第8話 とある不審者の話 一
「これで、俺も……」
街灯もない暗い夜道を、独り言を呟きながら1人の男が歩いていた。
男は懐に入っている何かを大事そうに擦りながら、不気味な笑みを浮かべている。
周りには警官がいたら、すぐにでも職務質問されそうな雰囲気のこの男の名前は、荒畑善四郎。
薄汚れたコートにボロボロの靴。まだ20代なのだが、無造作に伸びた髪と無精髭のせいで、歳よりもかなり老けて見える。
仕事はしておらず、日雇いのバイトでなんとかその日暮らしをしている男だった。
そんな善四郎が、いつになく上機嫌なのには理由がある。
それは、臨時収入が入る見込みができたことだ。それも、ちょっとした額ではない。かなりまとまった大金だ。
それこそ、善四郎が今まで働いていた1年分の給料を軽く越えるような。
しかも、仕事はかなり簡単。
まず、依頼主である人物から大事な荷物を預かる。そしてそれを、ある場所で待つ人物に渡すだけ。たったそれだけの仕事だ。
仕事の紹介を受けたのは、バイト先にいる少しヤンチャをしていそうな男からだった。
「お金に困っているなら、良いバイトがある」
そう言われて。
どう考えても、怪しいとしか思えない案件なのだが、善四郎は高額な報酬に目が眩み、何も考えることなく引き受けていた。
というのも、善四郎にはどうしてもお金が欲しい理由があった。
実は善四郎には、恋い焦がれる人物がいる。
その人物は、善四郎にとっては高嶺の花で、お近づきになるなんて想像もできず、烏滸がましいとさえ思う。
しかし、その人物は、善四郎の不気味な風貌にも、嫌な顔もせずに接してくれる優しい人物だった。
そんな彼女に、善四郎はなんとか近付けないだろうかと、ずっと考えていた。
そこで問題になってくるのが、自分に経済力がまったくないことだ。
働く気がない訳ではない。
しかし、他人とのコミュニケーションが苦手な善四郎は、どうしても同僚たちと上手くいかず、今までの仕事も逃げるようにやめてしまっていた。
日雇いのバイトをしているのも、他人と長く関係を持ち続ける必要がないから、という理由も大きい。
しかし、それでは中々お金もたまらない。
身なりや食事にかかる金を切り詰めて、貯金の割合を増やしても、生きていくために必要な経費はどうしてもかかってしまう。
また、日雇いのバイトと言っても、毎回そう上手く見つかる訳でもなく、働けない期間が長く続くことも珍しくなかった。
そんな中で舞い込んできた割りの良いバイト。
食い付かない方が難しい話だった。
決行は明日の夜。
指定された場所の地図も貰っていたが、調べてみると、その場所は街からかなり離れた場所にある、今は使われていない倉庫のようだった。
頭の片隅では、この仕事は危ないものかもしれないと警戒する思いもあった。
だが、報酬に目が眩んでいる今、善四郎はそれに見て見ぬフリをする。
いや、もしかしたら、もう逃げられないと、直感でわかっているのかもしれない。
「すぐに行って、渡して、帰ってくる。それだけだ。それだけで大金が手に入る」
不気味に笑う善四郎は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
それは現実逃避。目に見える良い部分だけしか見ない行為。しかし、そうしなければ、この仕事をやり遂げられる自信がなかった。
「そうだ。明日の昼間は、あそこに行こう」
憧れのあの人がいる場所へ。
その場所に行くのは、心を落ち着かせるため、もしくは、助けてもらいたいから。
どちらなのか、善四郎自身にもわからなかったが、とにかくあの人にさえ会えば、それだけを考えて、善四郎は家に帰るのだった。
◇◇◇◇◇◇
「あ、いらっしゃいませ」
「こ、こ、こんにちは」
昼前の時間。サラリーマンなら、昼食の時間だろうか。
そんな時間に、善四郎はある店に訪れていた。
それは喫茶店。玲美のいる喫茶店だった。
お世辞にも良い風貌とは言えない善四郎だったが、そんなことなど関係ないというように、玲美の態度は優しげだ。
いつも決まった席に座る善四郎は、店に入ってから、1番遠くにあるテーブルに向かう。
本当は、玲美の近くであるカウンターに行きたいのだが、気後れして未だに行けていない。
そう。善四郎が恋い焦がれる人物とは、玲美のことだった。
「いつものでよろしいですか?」
「は、はい。お、お願いします」
いつも決まったメニューを頼む善四郎は、すでにこの会話だけでも通じる程に通っている。
善四郎が頼むのは、1番安いサンドイッチセットだ。軽食用なので、サンドイッチは2枚だけ。そこにサービスのコーヒーが付いている。
昼食とするには、やや物足りないメニューだが、玲美に会いに来ることが1番の目的なので、そこまで気にしたことはなかった。
自分の他に客がいることはほとんどなく、いつもサンドイッチを作る玲美のことを、密かに見つめながら完成するのを待つ。
それが善四郎のここに来た時のルーティンだ。
手際よく野菜を切っていく姿。
下を見るために伏し目になる目元。
髪をかき上げる仕草。
そのどれもが魅力的で、善四郎はジッとその姿に目を奪われていた。
もし、この仕事が成功したら、もう少しだけ玲美と関係を深めることができるのだろうか。
まとまったお金さえあれば、身なりを整えて、少しはしゃんとした大人に見えるようにしよう。
そうすれば、玲美の近くのカウンターに座ることもできる。いや、さらには、もっと深い仲に。具体的に言えば、付き合って、またさらに、その先へと。
そんなことを考えながら見つめていると、ふと玲美と目があった。
そちらを見ていることには気付いていたのか、驚いた様子はなく、少しだけ微笑んで、善四郎に問いかける。
「今日は上機嫌ですね。何か良いことでもあったんですか?」
「へ? あ、いや、へへへ」
あなたのことを考えていたんです。
とは、流石に言えなかった。
「実は、ちょっと良い仕事が見つかって」
「そうなんですか? それはよかったです」
玲美は善四郎が定職に就いていないことを知っている。
よくそのことで相談に乗っていて、実は日雇いのバイトをしているのは、玲美の進言があったからに他ならない。
そんな玲美は、善四郎の話に純粋に喜んだように顔を綻ばせる。
そんな顔を見て、善四郎はさらに舞い上がってしまった。
「そうなんですよ。まあ、これも定職って訳じゃないんですが、かなり割りのいい仕事で、しかも、簡単」
「……へぇ?」
しかし、その言葉に、玲美の視線は怪訝なものに変わった。
喜んでくれたことに舞い上がっている善四郎は、玲美の変化に気付かない。
「それは、どんなお仕事なんですか?」
「え? 本当に簡単な仕事ですよ。ただ、荷物を運ぶだけ。今日の夜に、ここに」
気を良くしている善四郎は、貰っている地図を玲美にも見せた。それを見た玲美の視線は、さらに険しいものに変わる。
そこまで来て、やっと善四郎は玲美の変化に気が付いた。
「どうか、しました?」
「それ、何を運ぶんですか?」
「え? いや、中身はプライバシーに当たるから見るなって言われてて」
いつの間にか、さっきまでの雰囲気は消え去っていた。
真剣な表情を浮かべる玲美は、地図を見ながらスマホを操作して、その場所を確認する。
「善四郎さん。その荷物、今、持っていますか?」
「え? あ、まあ、一応」
場所を確認して、さらに増す玲美の真剣な雰囲気に、善四郎は気圧されながら荷物を見せた。
するとそれを、玲美は有無を言わさずに奪い取る。
「あ!」
「……これは」
それは片手に収まらない程の大きさの小包で、無造作にテープでとめられている。
それを見た玲美は、何を言うよりも早くそのテープを破って小包を開けてしまった。そして、その中身を見て、玲美の瞳に怒りの色が灯る。
「これが何か、わかりますか?」
「え、と」
そこに入っていたのは、白い粉のようなものだった。
正直な話、見ただけでは、それが何かわからない。だが、想像はできた。
元から頭の隅では危ない仕事かもしれないと思っていたのだ。そこへ、こんな怪しい白い粉を見れば、なんとなく、予想がつくというものだ。
「麻、薬、ですか?」
「ええ、そうでしょうね。しかも、この量です。中々のものでしょうね。流石に、成分まではわかりませんが」
オブラートに包むことなくはっきりと言われた言葉に、善四郎は身震いした。
見るからに怪しい風貌をしている善四郎ではあるが、犯罪に手を染めたことはない。金に困ってはいるが、それでも、その一線だけは越えないつもりだった。
しかし、そんな善四郎に突きつけられた現実。
麻薬を運んだとなれば、疑いようもなく犯罪者となるだろう。法外な額だと知りながら、引き受けたのだ。知らなかったでは済まされない。
「そ、そんな……」
善四郎は寒気を感じた。
目の前にあるのは、麻薬の小包だ。それをもう、認識してしまっている。どう言い訳をしても無駄だ。目の前にいる玲美が、証人なのだから。
玲美の瞳を見れば、何事もなかったかのように見逃してくれる気もないのだろう。
その瞳には嫌悪が滲み、怒りが宿っている。
それを突きつけられた善四郎は、何も言えずに唇を震わせ、ただ気を失いそうになるのを耐えることしかできなかった。
「これは、誰から頼まれたのですか?」
そんな善四郎に、玲美はさらに詰め寄る。
言葉もでない善四郎だったが、なんとか玲美の質問にだけは答えた。
「前、一緒に、バイトをした、人から」
善四郎は、わかる範囲で仕事を頼んできた人物の説明をする。しかし、思い返してみれば、善四郎はその人物のことを、あまりにも知らなかった。
ただ仕事の報酬に目が眩み、その人物のことを見てなどいなかったから。
最後まで説明を聞き終えた頃、玲美は呆れたように溜息を漏らす。
「少しは警戒心を持ってくださいよ」
そう呟いた玲美は、店の隅にいるトシさんへと目線を向けた。トシさんは玲美の視線を受けて店を出ていく。言葉にせずとも、玲美の意図を察したように。何をしようとしているのか。それはまだわからない。
しかし、玲美は玲美で、やらなければならないことがあった。
「善四郎さん」
意気消沈という様子の善四郎に、玲美が声をかける。その声に、善四郎は力なくゆっくりと顔を上げた。
「善四郎さん。警察に行きましょう」
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