第7話 とある犬の災難 二

「さ、さくらぁ? ど、どこぉ?」


 俺は今、姉の方と一緒に廃墟ビルの中を歩いていた。ちなみに、桜とやらはいない。


 どうしてこうなったか?


 俺の認識が甘かったんだよ。

 目を離さなければ大丈夫だと高を括っていた。

 まさか目の前で見失うとは。



「あ、猫さん!」


 その一言で始まった。

 俺の時もそうだったが、桜とやらは色んなことに強く興味を示すらしい。


 猫が可愛かったんだろうが、逃げる猫を追いかけて廃墟ビルの方に走っていく桜とやらは、思いの外足が早かった。


 もちろん、それだけならなんとでもなったんだが、狭い隙間に入って行ってしまったらしい。俺は行けても、姉の方が通れないような隙間に。


「ま、まってぇ!」


 すぐに桜とやらを追いかけようとも思ったんだが、泣きそうになってる姉の方が置いていくのは危険な気がして、結局俺は、姉の方と行動をすることにした。


「さ、さくらぁ」


 もちろん俺は、桜とやらの匂いは覚えている。


 俺についてくれば自ずと桜とやらに会えるんだが、姉の方は焦っていて、中々俺について来ようとしない。

 ちょろちょろと居もしない所を探して、一向に進んでくれなかった。


 こういう時に喋れないのは不便だな。

 だが、いきなり言葉を喋っても、むしろ驚かせるだけだろうし、少し荒っぽいが、このまま姉の方を引っ張っていくしかねぇか。


 明後日の方向を向いてる姉の方の服を咥えて、なるべく優しく引っ張ってやる。


「きゃ! な、な、な、なに?」


 姉の方はすでに泣きそうだ。


 これでも駄目か。だが、ここでそんなに時間もかけられない。悲鳴も何も聞こえないから大丈夫だとは思うが、時間をかければ何があるかわからない。


 俺は仕方なく、グイグイと桜とやらの匂いがする方へ服を引っ張る。


「な、なに? ひ、ひっぱらないで。や、やめて、よぉ」


 あー。本格的に泣き出してしまった。

 だが、他にやりようがねぇだろ。喋れねぇんだから。と言いたいが、子供に怒っても仕方がねぇか。


「くうぅん」


 なるべく弱々しい声を出してみる。

 そして、ゆっくりと桜とやらの方へ歩いて、姉の方を振り向いた。


「くうぅん」


 もう一度声をかけると、姉の方は少しだけボウッとした後、何かに気付いたようにハッとしたようだった。


「も、もしかして、桜の匂いがわかるの?」


 よし。伝わった。

 俺はなんとなく頷いて見えるように頭を動かした。ここであからさまに頷いたら、本当に言葉がわかるとバレるかもしれないからな。


「そ、そっか。犬って、鼻がいいって聞いたことあるもんね」


 そうそう。素直についてきてくれ。

 俺が歩き出すと、姉の方はまだ戸惑ってはいたが、なんとかついてくる気になったようだ。


 とはいえ、桜とやらは今のやり取りの間に、かなり上の方まで上っていったみたいだな。匂いは相当上の方からしている。


 廃墟ビルといっても、まだ造りはしっかりしているし、慎重に進めば怪我をしないはず。


 桜とやらは、走り回っているかもしれないが、床が抜けてたり、壁に穴があったりといったことはないだろうし、そこまでの危険はねぇだろ。


 まあ、絶対にそうだ、とは言えねぇがな。


 ◇◇◇◇◇◇


「あなた、トシさんっていうのね」


 それからしばらく歩いていると、姉の方が少しは落ち着いたようでおもむろに話しかけてきた。


 俺の首輪に書かれている名前を見たらしい。そこには、トシさん、と書いている。

 犬『さん』と呼んでいたことを考えると、そのトシさんというのも、あってるのか間違ってるのか、微妙な判定だが。


 とりあえず俺についてくれば、桜とやらはに近付くと信じてくれたみたいだな。


「わたしは、椿っていうの」


 そうか。姉の方は椿っていうのか。

 桜と椿、ね。


「トシさんは、ほんとうに頭がいいんだね」


 まあ、犬にしてはな。

 と言っても、本当に頭が良い奴を俺は知ってるからな。それはもう嫌という程に。

 まあ、椿とやらには関係のないことだが。


「わたしはね、おねえちゃんなのに、いつも桜は言うことをきいてくれないの」


 それは簡単に想像できるな。さっき会ったばかりだが、すでにそういう場面は何回も見てるし。

 興味のあるものを見つけたら、何の考えなしに飛び込んでしまう危険な妹。そりゃあ苦労するわな。


 そうも言ってられねぇけどな。


「いつも、あぶないよって言ってるのに、1人で行っちゃって、いつも、いつもしんぱいなのに」


 あーあー、また泣きそうになってやがる。

 1人が心細いのかねぇ。姉とはいえ、まだ小学生そこそこだろうしな。こんな廃墟に俺みたいな犬と一緒で、妹も見つからなくて。


 いや、よくよく考えたら当たり前か。親と一緒でもこんな所には来たくねぇだろうよ。


「桜はわたしの妹だから、私が、ちゃんと、まもってあげないとだめなの。なのに、なのに、また桜はいなくなっちゃって、こんなの、おねえちゃんしっかく、なのかな」


 弱々しい声が聞こえてきて振り返ると、椿とやらは涙を拭いながらついてきていた。それでも歩き続けるのは、妹を助けたいっていう気持ちがあるからか。


 俺には兄弟どころか、家族もいるかわからねぇからな。そういう気持ちはよくわからねぇが。

 使命感というか、義務感というか。いや、もっと純粋な気持ちなんだろうが、言葉にするのは難しいな。

 言えるとしたら、姉としての責任感を持ってるってことなんだろ。


 姉である資格っていうのが、何なのか俺にはわからねぇが、どっとにしろ犬である俺じゃあ、何も言うことはできねぇし、とにかく桜とやらを早めに見つけることしかできねぇな。



 そんなこんなでしばらくビルを上っていくと、やっと桜とやらの匂いが近付いてきた。

 もう少しで着く、そう思った時。


「うわぁ!」

「っ! 桜!」


 少し離れた所で、桜とやらの声が聞こえてきた。しかも、かなり慌てたような声で、おまけにガシャンなんて大きな音まで聞こえてきた。

 椿とやらにも聞こえたらしい。


 椿とやらは俺の横を通り過ぎて、声のした方へと走って行く。何があったのかはわからねぇが、俺も急がねぇと。


 全力で桜とやらの元へ向かうと、そこには桜と猫、そして椿がいた。

 だが、やっと再会できたと喜んだのも束の間、桜とやらは、とある部屋の中心部にいた。


「あ、おねぇちゃん」


 その部屋は、他の部屋とは決定的に違う部分があった。


 桜とやらは猫を抱えたまま、その場に座り込んでいた。見た限り怪我はないみたいだ。

 だが、安心できる場面じゃねぇ。


「ど、どうしよう、おねぇちゃん」

「あ、あぶないから、あまり動いちゃだめ」


 そう。この部屋は床が抜けていて、危険な空間になっていた。

 桜とやらは、よくもまあ、そんな所まで行ったもんだと思うような部屋の中心部で、穴だらけの場所にいた。


 鉄骨が剥き出しになっていて、下までの距離は結構ある。大人でも、一歩間違えれば骨折するだろう距離だ。


「どうしてそんなところにいるのよ!」

「ね、猫さんが、ここにいて、来る時は、大丈夫だったけど、床が壊れちゃって」


 さっきの音は床が抜けた音か。それで怪我がなかったのは不幸中の幸いだが、帰れなくなったという問題が発生しちまった訳か。


 桜とやらがいる所まで伸びている鉄骨を確認してみるが、どうやらかなりボロくなってるらしい。


 もしかしたら、大人くらいの体重の人間が乗るだけでも壊れちまうかもしれねぇ。


「ま、待ってなさい。い、いま、そっちに行くから」


 おいおい、ちょっと待て。

 俺は桜とやらの元まで行こうとする椿とやらの服を引っ張って止めた。


「な、なに? トシさん」


 いや、流石に危険だろ。

 確かに椿とやらぐらいの体重なら、この鉄骨も壊れることはないだろうが、鉄骨の道はかなり細いものしかない。


 一歩でも踏み外せば大怪我の可能性だってある。それに、帰りは結局桜とやらと2人で帰ってこないといけねぇ。

 それなら俺が桜とやらを背中に乗せて帰ってきた方が遥かに安全だ。


 と、言いたいが、それを伝えるのは難しいな。

 まあ、そこまで伝える必要はねぇだろ。


 俺が桜とやらの方へ1歩近付くと、椿が俺の意図を察したみたいだった。


「トシさんが、行ってくれるの?」


 あぁ。危ないからお前はそこで待ってろ。そう念じて頷いた。

 もう理解してることがバレるかもなんて気にしてられねぇ。床が抜けたってことは、桜とやらがいる場所だってどうなるかわからない。一刻を争う状況だ。


 とにかく慎重に、鉄骨を渡っていくしかねぇ。


 そう思ったのに。


『た、た、たすけてぇ! 襲われる!』

『はぁ?』


 桜や椿の声じゃねぇ。だが、明らかに声が聞こえた。いや、これは人間の言葉じゃねぇ。

 これは……。


「あ、ね、猫ちゃん。あばれないで!」

「桜! うごかないでっ!」

『離してぇ! 襲われるよぉ!』


 あの馬鹿。聞こえてきた声は、桜とやらに抱かれている猫からだ。どうやら俺に襲われると勘違いして暴れているらしい。


『おい! 別に襲ったりしねぇよ! 暴れんな!』

『ぎゃあぁ! 恐いぃ!』


 テンパってて何も聞こえてねぇ。

 桜とやらは、暴れる猫を必死で落ち着かせようとしているが、猫の方はもう何も耳に入ってこないらしい。


「も、もしかして、トシさんのことがこわいの、かな?」


 どうやら、そうらしいな。

 俺が後ろに下がると、猫は少しだけ落ち着いたようで、怯えた視線を俺に向けながらも暴れることはなくなった。


「やっぱり、そうなんだ」


 椿とやらも気付いたみたいだ。


 まさかこんな所で障害があるとはな。

 俺が近付こうとすると猫は暴れだす。しかも、周りなんて見えてねぇ暴れ具合だから、辺りに穴だらけってのもお構いなしだ。


 桜とやらも猫が落ちないように支えてるから、間違えたら一緒に落ちちまう可能性もある。

 だが、近付かないことにはどうしようもねぇし、どうしたらいいんだよ。


「や、やっぱり、私が、い、行くよ」


 どうしろってんだよ。

 俺は近付けない。時間もかけられない。だが、椿とやら1人で行くのも、危険すぎる。


 椿とやらは、意を決したように桜とやらの方を見据えていた。

 気合いでなんとかしようとしてるみたいだが、それだけでどうにかなるものじゃないだろ。足も震えてるし、そのまま行ったら、行けるものも行けねぇよ。


 くそ。仕方ねぇ。


「わぅん」


 椿とやらの足に俺の足を乗っける。

 そして、できる限り優しく声をかけた。ジッと椿とやらの目を見つめて、落ち着けと念を込める。これに何の意味があるかはわからんが、何もしないよりはマシだろ。


 その証拠に、いや、これが理由だとは言い切れないが、椿とやらは少しだけ驚いた顔をして、ペチペチと自分の頬を叩いた。


「だ、だいじょうぶよ。わ、わたしは、おねえちゃん、なんだから」


 その顔には、さっきまでのような弱気な雰囲気はない。覚悟を決めた顔だ。まだ完全に身体の震えが消えた訳じゃないが、さっきに比べれば遥かに良い。


 俺もいつでも動けるように準備しておかねぇとな。

 最悪、あの2人だけでもなんとか助けられるように。猫は、まあ、このくらいの高さならどうともねぇだろ。


 そう身構えて、椿とやらは、深呼吸をしてから、ゆっくりと鉄骨の状態を確認しながら足を前に出した。

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