第7話 とある犬の災難 四

「んふふぅ」

「もう、桜は本当にトシさんに懐いたのね」


 今日も今日とて、と言うべきか、喫茶店にやってきていたのは、椿と桜だ。この2人は、あの廃墟ビルでの一件があってから、よく喫茶店に来るようなった。


 特に桜とやらは、何がどうしてそうなったのか、ものすごく俺に懐いてやがる。今もこうして俺は、桜って奴に抱きつかれている状況だ。


「ふわふわぁ」

「……もう」


 子供っぽい桜の行動に呆れているのか、椿はチラチラとこちらを見ながら溜息を吐いた。

 まあ、そうだよな。いくら小学生とはいえ、ここまでべったりと犬に抱きつくのは、子供っぽいよな。わかるぜ、お前の気持ち。


「椿さんも、試してみたらどうですか? トシさんの毛並みは私が手入れしているので、自信がありますよ」


 おいおい、玲美。お前は何もわかってねぇな。椿はそういう子供っぽいのが嫌なんだよ。


 ほら、見ろ。

 椿はどうしていいかわからなくなって、目を泳がせてるじゃねぇか。言われたからやらないといけないのか悩んでるんだよ。

 椿は真面目な性格みたいだからな。


 あーあ、顔も赤くなってて、テンパってるのがわかる。


 椿の気持ちを完璧に理解し、椿に同情していると、不意に椿の返事が聞こえてきた。


「じ、じゃあ、ちょっ、ちょっとだけ」


 なぬっ?

 嫌なんじゃなかったのかよ。


 椿は何故か少しだけ笑って俺の方に近付いてきた。そして、桜が自然に横に少しだけずれると、そこに椿が入ってきて抱きついてきた。


「ふわぁ。ほんとうだぁ」


 椿は桜と変わらない様子で俺に抱きついている。こうして見ると、椿も桜も変わらないな。結局、子供っぽいんだな。


 チラッと玲美の方を見ると、あいつ、ニヤリと得意気に笑ってやがった。俺の勘違いまで察して笑ってやがるんだろうな。

 事実だから、反論できねぇが。いや、そもそもこいつらがいる前で喋れねぇから、どっちにしろ無理だけどな。



「はい。2人とも、できましたよ。チョコクレープです」

「わあぁ! おいしそー!」


 そんなことをしている内に、玲美の奴は2人に作っていたクレープを完成させたらしい。


 さっきまでは俺にびったりだった2人も、すぐにそっちの方へ走っていく。

 わかってたことだけどな。そりゃあ、俺よりも甘いスイーツの方がいいだろうさ。別に、それで薄情な奴ら、なんて思わねぇよ。


 だがな、くそ。玲美の奴のあのどや顔は、どうにかしてやりてぇぜ。



 まあいいさ。どっちにしろ、ずっとあいつらの相手をするのは疲れるからな。


 最近は休みの日になると、あの2人はよく来るようになった。

 偶然なのだろうが、そんな日は大抵あいつらしかいない。それもあってか、あの2人はここを遊び場みたいな場所だと思ってやがる。


 適当に俺をおもちゃにして、偶に玲美も遊び相手になって。玲美の奴は子供が好きな方だからな。楽しそうに一緒に遊んだり、こうしてお菓子を作ったりと、色々と世話を焼いている。


 2人もそんな玲美に懐いていて、傍から見る分には仲のいい家族みたいだな。と言っても、玲美の見た目なら、年の離れた姉妹に見えなくもないかもしれないが。


「お母さんよりおいしー!」

「ほんとうにね。お母さんも、玲美さんに教わればいいのに」

「ふふ、そう言っていただけると嬉しいです」


 玲美は素直に笑う2人に優しく微笑む。穏やかな笑顔だ。

 やっぱり、姉妹っていうより母親の方が近いか。慈愛に満ちた顔は、いつも見る玲美の顔よりも遥かに大人びて見える。


 普段の、恐らく、英玲奈ぐらいの仲でも知らないような顔を知ってる俺だが、そんな俺でも、あんな玲美の顔は見たことがねぇ。


 ガキのお守りってんなら、最近は海人とかいう奴や尚太辺りがいるが、この2人の時とは全く違う。まあ、当たり前だが。


 しかし、玲美の奴が、結婚、か。


 想像してみるが、あんまり想像できねぇな。こいつ、男っ気が全くねぇからな。英玲奈の奴にも、よく言われてるし。そう言う英玲奈とやらも、彼氏はいないらしいが。


 まあ、いた所で玲美なら上手く隠すこともできるんだろうが、それを隠すような奴でもねぇし、本当にいねぇんだろ。


 本当は、早く新しい男でも見つければとは思うんだが、こればっかりはな。



「どうかしたの? トシさん」


 おっと。いつの間にか、桜たちはクレープを食べ終えたらしい。


 ずっと玲美の方を見ていた俺を、桜は不思議そうな顔で見ていた。だが、飼い犬が飼い主を見てるなんてよくあることだろうし、適当に無視しとけば問題ないだろ。


 知らないフリをしてそっぽを向いていると、視線の端で桜がジッと俺を見てるのがわかった。


 何ずっと見てんだ、と思っていると、こいつはとんでもないことを言い出した。


「トシさん、この前みたいにおしゃべりしないの?」

「っ!」


 思わず声が出そうになっちまった。いや、だが、仕方ねぇだろ。


 こいつ、今何て言った?

 この前みたいにお喋り、だと。


 玲美が教えたのか、と思って、そっちの方を見るが、玲美もまた驚いた顔をしていた。そして、それはすぐにジトッとした目に変わる。


「桜、何言ってるのよ。犬がしゃべるわけないでしょ」

「え? でも……」


 椿に諭されても、桜は何か言いたげな視線で俺の方を見つめてくる。その目を見れば、適当なことを言ってるのではなく、俺が喋れると本気で思っているようだ。


 しかし、どうしてそんなことを思ったのか。

 いくらマイペースなガキとはいえ、そこらの犬が喋れると思うような不思議ちゃんではないはず。


 あ。


 そういえば、と思い出した。


 ◇◇◇◇◇◇


『ぎゃあぁぁ! そっちには行きたくないよぉ!』

「あ! 猫さん!」


 しまった!

 あの猫の奴。もう大丈夫だと思ってたが、こっちに近付いてくるのも駄目だったようで、もう少しって所で、俺を見てまた暴れだした。


 何があってもすぐに対処できるようにって、近付いてたのが仇になった。


「あ!」

「桜!」

「くっ!」


 突然猫が暴れだしたせいで、桜がバランスを崩す。それを支えようと椿が手を掴むが、そんな細い腕で耐えられる訳がねぇ。

 2人は一緒にバランスを崩した。


 そのまま頭から下の階に落ちていく。


「間に合えっ!」


 考える暇なんてねぇ。俺はすぐに飛び込んだ。


 ◇◇◇◇◇◇


 咄嗟のことだったとはいえ、そういえば声を出していたような気がする。あんな状況でのことだし、どうでもいいと思っていたが、まさか覚えていたとは。


 どうするか。いや、まだ桜にしか気付かれてないみたいだし、しらばっくれればなんとかなるだろ。


 こんなガキに、俺が喋れるなんてバレたら、何をされるかわかったもんじゃない。最悪、親にでもバラされて大事になる可能性だってある。


 ここは沈黙が正解だな。

 玲美の奴も黙ったままなのが証拠だ。


 俺はできうる限りのすまし顔で首を捻ってみせる。我ながら白々しいとは思うが、こうする他ねぇしな。


 まあ、言葉を理解している雰囲気は椿にも勘づかれていたが、それくらいなら、どうとでもなる。


「ほら、トシさんも困ってるでしょ」

「でも、お姉ちゃんは聞こえなかったの? 男の人の声がしたの」

「それは……。確かに聞こえて気もするけど」


 おいおい、まずいな、これは。

 桜に言われて椿の奴もあの時のことを思い出してきたのか、微かに疑うような視線を俺に向けてきている。


「確かに、私たちの言葉を理解してるようにも見えたし、すごく頭がいいなとは思ったけど」


 ジーッと見つめてくる2つの視線が辛い。

 だが、ここで逃げるのはまずい気がする。いや、逃げないのもまずい気がするし、どうすりゃあいいんだ。


「トシさんの声は、お2人の心に届いたのかもしれませんね」

「え? こころ?」


 ここで助け船を出したのは玲美だった。

 いや、待ってたぞ。ここぞと言う時に頼りになる女だ。惚れちまうね。


 と思ったりもしたが、後でしこたま何かを要求されるだろうから、程々に感謝しておこう。


「そうです。お2人の危険に、トシさんはなんとか助けようと心に直接、語りかけたのかもしれませんね」

「こころに、直接?」


 大真面目な顔で言ってるが、そんな訳ねぇだろ。いや、犬が喋ることを考えると、どっこいどっこいなのか。


「ええ、そうです。お2人にしか聞こえない、トシさんの心の声だったんですよ」

「えぇ! すごぉーい!」

「そんなことある? でも、たしかにあの時の聞こえたし、ほんとうに、私たちだけしか……」


 玲美の説明に、桜と椿は顔を見合わせて少しだけ嬉しそうに笑っていた。


 自分たちだけの特別な体験。それは、このくらいのガキには楽しくて仕方がないんだろ。

 特に桜は、自分が興味のそそるものは、それ一辺倒になる傾向が強い。椿も桜程ではないが、その片鱗は見せていた。


 そこを的確に突く言葉を、玲美は選んだ訳だ。


 そして、最後の仕上げとばかりに、玲美は優しげに笑った後、真剣な顔に変わる。


「ですが、この秘密は皆さんとトシさんの秘密です。誰かに話したら、もしかしたら、もうトシさんの声が聞こえなくなっちゃうかもしれません」


 それは何の根拠もない話だが、まるで魔法が解けるお伽噺のような話に、椿たちは信じちまったみたいだな。

 まあ、玲美の演技のお陰でもあるんだろうが。


「お2人が秘密を守れば、いつかまた、トシさんの声が聞こえるかもしれませんね」

「守る! わたし、トシさんが話せること、誰にも言わないよ!」

「わ、私も!」


 こうして、なんとか俺の秘密を守ることに成功したのだった。


 ◇◇◇◇◇◇


「まったく。本当に、トシさんは詰めが甘いですね」

「こればっかりは、言い訳もねぇな」


 今回の件は、全面的に言い返せないことばかりだ。


 しかも、あの2人についても、今は大丈夫だろうが、今後もずっと秘密を守り続けてくれるのかはわからねぇ。

 厄介な問題を抱えちまったってことだ。


「まあ、いつかは正直に話しても良いと思いますけどね」


 やはり玲美は俺の意図を察してくれていたようだ。


 海人の奴の時は、正直、感情的にバラシちまった。美咲の奴は聡い奴だったから、そんなに心配はなかった。


 だが、あの2人はまだ本当に小さいガキだしな。悪い奴らじゃねぇのはわかってるが、ふと口が滑ることはあるだろうよ。


 当然、俺が喋れることはそんなに公にしていい話じゃねぇ。そんなことが広まれば、変な奴らが押し寄せるだろうし大事になる。


 玲美ならば、上手いことするんだろうが、迷惑をかけるのは間違いない。


 色々と思う所はあるが、それでも俺は、こいつに感謝している。迷惑はかけたくねぇんだよ。むしろ、恩返しをしたいくらいなのに。

 まあ、そんなこと、本人には絶対言えないけどな。



「そういえば……」


 気が付けば、ずっと玲美を見ていたようで、ふと振り向いた玲美と目があった。

 その目は怪しく光っており、何か嫌な予感が頭を突き抜ける。


「な、なんだよ?」

「今回の件、貸し1つ、ということで、いいですよね?」

「う、ぐ」


 やはり、すんなりとは終わらせてはくれなかったか。


「ま、まあ、な」


 しかし、予期していても避けることはできなかった。

 そりゃあそうだ。俺がここに住んでいて、相手が玲美というだけで、もう詰みなんだからな。


 ここに至っては、素直に従って、なるべく軽い貸しにしてしまった方が得策。

 まあ、そんなことを考えた所で、無駄だってわかってるんだけどな。


「ふふ、素直でよろしい。それでは、いつか、返してもらいますね」

「い、今じゃないのかよ!」

「ええ、ここぞという時のカードとして、大切に持っておきます」


 くっ。どうせそうなるだろうとは思っていたが、案の定だぜ。


 まあ、仕方ねぇ。犬生、諦めるのも肝心だ。

 こいつの飼い犬である以上、そんなことは覚悟の上。どうせ逃げられねぇんなら、男らしく座して待つさ。


「わかったよ。貸しは貸しだ。素直に受け入れてやるよ」

「ふふ、ええ、ありがとうございます」



 まったく。本当にこいつは、どうしようもねぇ奴だ。他の奴らはこいつのことを高く評価しているようだが、それは8割方騙されている。


 すごい奴なのは違いないが、性格は最悪だ。

 いつも見ている俺が保証する。


 まあ、気を付けろと注意しようにも、喋られねぇ俺じゃあ、何もできねぇんだけどな。


「おや?」


 そんなことを考えていると、コツコツと足音が聞こえてきた。


「知らねぇ匂いだな」

「そのようですね」


 お前は足音くらいの情報しかないはずだろうが。まあ、もう今更だけどな。


「さて、今日はどんなお客様が来るのでしょうか」


 今日もまた、新たな被害者が出そうだ。俺には関係のないことだけどな。


 今日も今日とて客は来る。

 できれば、穏やかな客であればいいと願いながら、俺はいつもの場所で横になるのだった。

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