第7話 とある犬の災難 三

「だ、だいじょうぶよ。い、いま、たすけるからね」


 桜とやらに声をかけながら、椿とやらがゆっくらと鉄骨の上を歩いていく。しっかりと両手で鉄骨を掴みながら、ずりずりと足を進ませていた。


 見た目よりも鉄骨は丈夫だったようで、椿とやらが乗っかってもビクともしない。

 ゆっくりと慎重に進んでいるし、これなら思ったよりも問題なく桜とやらの所まで行けるかもしれねぇな。


 猫の奴も、俺が近くに行かなければ大丈夫らしく、比較的大人しく椿とやらを見ていた。


 そうこうしている内に、椿とやらは怪我なく桜とやらの元まで辿り着いた。


「桜。よかった。けがはない?」

「うん、だいじょうぶだよ、ほら」


 笑顔で答える桜とやらは、笑顔で猫を前に突き出した。

 

「猫じゃなくて、あなたよ、あなた!」


 まったく。桜って奴はこんな時でもマイペースなんだな。ここまで来ると、逆に感心するぜ。


 とはいえ、これでミッションの半分は完了だ。

 椿とやらは、桜とやらの元まで辿り着いた。後はそこから戻ってくるだけ。さっきの感じだと、あの2人くらいの体重なら鉄骨も大丈夫そうだし、問題はなさそうだな。


 椿もそう思ったみたいで、こっちにいた時よりもホッとした顔をしてやがる。


「じゃあ、かえるわよ。ゆっくり行けば問題ないからね」

「うん」


 しっかりと手を繋いで、だが、しっかりと鉄骨も掴みながら、2人はゆっくりとこっちに向かってくる。


 本当にゆっくりとした足取りだが、逆に安心できるな。あそこまで慎重に行けば落ちることはねぇ。後は咄嗟のことさえ起きなければ。



 そんな風に考えたのがいけなかったのかもな。

 俗に言うフラグって奴だ。


『ぎゃあぁぁ! そっちには行きたくないよぉ!』

「あ! 猫さん!」


 しまった!

 あの猫の奴。もう大丈夫だと思ってたが、こっちに近付いてくるのも駄目だったようで、もう少しって所で、俺を見てまた暴れだした。


 何があってもすぐに対処できるようにって、近付いてたのが仇になった。


「あ!」

「桜!」

「くっ!」


 突然猫が暴れだしたせいで、桜がバランスを崩す。それを支えようと椿が手を掴むが、そんな細い腕で耐えられる訳がねぇ。

 2人は一緒にバランスを崩した。


 そのまま頭から下の階に落ちていく。


「間に合えっ!」


 考える暇なんてねぇ。俺はすぐに飛び込んだ。


 2人を引っ張りあげるのは無理だ。どう足掻いても、俺の口で咥えられるのは1人。落ちるのはもう止められねぇ。


 なら。


 こうするしかねぇだろ。


「ぎゃうん!」

「きゃあ!」

「あう!」


 ズドォン、大きな音が部屋全体に響き渡った。

 それと共に襲いかかってくるのは激痛。


「い、たた。んぅ」


 椿とやらの声が背中の方から聞こえてくる。


「え? ト、トシさん! トシさん!」


 霞む視界の先で、椿とやらの慌てた声が聞こえてきた。その横には桜が呆然とした様子でこっちを見ている。

 な、なんとか2人は大丈夫そうだな。


 だが、こっちは流石にきつい。


 咄嗟のことで他に方法がなかったが、俺は2人が下の階に打ち打つけられないように、無理やり飛び込んで、なんとか下敷きになることができた。


 んだが、その代償はでかい。

 身体の丈夫さには自信があったんだが、どうやら過信しすぎたみてぇだな。


 必死に俺を呼ぶ声は聞こえてるんだが、それに反応するのも無理だ。どんどん視界は暗くなって、おまけに全身が痛いはずなのに、その感覚は少しずつ薄れていきやがる。


 流石に死ぬことはねぇだろうが、これはまずいな、2人をちゃんと家まで、帰さねぇと、いけねぇっての、に。



 そこで俺の意識は途絶えた。


 ◇◇◇◇◇◇


「はっ!」


 頭が一気に覚醒して飛び起きた。


「ぐうっ!」


 と思ったが、身体が痛すぎて、またすぐにその場に踞るしかできなかった。


「まだ安静にしていてくださいね」

「え?」


 聞き慣れた声が上の方から聞こえてくる。

 見上げると、案の定、いつものあいつがいた。


「れ、玲美」

「まったく。何をやってるんですか」


 玲美は呆れた顔をして俺を見下ろしている。

 だが、その表情が安堵しているようにも見えるのは、俺の勘違いではないだろう。


「俺は、あの後どうなったんだ?」


 覚えている最後の記憶は、落ちる2人を受け止めて下の階に叩きつけられた所までだ。だが、俺は喫茶店まで戻ってきている。

 あの2人が俺をここに連れてこれる訳がねぇし、あんな場所に偶然、玲美が来たとも考えづらい。


 そうなると、どうして俺がここにいるのか全く検討がつかねぇが。


「椿さんと桜さんが大声で助けを求めていたんです。私もちょうど買い物をしていたので」


 聞けば、椿と桜は、俺が気を失ってから大慌てで、廃墟ビルから出てきたらしい。それで、人通りのある所まで出てきて、俺を助けてくれるように、色んな人に声をかけていたようだ。


 そこにちょうど玲美が通りがかって、こうして俺を連れてこれたということらしい。


「2人は?」

「もう帰しましたよ。時間も遅いですから」


 時計を見ると、完全に夜の時間だ。確かにガキが外に出ていて良い時間ではねぇな。


「大変だったんですよ? トシさんが起きるまで帰らないって言って、それを宥めるのに苦労したんですから」


 玲美は困ったように笑う。

 その顔を見れば、本当に大変だったんだろうということはすぐにわかった。


「わりぃな」

「本当ですよ」


 こちらに背を向けて、玲美の顔が見えなくなった。身体が痛くうまく動かせないせいで、玲美の表情は見えねぇが、その声からは微かに怒りの感情を感じた。


 いや、怒っているというか、むしろ悲しんでるのか、いや、よくわからないが、少なくとも、単純に怒っている、という訳ではなさそうだが。


 玲美は何も言わずに店内の掃除を始めた。

 いつもなら、鼻唄を歌ったり、どうでも良い話をしてきたりするんだが、今は何もせずに黙々と掃除をしている。


 この雰囲気は偶にある。

 こういう時は、大抵俺が話しかけてくるのを待ってるんだ。しかも、適当な話題を待ってるんじゃなく、玲美は玲美で求めている話があることが多い。

 それを外すとかなり不機嫌になるんだよな。


 まあ、今日に関してはわかりやすいだろ。

 どう考えても、あの2人のことだ。


 不可抗力とはいえ、小さなガキを危ない目に逢わせたんだ。それを怒ってるんだろうな。

 今日ばっかりは言い訳のしようがねぇ。素直に謝っておいた方がいいだろ。


「おい、玲美。今日のことだけどよ……」

「トシさんは、何もわかってませんね」

「あぁ?」


 いきなり出鼻を挫かれたぞ。

 こいつが俺の考えを先読みしてくるのはよくあることだが、今日のは特に早かった。


 俺に何も言わせないという意志がものすごく伝わってくる。


「確かに、椿さんや桜さんを危険な目に逢わせたのは、よくありません。明日、2人が来ますので、きちんと謝ってください」


 強めの口調で言う玲美は、まだこちらを見ない。だが、さっきよりも遥かに怒ってるのが伝わってくる。


 まずいぞ。この話題じゃないとすると、何の話題を待ってるのかわからねぇ。いや、焦るな。これじゃないとしても、そこまで見当外れってことはないだろ。


 今日の話なんだ。これに関係する何かというのは間違いない。だが、椿とやらと桜とやらじゃない。


 となると、残るのは。



 俺、か。

 いや、そうか。普通に考えれば、それしか考えられねぇよな。


「悪かったよ。危険なことをした」


 ただ謝ると、玲美のやつはゆっくりと振り向いた。その顔は怒っているような、それでいて、泣きそうな顔をしていた。


「話を聞いた時は、本当に驚いたんですからね」

「あぁ」


 こいつの事情は知っているつもりだった。

 俺もそれを承知の上でここにいる。だが、そのことがこいつにとって良いことなのか、悪いことなのか、それはわからねぇ。


 少なくとも、俺がいるせいで、こいつの時間が止まったままっていうのは間違いないだろ。だからこそ、英玲奈とやらは、俺のことを目の敵にしてるんだからな。


 玲美の奴は何も言わずに近付いてきて、俺をソッと抱き締めてきた。


「もう、危ない真似はしないでください」


 心の底から願いを込められたような声。

 流石の俺も、この声に抗うことはできねぇ。


「あぁ、わかってるよ」


 俺の答えを聞いて、玲美の奴はさらに強く俺を抱き締めてきた。


 わかってる。本当は。

 これは、間違ってるんだ。こいつにとって、俺の存在は害悪にしかならねぇ。今の状況は、何も進歩のない、いや、停滞した時間だ。


 こいつが俺に求めているのは、本来いないはずの存在。


 俺に縋るこいつは、1歩も前に進めねぇ。

 それが悪いことだってことはわかってる。だが、それを否定できる程、俺は玲美を理解してやれていない。


 仕方ねぇんだよ。

 俺たちの関係は歪んでる。それは悪いことだが、それだけが唯一、玲美を踏みとどまらせている最後の砦なんだからな。


 俺の存在が、なんて大それたことを言いたくはねぇが、もうしばらくだけ、こうしているしかねぇんだよ。



 言い訳なんて、カッコ悪いよな。

 でもよ。いつかは、こんな関係も終わりを向かえる。それは揺るがない事実だ。


 だからこそ今は、こいつの求めるものを、目の前に残しておいてやろう。そう思ったんだ。



「さぁ、じゃあ、ご飯でも用意しますね」

「あぁ、頼むぜ」


 玲美の奴は、いつもの笑顔で、いつもの声に戻っていた。

 他の奴らは気付けない。英玲奈たちのような、昔からの仲の奴ならわかるかもしれねぇが、玲美の目に写るのは、俺じゃねぇ、誰かの姿だ。光のない瞳には、いつもそいつだけが写ってる。


 いつか、その瞳に光が灯るように、俺は祈るしかなかった。

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