第4話 とあるイケメン大学生の話 四
「ったく、俺は良かれと思ってやったってのに」
「まだ言ってるんですか? 何があっても、あんなことはしちゃ駄目ですよ」
客のいない喫茶店で、玲美とトシさんは言い争いをしていた。
内容は、先日帝が訪れた際に、トシさんが帝を脅かした件についてだ。
トシさんの言い分は、明らかに有咲たちが助けを求めていた状況で、帝に威嚇をしたのはあくまで不可抗力であり、仕方なかったというもの。
対して玲美は、どんな状況であっても他人を威嚇することは危険であり、してはいけないというものだった。
「本来はそうかもしれないが、喋れないんだから仕方ねぇだろ」
トシさんの言う通り、言葉を話せない状況では、確かに玲美の要求は難易度が高かった。
トシさんが言葉を話せることを知る者は何人かいるが、そう誰にでも知られて良い話ではない。
特に有咲たちが助けを求めてくるという点において、帝の印象が悪かったため尚更である。
「駄目なものは駄目です」
しかし、玲美も譲る気はないようだった。
頑なに譲る気を見せない玲美に、トシさんは疲れたように溜息を漏らす。
こうなってしまった玲美は、もうテコでも動かない。それをよく理解しているトシさんだからこそ、これ以上は何を言っても無駄だとわかったのだ。
幸いなのは、それに対する罰が何もないことだろうか。
以前にトシさんが問題を起こした時は、ドックフードを最低ランクのものにされたことがあり、動物虐待だと抵抗したものだ。
今回、そこまで至っていないのは、ある程度は仕方がなかったと玲美も認めているからだろう。それでも、もっと平和的な解決はあったのだろうが。
「お前も、背負い投げした癖に」
「何か?」
聞こえないようにボソッと呟いた言葉にも反応する玲美は、大した地獄耳だ。危機を察知したトシさんは、雷が落ちない内にさっさと退散していった。
そんな茶番劇からしばらくした後、ふと喫茶店に近寄ってくる足音が聞こえてきた。
すぐに気が付いた玲美は、掃除を止めてコーヒーを淹れる準備をする。そして、それから数分とせずに、カランカランと扉の鈴が響いた。
「いらっしゃいませ」
明るい声で出迎えた玲美の視線の先にいたのは、予想通り、苦々しい表情の帝だった。
「俺だけかよ」
「えぇ、今はちょうど暇だったので」
ちなみに、今はちょうど子供たちのおやつの時間なのだが、本日初めての客が帝だ。
それをもって、ちょうど暇だった、と表情を変えずに言える玲美を、もしトシさんが見ていたは、また呆れたような溜息が聞こえてきたことだろう。
しかし、そんな裏話を知る由もない帝は、その話に違和感をもった様子もなく、微かに躊躇うような表情をしながらも、自ら進んでカウンターの席に座った。
「コーヒーでよろしいですか?」
「……あぁ」
言葉少なく帝が頷いた。
玲美は特に気にした風もなく、てきぱきと準備を始める。と言っても、すでにほとんどの準備は、帝の足音が聞こえた時点で始めていたので、もう終わっているのだが。
コポコポとコーヒーを入れる音が店内に流れる。落ち着いた雰囲気の店内に、コーヒーの良い香りが漂ってきた。
しかし、なんとも言えない空気に、帝は居心地悪そうにしている。
「どうぞ」
そうして出来上がったコーヒーを帝の前に出すと、玲美はニコリと笑う。
「今日は1人なんですね」
「……まあな」
そこに反抗的な態度はなく、帝は素直に答えるだけだった。
そして一口だけコーヒーを飲むと、緊張が解れたように、帝は口を開く。
「別に大した変化はねぇよ」
言葉の足りない文章だ。しかし、玲美には帝の言いたいことが全てわかった。
「ふふ。変化なんて、そう簡単なものではありませんからね」
優しく答える玲美は嬉しそうに口元を緩める。
「ですが、帝さんの口から、その話題が出るだけでも、かなりの変化だと思いますけどね」
帝の言う変化とは、今までの考え方、他人との付き合い方や関係性、そして、退屈だった日常に対するものだ。
多くを語らない帝は、今どんな日常を過ごしているのか。それは玲美にもわからない。
しかし、確かに何かが変わっている。もしくは変わり始めている。それだけはわかった。
それは遅々とした変化かもしれない。
今までの考えを根底から変えるというのは、誰でも難しいことだろう。その変化に耐えられない人だっている。
それは帝であっても例外ではなかった。
「色んなことを考え出すと止まらなくなりますよね。帝さんの全てが変わる訳でもありませんし、その必要もないと思います。ですが、じゃあ、何が変わるのか? 何を変えたいのか? 何が変わるべきなのか? 目を向けたら、どれもこれも気になってしまいます」
まるで心を読んでいるかのように、玲美の言葉は帝の迷いに真っ直ぐに刺さる。
正直に言えば、帝は未だに自分は優秀だと思っている。玲美には敵わずとも、客観的に見た時、やはり自分は優れた側の人間だと。
しかしその優越感は、帝にとってはどうでも良いものだった。
その優越感こそが、自分にとっての退屈に繋がっているのだと、今の帝は理解できているから。
しかしだからと言って、そう簡単に今までの行いを変えることはできない。
それはプライドが許さないということもあるが、それよりも、どうすればいいのかわからないと言う方が正しかった。
玲美が言うように、何が必要なのか、必要じゃないのか。
考えても答えが出てこない。
それは帝にとって初めての経験だった。
今日ここに来たのも、実はその答えを探していたのかもしれない。
帝の足は知らず知らず、この喫茶店に向かっていた。それは、変化について考えるきっかけになったこの場所でなら、何かヒントが隠されているかもしれないと思ったのかもしれない。
「あんたは……」
「こら。私は年上なのですから、あんた、は駄目ですよ。玲美さんと呼んでください」
「ちっ」
帝は軽く舌打ちをする。
それに玲美はムッと顔をしかめると、帝は悔しそうに口を尖らせた。
「玲美、さんは、俺がどうするべきかわかってるのか?」
「いえ、全然」
質問を予想していたのか、間髪入れずに玲美が答える。あまりにも早すぎる回答に、帝は抗議するように玲美を睨む。
「ふふ。ふざけてる訳ではありませんよ。本当にわからないんです」
「そうかよ」
答えを期待していた帝は、肩透かしを受けたようで落胆する。
玲美なら或いは、心の何処かでそう確信していた。その期待が逆に帝のショックを増大させたようだ。
それをほとんど表情に出さないのは流石といった所だろうが、とは言え、そんな隠し事など、玲美に筒抜けなのだが。
「その答えは、あなたにしかわかりません。と言わないとわかりませんか?」
「あ? どういう意味だ?」
「わからないのなら、ちゃんと手を上げて質問してくださいね」
はっきりと言わない玲美の態度は、帝にとってはおあずけを食らっているようなもの。
早く答えを寄越せと目で訴える帝に、玲美はチッチッと人差し指を振って、さらにもったいぶる。帝をからかうのが少し楽しくなってきたらしい玲美は、まるで弟をからかって遊ぶ姉のような気分だった。
玲美にかかれば、年下の男の子なんて、大抵が子供扱いか弟扱いだ。その点で言えば、最も男扱いされているのは、トシさんになってしまうのかもしれない。
犬であるトシさんは、雄扱いと言う方が正しいのだろうか。
ともかく、玲美の帝に向ける眼差しは、最初の頃とは違い、すでに敵意のあるものではない。
いつの間にか、玲美の眼差しが優しげなものに変わっていることに気付いた帝は、照れを隠すように顔を背ける。
「気持ち悪い目で見てくるんじゃねぇよ」
「それはひどい」
笑って言う玲美は、少しもへこたれない。本心からの言葉ではないと、確信しているから。
「私があの時怒っていたのは、帝さんの態度が気に食わなかったからという、すごく私的な理由です。言ってしまえば、帝さんの今後がどうとかなんて、あまり考えてませんでした」
「……その割りには、随分と勝手なことを言ってたな」
玲美の言葉に、帝は心を動かされた。
決して正直に認めることはないだろうが、今こうして、玲美の前にいる帝は、間違いなく玲美の言葉によって影響を受けている。
その言葉が、真っ直ぐに自分に向けられた言葉だと思ったから、帝は心を動かされた。
はずだったのだが。
「ふふ、帝さんならそのうち気付くと思うので、先に言っちゃいますが、それっぽい言葉を並べただけですよ。あ、私のエピソードは本当ですけどね」
悪びれることもなく言い放つ玲美に、帝は怒りを通り越して呆れを感じていた。
しかし、今になって思い返してみても、玲美の言葉は、帝にとって重い言葉だったことに変わりはない。玲美の真意が何処にあったとしても、帝の今の気持ちが変わることはなかった。
冷静に今までのことを思い返す。
帝は客観的に見れば、明らかに優秀な部類の人間だ。余計なことに囚われなければ、自ずと自分で答えを導き出せる。
玲美の言葉の意味をしっかりと考えることができる。
迷子の子供のように、ただ救いを求めてここまでやって来た帝はもういない。
玲美の意思が、帝の正解を教えないというものならば、ここにいても時間の無駄だ。それならば、自分で答えを探し回った方がいい。
いや、今までならば、ここに来ることもなく、そうしてきたはずだった。
「帝さんの口から、その話題が出るだけでも、かなりの変化だと思いますけどね」
不意に帝は、玲美の先程の言葉を思い出す。
変化しなければ。
自分が変わらなければ、状況は変わらない。いつまでも退屈な、無価値な毎日が続くだけ。
しかし、どう変化すればいいなかわからなかった。だから、ここに来た。
その答えを聞けると期待して。
実際には、その答えがわかることはなかったが、そのヒントは、やはり目の前の人物から降って落とされてきた。
「ちっ」
「どうかしましたか?」
玲美はコテンと首を傾げる。
傍から見る分には、可愛らしく、意図を理解していないような、純真無垢な表情だ。
しかし、そんな訳があるはずもなく、すべてが玲美の手の平の上であると理解してしまう。理解できてしまう。
結局、帝は玲美に道筋を教えてもらっていたのだ。それに気付くか気付かないかのギリギリのラインで。
決してお礼を言う気になんてなれず、帝は席から立ち上がった。
「帰る」
イライラしているように見える帝だが、その足取りはここに来る時よりも遥かに軽そうだった。
しっかりとカウンターの上に置かれた代金を手にしながら、玲美は静かに声をかける。
「はい、ありがとうございました」
店の扉に手を掛けて、帝はガチャリと大きな音を立てながら扉を開けた。
そのまま勢いよく店を出ていくのかと思っていると、帝はその手前で足を止めて固まる。
いきなり立ち止まった帝に、玲美が不思議そうに眺めていると、帝はゆっくりと振り向いて、苦々しい表情で言った。
「次、来た時は、俺の方が上だったとわからせてやるからな。待ってろよ」
精一杯の虚勢を張った言葉。
しかしそれは、また来るね、と言うだけの言葉で、玲美はクスッと笑って頷いた。
「ええ、もちろん。今後もこの喫茶店をご贔屓に」
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