第5話 とある部活少年の挫折 三
「先程のトシさんの話を聞いて思い出したのですが、実はあの話、私も似たようなエピソードがあるのですよ」
「え?」
トシさんの知り合いの男の話は、かなり血生臭い雰囲気の話だった。
何処まで本当の話なのかは知りようもないが、少なくとも、玲美のような可憐な女性が関係するような話とは到底思えない。
しかし、玲美が嘘を吐いているようにも見えなかった。
もしかしたら、玲美は見た目の印象とは別に、かなり危ない人種なのではないだろうか、と辰巳は微かに怯えていると。
「ふふ。私も知り合いの男の人の話ですよ」
「あ、そうなんですね」
それで果たして、よかったと言うべきなのか辰巳には判断がつかないが、とりあえず玲美が、トシさんの話に出てきたような喧嘩っ早い性格ではないということがわかっただけでも、辰巳はホッとしていた。
「私の場合は、幼馴染みの男の子が、昔っから喧嘩っ早くて、よく危ないことに首を突っ込んでいたんですよ」
肩をすくめる玲美は、やや呆れたような声音だったが、その表情は何処か穏やかで、それでいて寂しそうに見えたのは、辰巳の気のせいなのだろうか。
すぐに元の表情に戻った玲美は、不敵に笑う。
「ちなみに、私はその男の子に喧嘩で負けたことがありません」
「えぇ!」
やはりさっき感じた印象は間違ってなかったのかも知れないと、辰巳は身構えた。
「まあ、その男の子は私が女の子だからと、手を出すことはなかったんですけどね」
「あ、あぁ、そういうことです、よね」
辰巳は納得したように声を漏らす。
確かに、いくら幼馴染みと言えど、男の子と女の子で腕力が違う中、本気の殴り合いの喧嘩をすることはないだろう。
もしそんなことをするような男がいたら、それは最低な男だ。
とは言え、負けていない理由が本当にそれなのかは、何とも言えないのだが。とりあえず、辰巳は半信半疑だった。
「まあ、それは置いておいて」
含みのある笑みを浮かべる玲美を見ると、真実が何処なのかがわからなくなりそうだ。
「私の知り合いも、トシさんと同じように、ある時助けに行った私を、突き放したんです。ボケが! ってね」
微妙に声が低くなったような気がして、辰巳はビクッと肩を震わせた。
「まあ、当時は彼も、色々あってストレスが貯まってたのだとは思いますが、それでも完全なやつあたりだったので、私も怒っちゃったんです」
シャドウボクシングのように、シュッシュッと軽く拳を突き出す玲美はひどく様になっていて、それだけでも強そうに見える。
密かに辰巳は、玲美を絶対に怒らせないようにしようと決意していたのはまた別の話だ。
「それで、色々あって、ボコボコにしちゃったんですけど、彼はそれでめげることはなかったんです」
少し引っ掛かる部分があったものの、辰巳はあえてそこをスルーした。
「めげずに?」
「ええ、私に助けられるのが嫌で、かといって、やつあたりしても何も解決しない。だから、彼は私に助けてもらわなくても大丈夫なくらい強くなろうと頑張ったんです」
「強く、ですか」
辰巳はその話の人物に共感することができなかった。
悔しいのなら、屈辱だったのなら、もっと頑張ればいい。そんなことは辰巳もわかっている。
しかし、それができるのは、やはり選ばれた人種だけだと、辰巳は頭で見切りをつけていた。
頑張って報われる人間は、元からそういう人間なのだと。
できる者からの言葉は、できない者には届かない。どれだけそれが正しいと理性ではわかっていても、それを受け入れることはできなかった。
それは、成熟した大人であっても難しいことかもしれない。中学生の辰巳では尚更だ。
結局、玲美も自分の気持ちはわかってくれない。ここに来た時、俄に感じていた。この人なら、もしかしたら、自分のことをわかってくれるかもしれない。そう思っていた。無意識にでも、ここまでついてきたのがその証拠だ。
しかし、そんな辰巳の期待も脆く崩れ去ってしまった。
迷子になった気分の辰巳は、下を向いて黙ってしまう。
「当たり前のことを言いますね」
そんな辰巳に玲美が声をかける。
不思議な声だった。
優しい訳でもなければ、怒っている訳でもない。感情がない訳ではないのに、無感情に聞こえる。しかし、嫌な感じのしない声。
辰巳は何気なく顔を上げる。
それを待っていたかのように玲美が口を開いた。
「人は、頑張っている時は何処までも頑張れますが、頑張らなくなった時は、とことん頑張れなくなるんです」
「はい?」
辰巳はポカンと口を開けて首を傾げる。
当たり前のこと、と前置きはあったものの、そもそも、りんごはりんごと言っているようにしか聞こえない発言に、辰巳は頭が追い付かなかった。
むしろ馬鹿にされているのだろうかと、驚きが徐々に苛立ちに変わっていく途中で、玲美の口から続きが語られた。
「辰巳さんは、今までずっと部活を頑張っていたのですよね?」
「え? そ、それは、まあ」
突然の話題転換。そう思った辰巳だったが、しかし、話題は変わっていなかった。
「頑張っている時、辰巳さんはずっと頑張れていました。その間、辰巳さんは辛いと思ったことはありませんでしたか?」
「……ありましたよ。何回だって」
ユニフォームをもらえなかった時。
試合に出られなくかった時。
スタメンと違う練習メニューを与えられた時。
試合に出られないとわかっていても、辛い練習をしなければならなかった時。
数えても数えきれないくらい、辛い瞬間は何度もあった。
それでも頑張ってきた。
そんな辰巳に、玲美は微笑みかける。
「よく頑張りましたね。ですが、どうして辛かったのに、頑張れたんですか?」
「え? それは、だって……」
無邪気な質問。
咄嗟に答えようとした辰巳だったが、すぐに答えは出てこなかった。
仲間に、大樹に励まされたから。
悔しさをバネに。
バスケが好きだから。
理由が浮かばなかった訳ではない。しかし、そのどれもが決定的なものには思えなかった。
励まされても、自分を奮い立たせても、バスケを楽しいと思っても、辛い気持ちがあったのは変わらなかった。
単純にそれらが辛さよりも上回っていたのかもしれない。いや、実際そうなのだろう。
だが、本当にそれらが、辛さよりも上回っていたのかは、辰巳にはわからなかった。
「理由はいくつもあると思います。ですが、その根底には常に、辰巳さんの頑張りたい、という気持ちがあったはずです」
「頑張りたい、気持ち」
玲美が頷く。
「人は頑張っている時、どんなに辛くても頑張れるんです。頑張りたい。その気持ちは、どんな辛さにも負けない。辰巳さんは歯を食い縛って、3年間、ずっと頑張り続けてきた。だから、どんなに辛くても堪えられたんです」
言葉にできない答えを教えてもらえたようで、辰巳は言葉を失った。
「ですが、どんな人も、いつまでも頑張り続けることはできません。いつかは疲れてしまう。まるで水の中でずっと息を止めていた時のように。だから、息継ぎに休むことも大切です。大切なのは、その後にもう一度潜ろうとすること」
辰巳はそこでハッとした。
玲美の言葉の意味を理解して。
「私の知り合いの彼も、ずっと頑張り続けていました。私よりも強くなるなんて、無理だとわかっていたはずなのに、いつまでもずっと」
「いつまでもですか?」
「ええ、いつまでも、です」
辰巳は3年間、ずっと頑張り続けてきた。
誰よりも努力してきたという証明はできない。しかし、ずっと頑張ってきたという証明はできる。辛くても3年間堪えることができたことがその証明になる。
そう言われたような気がした。
そして、それはこれからも続いていく話になる。
「努力が必ず報われるとは限りません。ですが、辰巳さんが頑張ってきた証は、今ここにあります。もし、辰巳さんがもう一度潜れば、確実に今までよりも深く潜ることができますよ」
目に見える成長はなかった。
誇れる結果はなかった。
「今回は残念だったが、今までの頑張りは絶対に無駄にならない」
監督の言葉を今さらになって思い出した。
その時は、その場かぎりの慰めの言葉だと思っていた。
だが、玲美の言葉で微かに思う。その言葉に偽りはないのかもしれないと。
「もう一度、頑張ってみてはどうですか? 一度潜ってみれば、多分、どんどん深くまで行けますよ」
玲美の優しい笑みは、辰巳の心にストンと落ちていく。
「でも、やっぱり無理だと思ったら?」
「その時は、スパッとやめましょう」
あっけらかんとして言う玲美に、辰巳は苦笑いを浮かべた。
◇◇◇◇◇◇
「時間ももう遅いですが、大丈夫ですか?」
「はい。いつもよりは遅いですが、まだ自主練で通じる時間だと思いますから」
辰巳にはもう、喫茶店に来た時のような浮浪者の雰囲気はない。スッキリとした表情の辰巳は、玲美の問いかけに笑顔で答えた。
帰っていく辰巳の背中を眺めて、玲美は少し後ろにある気配に目を向ける。
「まったく。トシさんは頼りになりませんね」
「う、ぐ。し、仕方ねぇだろ。いきなり振られてもお前みたいにできる奴ばっかりじゃねぇんだよ」
トシさんから言わせれば、いきなり知らない人間の前に突き出され、相手の心に響く話をしろだなんて、無茶振りにも程があった。
しかし、玲美はそ知らぬ様子でそっぽを向いている。
「私も部活のことはわかりませんので、仕方がなかったんです」
「それにしては、結局、お前が話をまとめていたけどな」
文句たらたらの視線で、トシさんは玲美を睨んだ。非難するような視線も受け流して、ただ、拾うべき部分はしっかりと拾っていた。
「結果はそうでしたが、起点はトシさんです。その点については、助かりました」
素直にお礼を口にされ、トシさんは、ケッと悪態をつく。
「どうするかは結局、本人次第ですけどね」
「まあ、そりゃあ、そうだろ」
学校生活においての経験は、成功失敗問わず、成長の糧になり得る。
部活でずっと努力してきた自信というのは、今後の人生において、ほぼ間違いなく良い経験になるだろう。
あの時頑張ったから、今の自分がある。
その言葉は甘美であり魅力的だが、実際にそれが実現する例は、それ程多くはないと玲美は思っていた。
そこまで達観した学生生活を送れる者は少ないし、気付いた時には手遅れなんてこともザラにある。
手にしてこなかった経験を、他の経験で補うことはできても、取り戻すことはできない。やり直すこともできない。
特に辰巳のような子供では、そのことに気付ける方が稀だろう。
玲美にできるのは、そのことをなるべく実感を込めて伝えるだけ。それ以上は、本人に任せるしかないのだ。
「まあ、なるようになるだろ」
「そうですね。なんとかなるでしょう」
しかしだからと言って、玲美の何かが変わる訳ではない。
選ぶのは辰巳であり、辰巳には選ぶ責任があり、権利がある。そこに踏み込もうとは、毛頭考えていなかった。
「さて、今日のご飯は、何にしましょうか?」
「ん? いつものでいいんじゃねぇか?」
いつもなら、玲美はトシさんに対してそんな質問はしない。トシさんの食事はいつも決まっていて、違う時も伝えるだけで、問いかけてくることはない。
不穏な気配を察して、トシさんは身構えた。
「そういえば、トシさんの話で色々と思い出しちゃったんですよ。イライラした記憶とか、ね」
しかし、気付いた時には手遅れだった。
やり返しなんてきかない人生で、トシさんはまだ、玲美のことをすべて理解できている訳ではなかったようだ。
「お、おい、まて、お前の知り合いの男と俺は何の関係もないだろ」
「そうかもしれませんね。ですが、そのせいで思い出してしまったので、責任、取ってくださいね?」
ジリジリと詰め寄る玲美は、これでもかと笑顔を浮かべている。
しかし、その笑みは何一つとして平穏をもたらしておらず、トシさんは蛇に睨まれた蛙ように動けなくなっていた。
玲美の逆鱗が何だったのか。何となくしかわからないトシさんでは、この事態を回避する方策なんて思い付かなかった。
「それでは、今日のメニューは、野菜だけ炒め、で決定です」
「う、嫌だぁぁぁ!」
その日から数日、トシさんの食事は大っ嫌いな野菜のオンパレードだったとか。
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