第6話 とある知人の襲来 二
「へー、そんなことがあったんだ」
あれから数日後、海人と美咲はとある会話をしていた。
海人は先日出会った英玲奈という女性と玲美の会話がずっと気になっていた。何に、と問われてもわからなかったが、とにかく頭から離れなかったのだ。
その感覚は数日経っても変わることはなく、ここ最近ずっと何かに悩んでいる海人に美咲が声をかけると、そのまま相談したいことがある、という流れになった。
事情を聞いた美咲は、少しだけ不満そうな表情を浮かべ、ジトッとした目を海人に向ける。
「な、なんだよ?」
「別に?」
その気がないとはいえ、聞き方次第では明らかに気があるような素振りを見せる海人に、美咲は不貞腐れていたのだが、それに気付け、というのは難しい話。
それを理解している美咲は、若干海人に腹を立てながらも、仕方がないことだと割り切るのだった。
「気になるのはあれでしょ。私たちって、玲美さんのこと、よく知らないし、過去の話なんて全く聞いたことないからじゃない?」
「あー、確かにな」
喫茶店に通うようになってからというもの、海人たちは玲美と交流する機会が多くなっていた。
その分、色んな会話をすることも多くなったのだが、私生活や過去に関する話をすることはほとんどなかった。
もちろん、あえてそんなことを聞く機会など、そうそうあることではないのだろうが。
しかしながら、それを差し引いても、海人たちは玲美のことをほとんど知らない。
喫茶店を経営していて。
頭が良く、美人で、何でもできて。
喋る犬を飼っていて。
それだけだ。
しかし、それだけでも、玲美が只者ではないと思わせるだけの情報だと言える。
逆を言えば、それだけ普通ではない玲美を相手にして、これまでその素性が気にならなかったという方がおかしいように美咲は思えた。
そこに来て、玲美の過去や素の姿を知っているかもしれない人物が現れ、その会話が気になってしまうというのは当然だろう。
海人のデリカシーの欠けた相談に多少苛立ちを覚えていた美咲も、段々とその会話が気になり始めていた。
「でも、あんまり不躾に話を聞きに行くのも失礼よね」
玲美があえて素の姿を隠していたのか、偶々そういう流れになっていたのかはともかく、人のことを詮索するというのは、あまり好ましいことではない。
玲美自身から話してくれるならば話は別だが。
「まあ、無理よね」
探りを入れる。という選択肢は美咲にはない。そんなもの、玲美にはすぐに感付かれてしまうだろう。
かといって、今までの流れから、玲美が素の姿を見せてくれることは考えづらい。少なくともすぐには。
となると、美咲が考える最も現実的な方法は、素直に尋ねることなのだが、それはデリカシーがないようにも思えた。
「まあ、喫茶店に通ってたら、また話が聞けるんじゃない?」
「そうかなぁ?」
結局どうすることもできないという結論に至った美咲は、保留という選択をするしかなかった。
それからまたある日。
美咲が街を歩いていると、ふと目の前に見知った犬が歩いているのを見かけた。
その犬は我が物顔で街を歩いていて、大きな犬の姿に、街行く人が驚いていても気にしていないようだった。
一見野良犬がただ歩いているだけの光景だが、その割りには毛並みは綺麗で、しかも首輪もしっかり付いている。
その犬を見つけた美咲は、海人との会話を思いだし、その犬を追いかけた。
「トシさん」
人通りの少ない路地に入っていった犬、トシさんに、それを見計らって美咲が声をかける。
突然名前を呼ばれたトシさんだったが、特に驚いた様子もなく振り向いた。
「どうかしたかよ」
その口振りから、トシさんは美咲に気付いていたのだろう。
美咲が追いかけてくることに気付いたトシさんは、声をかけられるようにわざと路地に入ってきたらしい。
「あ、えっと」
しかし、いざ話そうとした所で、美咲は戸惑ったように口ごもる。
美咲がトシさんを追いかけたのは、海人の話を聞いて、玲美のことを知りたいと思ったからだ。
それを直接本人に尋ねて良いものか悩んだ美咲は、偶然見かけたトシさんに相談しようとした。
トシさんならば、玲美のこともよく知っているだろうし、聞かない方が良い話題ならば、その場で諦めようと考えていた。
だがしかし、よくよく考えればそれも、全く同じことをしているような気がしてきたのだ。
中々口を開かない美咲に、トシさんは怪訝な表情を浮かべる。
普段の美咲は、トシさんが相手でも、特に萎縮することのない性格をしている。知らない関係でもないはずなのだか、言いづらそうにしている意味がわからなかった。
美咲の様子は、恥ずかしがっているようではない。かといって、怒られることを恐れているようでもない。
他に言いづらそうにする理由が思い付かないトシさんは、仕方なくこちらから尋ねてみることにした。
「何か人前じゃ話せねぇことなのか? いや、俺との会話は人前じゃ話せねぇけどよ」
軽いジョークのつもりだったのだが、美咲はキョトンとしている。失敗したとわかったトシさんはすぐに目をそらして、他の話題を探す。
そんなことをしている間に、1人の気配が近付いてきた。
「こんな人通りのない所に女の子を誘うなんて、とんだ変態犬ですね」
ビクッと肩を震わせたのは、トシさんではなく、美咲だった。
「いや、俺は別に……」
「玲美、さん」
美咲が振り向くと、そこにいたのはやはり、玲美だった。玲美は買い物袋を何袋も抱えていて、買い物帰りのようだった。
その服装は普段の喫茶店で見るようなものではなく、見たことのない私服のようなものだった。
普段の服を見たことのない美咲は、新鮮な玲美の姿に、一瞬見とれていたが、すぐにばつの悪そうな顔に変わる。
「あ、えっと」
まだ何も聞いていないのだが、聞こうとしていた内容が後ろめたく、美咲は言い訳を考えようとした。
しかし、それも一瞬で、すぐに無駄な抵抗だと諦める。玲美の目を見れば、自分が何をしようとしていたかなんて、すでにバレているような気がして。
「あの、えと、ごめんなさい」
「んあ? 何かしたのか? お前」
いきなり謝りだした美咲に、トシさんは困惑する。海人ならばいざ知らず、美咲が玲美に何かをするとは思えなかった。
美咲と玲美の顔を交互に見るトシさんだったが、玲美の表情は微かに切なげに揺れていた。
「いえ、構いませんよ。恐らく、海人さんから聞いたのでしょう?」
「……はい」
隠しても無駄、という判断は正しかったようだ。すべてを理解している様子の玲美は、少しだけ息を吐くと、ソッと美咲に近付いた。
怒られると思った美咲は、グッと身構える。
しかし。
「ちょうどパンケーキを焼こうとしていたんです。家まで遊びに来ませんか?」
「え?」
玲美は優しげな笑みを浮かべて、そう提案した。
◇◇◇◇◇◇
美咲が案内されたのは、正直な感想を言うならば、寂れた2階建てのアパートだった。どう考えても、玲美の見た目からは想像できないオンボロのアパートだ。
それにまず驚いた美咲だったが、玲美はおどけた笑顔で2階に案内する。
そこの1番奥の部屋、それが玲美の部屋のようだった。
ペットは禁止らしく、トシさんは外で待っている。普通のペットなら、そんなことは許されないのだろうが、トシさんならば、問題はないだろう。
「適当に座っていいですよ」
「は、はい」
部屋の中も外観から想像できる通りだ。流石に綺麗に掃除されているが、それでも質素な雰囲気は、変わりようがなかった。
部屋の中にはあまり物がなく、必要最低限の物があるだけ。冷蔵庫やガスコンロはあるが、テレビやクーラーはない。
買ってきた物を冷蔵庫に入れる姿は、完全にプライベートのそれで、美咲は何とも言えない緊張感を味わっていた。
「すぐに作っちゃいますね」
「お、お願いします」
玲美は喫茶店の時と変わらず、穏やかな雰囲気だった。強いて言うならば、自分の家にいるということで、いつもより多少はリラックスしているように見えるかもしれない。
玲美の言う通り、そんなに時間もかからずにパンケーキは出来上がった。
店で出てくるような完成度のパンケーキに、美咲は少しだけテンションが上がる。
「わぁ! 美味しそう」
「ふふ、温かい内に召し上がれ」
ソッと置かれたコーヒーは、喫茶店で飲むものと同じような香りを漂わせている。
そして、ここに来るまでにあった後ろめたい気持ちはまだあるものの、玲美に出されたパンケーキは、それを薄れさせる甘い香りだった。
「いただきます」
言いたいことや聞きたいことはあるが、玲美からも温かい内に、と言われているので、美咲はとりあえずパンケーキを頬張るのだった。
決して、目の前のパンケーキに心を奪われた訳ではなく。
しばらくして、美咲がパンケーキを食べ終わると、玲美はいつもの喫茶店のように自然な所作で食器を片付け始めた。
「あ、手伝います」
店でもないのに任せっきりにはできず、美咲が立ち上がる。
「そうですか? それでは、お願いします」
台所へ食器を持っていき、玲美が洗ったのを受け取って拭いたら棚に戻す。
そんな単純作業だった。
食器も少ないので、そんなに時間もかからずに終わるだろう。そう思っていた美咲に、ふと玲美が口を開いた。
「今日は海人さんはいらっしゃらないんですか?」
「え? あ、はい」
「そうですか」
世間話のような会話だったが、その会話は何かを探られているようで、美咲はまた身構える。
結局、美咲は一度玲美に謝罪したものの、すんなりと受け入れられてしまって、なんとなくスッキリしていなかったのだ。
何処でまた、その話題に入るのかわからず、どうしても美咲は緊張がほどけなかった。
それを見透かしているのか、玲美の表情には苦笑いが浮かんでいる。
「何を聞きたかったんですか?」
「え? えーっと」
まさかそこまで直球で聞いてくるとは予想しておらず、美咲は動揺していた。
「私生活が謎に包まれている知り合い。そのプライベートな部分が一瞬でも見えたら、気になるのは人の性です。ふふ、当たってますか?」
「うっ。当たりです」
悪戯する子供のように無邪気な笑みを見せる玲美に、美咲は降参とばかりにガクッと肩を落とした。
「ごめんなさい。本当は、あんまり人のことを詮索するのは良いことじゃないと思ってたんですけど」
「いえいえ、私も私生活の部分を話す機会はあまりありませんでしたし」
玲美は自然な笑顔だった。
本当に気にしていないのか、それとも気にしていない風を装っているのか。それは美咲にはわからない。
しかし、美咲の中にある女の勘が告げていたのは、深く聞いてはいけない、というものだった。
「ふふ、本当に、美咲さんは勘が鋭いですね。でも、大丈夫ですよ。そんなに隠すようなことはありませんから」
その言葉の節々に、玲美の気持ちが伺えた。美咲ならば察することができると、そう判断しての言葉だろう。だからこそ、美咲は何も言わず玲美の続きを待った。
玲美は少しだけ考えるように目線を横にずらした後、思い出すように目を瞑った。
「そうですね。では、英玲奈との学生時代のことでも、お話ししましょうか」
「え? 学生時代、ですか?」
美咲が聞き返すと、玲美は目を開いて美咲の方を見る。
「そうです。いつもは皆さんのお話を聞かせてもらって楽しんでいるんですが、偶には私の話もしてみたいな、と」
本人からの申し出というのは、願ってもないことだったが、本当に聞いても良い話なのか、それが不安だった。
しかし、玲美ならば、雰囲気に流されての行動ということはないだろう、と美咲は考える。
自分の言いたい話、言える話を聞かせてくれる。それは、玲美の優しさであり、困っている自分に助け船を出してくれたのだと理解した。
「聞きたいです。玲美さんが学生時代の話」
ならば、素直になって聞いてみたい。
美咲は目を輝かせて、玲美の語りを待った。
「ふふ、わかりました。それでは、少しだけ私のお話をしましょうか」
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