなかった発言に、善四郎は言葉を失った。


 確かに、麻薬事件となれば警察が出てくるのは避けようがなく、変に隠そうとすれば、善四郎も共犯と捉えられてしまうかもしれない。

 それは頭の中で、なんとなく理解できていた。


 しかし、善四郎は、自分は警察と無縁な人生を送っていると思っていた。今までも、そして、これからも。


 そんな善四郎に突きつけられた現実は、あまりにも信じがたいものだった。


「で、でも……」


 善四郎は必死に言い訳を考える。警察に言わずに、この場を切り抜ける方法を。


 せっかく変われると思っていたのに。

 普通の社会人になれると思ったのに。


 ここで警察に捕まったら、今後の人生は。

 想像もしたくなかった。


「善四郎さん。落ち着いてください。何も、警察に捕まる訳ではありませんよ」

「え?」


 善四郎の不安を払拭するように、玲美は静かにはっきりと言った。


「善四郎さんは、何も知らずに仕事を受けた。ですが、先に気付いたから、警察に行く。普通の流れです。事情は聞かれるでしょうが、何も悪いことはしていませんよ」


 玲美の声は優しかった。

 それが善四郎の焦った気持ちを少しだけ落ち着かせる。だがそれでも、不安な気持ちは拭いきれていなかった。


「そ、それでも……」


 玲美の言いたいことはわかる。

 それが正しいとも思う。

 それでも、善四郎は首を縦に振ることはできなかった。


 そして、思い出されるのは、今までの経験。

 善四郎の過去は、あまり思い出したいものではなかったが。しかし、忘れることのできない過去だった。


 ◇◇◇◇◇◇


 善四郎は小学生の頃から、よくいじめられていた。


 いじめられる理由は、単純。

 気持ち悪いから。


 コミュニケーションが苦手な善四郎は、上手く人と話すことができなかった。

 常に言い淀み、言葉を詰まらせ、どうしていいかわからず目を泳がせる姿は、当時の学友たちには気持ち悪く見えたのだろう。


 そんな善四郎に友だちはおらず、学校では常に1人だった。

 幸い、とは言えないが、いじめと言っても、暴力を振るわれた訳ではない。基本的に無視、からかい、聞こえるような悪口といった具合だ。

 身体的なものと精神的なもの。それに差などないのだろうが。


 とはいえ、善四郎はそれに耐えていた。

 直接的に手を出されないだけマシだと思っていた。


 善四郎の家庭は母子家庭だ。

 父親は若くして病気で亡くなっており、母親は女で1つで善四郎を育てていた。

 仕事で忙しそうにしている母親に、自分がいじめを受けている、なんて余計な心労をかけたくなかった。



 そんなある日、事件が起きる。


「お、おい! ここにあった給食費を知らないか!」


 善四郎が中学生の頃、突然、そんな声が教室に響いた。


 声を出したのはクラスの担任。

 慌てた様子で教室に飛び込んできた担任は、教壇の上を確認して、そう大声を出した。


「え?」


 担任の言葉に生徒たちが教壇を見ると、確かにクラス全員分の給食費を入れた封筒が失くなっていた。


 その学校では、当時、給食費を生徒が直接持ってくることになっており、朝のホームルームの際に、担任が回収するということになっていた。


 そもそも担任の行動は、あまり好ましくないものだったのだろうが、その担任は、集めた給食費を1つの封筒に入れて、教壇の上に乗せたままにしていた。


 もちろん、職員室に向かう際に持って行こうとしていたのだが、忘れてしまっていたのだ。


 それを思い出して慌てて戻ってくると、すでにそこには給食費を入れていた封筒が失くなっていた、という訳だ。


「え? 知りませんよ?」


 生徒の1人が言う。

 それに呼応するように、ちらほらと他の生徒たちも頷いていた。


「嘘だろ? どうしてないんだよ」


 担任は諦めきれずに教壇の周りを探し出す。

 物を退かして落ちていないか、隙間に入り込んでないか、とにかくあらゆる所を探した。

 しかし、封筒は何処にも落ちていなかった。


 生徒たちも一緒になって教室中を探す。だが、結局、封筒を見つけることはできなかった。


「やばい。やばいやばい」


 担任はかなり焦っているようだった。

 それも当然。全員分の給食費ともなれば、かなりの額になる。しかも、それを弁償するにしても、周りからの非難があるのは間違いない。


 管理体制がどうなっていたのか。それは適正だったのか。生徒の親たちや上司からの叱責を想像すると、何がなんでも見つけなければならなかった。


 しかし、1時限目も授業まで残り僅かとなり、そろそろ担当の教師が来る時間になってきた。


「くそ。とりあえず、見つけたらすぐに知らせるように。後、この事は誰にも言うなよ」


 担任はそれだけを言うと、教室を出ていく。


 それから教室の中は、なんとも言えない空気が流れていた。


「ねぇ。これ、誰かが盗んだんじゃないの?」


 ふと、誰かが口にした。


「だよね。だよね。こんなに探してもないなんておかしくない?」


 それは、何の根拠もないただの憶測でしかなかったのだが、その憶測に同調する者が現れ始める。


 そこまで真剣に考えた上での発言ではない。

 ただの面白半分。もしくは、誰か犯人がいた方が、簡単に解決できるとでも思っただけだったのだろう。


 善四郎はそんな発言をした生徒を眺めながら、自分には関係ないと話に加わることはしなかった。元々、話に加わることなどできなかっただろうが。


 しかしそれが、今回については悪い方へと話を進めてしまう。


「なぁ。そういえば、あいつ、教壇の方に行ってなかった?」

「俺も思った。いたよな」


 ぺちゃくちゃと適当な話をしている中で、不意に出てきたのは、善四郎のことだった。


「あいつが盗んだんじゃないか?」

「ありえる。あいつ、平気でそういうことしそうだよな」

「え?」


 完全なる言いがかりだ。

 まず、善四郎は教壇に近付いてはいない。そもそも、朝のホームルームからずっと、自分の席を離れてすらいなかった。


 そんな善四郎が、給食費を盗むのは不可能だ。

 他に善四郎のことを見ている者がいれば、簡単に証明できたはずなのに。


「や、やってない」


 それは叶わなかった。

 善四郎の否定の言葉は、誰にも届かなかった。


 善四郎に集まる視線は、そのどれもが疑いの眼差しで、反論を聞こうとする雰囲気はまったくない。ヒソヒソと聞こえてくるのは、善四郎の悪口ばかり。


「やっぱり最低な奴だ」

「人のお金盗むとか、犯罪者じゃん」

「おい、誰か警察呼べよ」

「ほんと、消えてほしいんだけど」


 そんな言葉たちに、善四郎は何も言い返せなかった。

 絶対にやっていないのに、言葉が出せなかった。何を言っても聞き入れてくれないことが、よくわかってしまったから。



 結局、給食費は見つかった。


 真相は、担任が普段は入れないファイルの中に封筒を入れてしまったことで、失くしたと勘違いしただけの話だった。


 犯人なんていなかった。強いて言うならば、担任が犯人だと言えるだろう。


 これで解決。

 めでたしめでたし。


 いや、そんな話ではなかった。


 善四郎に向けられた疑惑は、そのまま悪意へと変わっていく。

 一度、頭の中に芽生えた、善四郎は給食費を盗んでもおかしくない奴、というレッテルは、そう簡単に消えるものではなかった。

 それからは、より一層、善四郎の立場が悪くなる。


 とにかく、何かあれば善四郎のせいだと決めつけることが増えたのだ。


 濡れ衣も言いがかりも、善四郎が上手く反論できないことを良いことに、勝手なことを言ってばかり。


 誰も善四郎の味方をしない。

 担任ですら、善四郎以外の生徒の話を信じることが多かった。

 否定しても、反論しても、誰も信じてくれない。そんな日々が続いた。


 そんな日々の中、善四郎は1つの真理を導き出した。

 それは、善四郎が導き出した、独断と偏見による真理ではあったが、善四郎にとってはただの事実だった。


 自分は気持ち悪いから、信じてもらえない。


 そう悟った善四郎は、誰かと関わることを敬遠するようになった。


 自分の見た目は変えられない。性格だって変えられない。それが続く限り、自分の言葉は信じてもらえない。

 そう、すべてを諦めてしまった。


 その思いは、今も続いている。


 成人になり、社会に出て働くようになり、世間には色んな人がいると知っても尚、根底にあるその思いだけは消えていなかった。


 ◇◇◇◇◇◇


 過去の記憶から呼び起こされるのは、信じてもらえなかった過去。誰にも信じてもらえず、濡れ衣を着せられそうになった現実。


 今回のことも、警察に正直に話しても、信じてもらえずに逮捕されてしまうのではないか。そんな不安が、善四郎の頭の中を埋め尽くしていた。


 そんな善四郎の過去を、玲美は知らない。


 善四郎が警察に行くことを躊躇していることは見ていればわかる。

 だが、その理由になるであろう事柄は、玲美も聞いたことはなかった。善四郎にとって、過去の話は誰にも話したくないことだったから。


 それでも、玲美にはなんとなくの予想ができていた。

 具体的なことはわからずとも、善四郎との会話の節々に表れる自身のなさ、諦め、それらを考えれば、自ずと予想はできたのだ。


「善四郎さん。大丈夫です。きちんと話せば、伝わりますから」


 その上で、玲美はもう一度言う。

 善四郎に自信がないのも、何を言われた所で、それを持てないことも理解しながら。


「で、も……」


 尚も何かを言いたそうにしている善四郎だが、玲美の真っ直ぐ見つめる瞳に言葉が止まった。


 その瞳は、何処までも真剣で、しっかりと善四郎のことを見つめている。

 真剣で、そして、何処か優しい眼差しは、まるで母親のような、不安に感じていた心に安らぎを与えていた。


 善四郎の母親は、3年前に亡くなっている。


 何一つ、親孝行をできなかった善四郎は、もしかしたら、この瞬間、玲美にその面影を感じたのかもしれない。


 それでも、最後の決心がつかない善四郎に、玲美はゆっくりと話しかける。


「善四郎さん。少しだけ、お話をしましょうか?」

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