第6話 とある知人の襲来 四

「何かありましたの?」


 ふと声をかけたのは英玲奈だった。


「何も」


 それに応えるのは玲美。


 喫茶店の中には2人だけ。トシさんもいない。

 静かな雰囲気が流れる店内で、唐突に問いかけた英玲奈は、素知らぬ様子の玲美にムッと顔をしかめる。


「白々しいですわね」

「ふふ、そうですか?」


 次の返事はおどけたようなものだった。軽い冗談のように流す玲美に、英玲奈は溜息を溢す。


 玲美はずっと笑みを絶やさない。本心を隠すような笑みは、学生の頃から見慣れたものだ。

 最初の頃は、その笑みに隠された本心に気付くこともなかった。いや、今もそのすべてがわかっている訳ではない。


 それでも、玲美が何かを隠しているということぐらいは、英玲奈も気付けるようになっていた。


 そして、玲美もまた、英玲奈に隠し事ができないということを理解している。


「これは英玲奈の責任でもあるのですよ」

「わたくしの?」


 玲美は先日、美咲にある話をしたことを説明した。その話をするきっかけになったのは、英玲奈が海人の前に現れたからだということも。


 話を聞いた英玲奈は、少しばつが悪そうに目をそらす。


「べ、別に、わたくしのせいではありませんわ」


 否定する英玲奈ではあったが、その顔には焦りが滲み出していた。


 英玲奈は昔から声が抑えられない性格だった。

 それはあくまで比喩的な表現だが、英玲奈に内緒話をしてはいけないというのは、英玲奈の友人たちの間では暗黙の了解だ。


 その認識は英玲奈にも多少はあるようで、以前に比べれば多少良くなったものの、今でもふと不用意な事を口にしてしまう所は変わっていない。

 海人の時は、途中で気付いて止めることができただけマシだろう。


 それでも、その時の発言がきっかけになってしまったという事実は、英玲奈も認める他なかった。


 頑なな姿勢を見せるかと思われた英玲奈だったが、やがて申し訳なさそうに肩を落とす。


「ごめんなさい」

「……今回だけですよ」


 素直に謝る英玲奈に、玲美は悪戯っぽく笑った。


「冗談です。気にしていませんよ。私が気になっていたのは、自分のことですから」

「自分のこと? どういうことですの?」


 聞き返す英玲奈に、玲美は苦笑いだった。

 美咲ならば、ここの場面で聞き返してくることはなかった。美咲じゃなくても、他の人でもここまで踏み込んでくる人間は少ない。


 昔からの仲とはいえ、英玲奈のような人種は、玲美の友人たちの中でも他にいなかった。


 無神経、デリカシーがないと思われても仕方がないのだが、何故か英玲奈は許されている。ここまでくると、稀有な才能だ、とでも言っていいのかもしれない。


「大人げないな、と反省していたんですよ」


 美咲にあの話をした時、玲美は理性的に対応できると思っていた。大人なのだから、何でもないことのように話せると思っていた。


 しかし、結果的には、玲美は美咲にしこりを残すような話しかできなかった。


 いや、それどころか、はっきりと態度で示してしまった。これ以上、踏み込まないでくれ、と。これ以上、話したくない、と。


 子供が質問をして、大人が答える。そんな単純な話のはずだった。それなのに、玲美は答えを言うことなく、曖昧な言葉で逃げてしまった。

 その理由は、玲美が1番わかっている。 


「もう、立ち直ったと思っていたのですが」


 英玲奈は複雑そうに顔を歪めた。

 玲美の事情については、英玲奈も知っている。それこそ、美咲に話していない部分まで。


 立ち直ったと思っていた、と言う玲美に、英玲奈は何と言えばいいのかわからなくなる。玲美の事情を知る者ならば、同じような気持ちになるだろう。

 あの犬、トシさんの存在を知る者なら尚更。


 しかし、流石の英玲奈もそれを指摘することはできない。いや、指摘をしたことならある。


 玲美があの犬にトシさんと名付けた時、英玲奈たち、玲美の友人たちは反対した。

 正確に言うのなら、実際に声を出して反対したのは英玲奈だったが、その気持ちはみんな同じだった。


 結局、玲美の意思が優先されたのだが、今になってみても、それが正しかったのかどうかは誰にもわからない。


「そう簡単に割りきれるものではありませんわ。それは立ち直ることとは違いますから」

「そう、ですね」


 互いに無言になる2人。

 いつもとは違う珍しい光景だった。

 人の悩みを聞いたり、相談に乗ったり、人の話を聞くことの多い玲美が、他人に自分のことを打ち明けるというのは。


 それは、英玲奈であっても例外ではない。


 他人よりも遥かに打ち砕けた関係である彼女たちでも、玲美との間に越えられない壁は存在した。


 どんな人間でも、踏み込むことのできない壁は存在する。


 家族であっても。

 恋人であっても。

 どんな関係であっても。


 ただ、玲美にとってのそれは、何人たりとも踏み込むことができない隔絶たる壁だった。


 そこに踏み込むことができたのは、今までの人生でも……。



「それにしても、玲美がこんなに弱っていることなんてそうそうないですわね。そうですわ! 1つ、勝負でもしませんこと?」


 唐突な申し出は、完全に空気の読めていないものだった。

 流石の玲美も、この意味不明なタイミングでの申し出にキョトンと首を傾げる。


 しかし、それも英玲奈のいつも通り。


 相手が弱っている時に攻めるべし。

 これは英玲奈の数多くある格言の1つだった。


 英玲奈は人生で、たった1人を除いて敗けたことがない。


 常にエリート街道を歩いてきた英玲奈だったが、では、そのたった1人とは誰なのか。


 それはもちろん、玲美である。


 高校時代に出会ってから、英玲奈は一度も玲美に勝てたことがなかった。それは勉強でも、スポーツでも関係ない。すべてにおいて、英玲奈は玲美に勝ったことがなかった。


 それは、英玲奈にとって初めての挫折である。

 自分が世界一だと言うつもりはなかったが、敗けたことがない事実と客観的な視点による自己評価。どれを検証しても、英玲奈は自分は天才であるとわかっていた。

 しかも、それに驕ることなく、努力を続けてきたという自負がある。誰にも敗けることはない。少なくとも、学校という狭い空間にいる間は。

 そんな自信があった。


 しかし、そんな自信も、高校時代に早々に崩されてしまう。


 玲美という圧倒的な存在。大人相手にも感じることのなかった絶対的な差。

 それを突きつけられて、英玲奈は人生で初めて挫折したのだ。


 普通の人と違ったのは、その圧倒的な挫折を経験しても尚、英玲奈は玲美に勝負を挑み続けたことだろう。


 絶対に勝てないと頭では理解していても、英玲奈の熱量が冷めることはなかった。


 それから英玲奈は、玲美に勝つためにあらゆる勝負を仕掛ける。どんなジャンルでも、どんなルールでも、どんなタイミングでも、ただ玲美に勝つためだけに、策を巡らせた。


 もちろん、日常でも親交を深めていったのは打算ではなく、純粋な気持ちだ。


 しかしそれとは別に、英玲奈は玲美に勝つことを、人生の目標とまで定めている。


 そしてそれは、今も続いていた。

 事あるごとに挑まれる勝負は、言わば英玲奈の代名詞のようなものだった。


「そうですわね。前回は七並べでしたし、今回はチェスなんてどうです?」


 気を紛らわそうとしている訳でもなく、ただ単純に、今なら勝てるかもしれない。そんな思いで英玲奈は勝負を挑んでいた。


 玲美のことを心配しようが、悩もうが、英玲奈にできることは少ない。

 それは、玲美自身が乗り越えなければいけないものだからだ。そして英玲奈は、玲美ならば、必ず乗り越えられると確信している。


 その確信があるからこそ、どんな場面においても、英玲奈は英玲奈として玲美に接していた。


 変な気遣いも、情けもかけない。いつも通りの光景。それこそが、玲美にとって必要なものだと、英玲奈は疑わない。


 玲美は少しの間、ポカンとしていたが、やがてプッと笑い始める。小さな笑いだったが、その声は楽しげに揺れていた。


「ふふ、わかりました。何でもいいですよ。チェスでも、将棋でも、オセロでも」


 不敵に笑う玲美に、英玲奈は悔しそうにしながらも楽しげに笑った。


「今日は休みですし、それ、全部やりますわよ」


 玲美の顔から少しだけ焦燥が消えた。


 まだ完全に消えていないのだとしても、今はそれで十分だった。


 口に出さずとも、玲美と英玲奈は通じあっている。

 それが、2人の関係。


 数少ない理解者である英玲奈。

 その存在に感謝しつつ、玲美は英玲奈を完膚なきまでに叩きのめすのだった。


 ◇◇◇◇◇◇


「よう、あいつは帰ったのか」

「トシさん」


 10回連続で敗けた英玲奈は、今日の所はこのぐらいにしておいてあげる、と泣きそうな顔で帰っていった。


 それを知っての事だろうが、そのタイミングでトシさんが喫茶店へ帰ってきた。


 トシさんはあまり英玲奈と会うことはない。


 それは、あえてそうしているのだが、英玲奈にはわからないだろう。トシさんが言葉を話せるということすら知らない英玲奈では。


「あいつはうるせぇからな」


 トシさんは英玲奈が苦手だった。

 玲美に飼われることになった当初、英玲奈は何かとトシさんを目の敵にしていた。直接何かをされることはなかったものの、その視線からは明らかな敵意を感じていた。

 その理由もわからなくはないものだったが。


 とはいえ、だからといって、それを無視できるかと言うとそんなことはない。

 常に向けられる敵意の視線は、トシさんにとって居心地の悪いものだった。


 英玲奈は必死にそれを隠そうとしていたが、動物の感性は、英玲奈が思っているよりも敏感ということだろう。


「ふふ、良い子なんですけどね」

「まあ、俺だって、悪い奴だと思ってる訳じゃねぇけどよ」


 トシさんは、玲美にトシさんと名付けられた理由を聞いている。だから、概ね英玲奈と同じ思いを抱いていた。


「あいつは、お前のことが大事なんだろうよ。……もういねぇ奴なんかより、な」


 少しだけ言いづらそうに、だが、はっきりとトシさんは口にした。


 玲美はその言葉にハッとしたように目を見開き、すぐに元の表情に戻る。感情を悟らせないように。


「えぇ、そうですね」


 表情はいつもと変わらない。だが、その声には力がないように感じた。



 それから喫茶店の中は、誰の声も、何の音もなく静寂に包まれる。


 その日はもう、誰も来ることはなかった。

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