第3話 とある平凡な少女の話 二
「なるほど、一葉さんは、あの高校に通っているんですね。すごいじゃないですか」
「いえ、私なんて、全然ですよ」
一葉が語った学校は、玲美も知る有名な学校だった。
「でも、一葉さんは、そこで学年でも2番なんですよね? それですごくないなんて、周りの人に恨まれますよ?」
何の気なしに言う玲美に、一葉は少しだけムッとした。
「私は、誰よりも勉強してます。だから、他の人より上なのは当たり前なんです」
それは、一葉の譲れない一線だった。
誰よりも努力を重ね、誰よりも勉強をしている。例え、有咲に負けていようと、それだけは譲れない、一葉の自信だった。
勉強もせずに、もしくは、自分よりも勉強をしていない相手に負けるなど、一葉は考えられない。
やるべきことをやっている一葉にしてみれば、今の成績は当然の結果であり、他人にとやかく言われる謂れはなかった。
「そうですか。それを迷わず言えるのは、素晴らしいことだと思いますよ」
しかし、そんな失言をサラッと流し、いや、玲美からしたら、言いたいことを言っただけで、そもそも失言だとは思ってないようだが、ともかく、玲美は一葉を誉めた。
そして、その真っ直ぐな褒め言葉に、腹を立てていたはずの一葉も、呆気に取られてしまう。
ここまで話してみて、一葉も玲美が自分の感性とかけ離れた独特な感性を持っているのだと悟っている。
しかし、それがわかったとして、一葉は玲美のペースに合わせるしかない。残念ながら、相手を自分のペースに持ってくるなんてテクニックは、一葉にはなかった。
諦めて、一葉は話を続ける。
「それで、私の言っていた知り合いは、早乙女さんって人なんですけど、早乙女さんは、玲美さんと、その、雰囲気が似てるんです」
「雰囲気、ですか?」
「はい。見た目が似てる訳じゃないんですけど、醸し出す雰囲気というか、なんというか」
曖昧な表現になってしまうのは、一葉が言葉を濁しているからだ。
もし、何も隠さず、素直に表現するとしたら、一葉にとって、玲美や有咲は、何もせずともすべてを持っている者。恨めしい存在。
要は、どちらも、一葉にとって、嫌いな人種になり得る存在であるということだった。
しかしそれを言うのは、一葉もまずいとわかっている。そんなものは、ただの醜い嫉妬であると自覚しているのだから。
「早乙女さんは、玲美さんみたいに、すごく綺麗な人で、みんなの人気者です。それでいて、私よりも頭が良くて、学年1番です。それなのに、運動もできて、誰とも仲良くできて、みんなのあこがれなんですよ」
有咲のことを話すと、どうしても心が落ち着かなくなる。
どうしても、心の内にある醜い感情を自覚してしまう。
コーヒーを飲んで落ち着こうとしても、そう上手くはいかなかった。
「誰からも頼られて、何でもできて、天は二物を与えない、なんて、よく言いますけど、あの人にはそんな法則、通用してないんですよ」
あの人は、何もしなくても、何でも手に入れることができる人なんです。
なんとか、その言葉だけは飲み込んだ。
有咲が何もしていないなど、一葉にはわからないのだから。それは、一葉の勝手な思い込みでしかないのだから。
「なるほど。その早乙女さんという人も、すごい人なんですね」
「ええ、そうです。社交性もあって、さっきなんて、私なんかを遊びに誘ってくれて。こんな地味なクラスメイトなんて、無視してもいいのに」
不思議と口が回る。抑えきれない感情が、溢れ出すように。
言わなくていいはずの話が、どんどんと口から溢れてくる。
「いつもそうなんです。早乙女さんは、何故か私にも気を配ってくれて、クラスでも話しかけてくれる」
「優しい人なんですね」
「どうですかね」
思わず呟いた言葉に、一葉はハッとした。
「あ、いや、今のは、違くて」
一葉にしてみれば、これは悪口でしかない。
いや、相手がこの場にいないのだから、陰口になるのだろうか。
そんな低俗なこと、一葉はしたくなかった。
自分がそんな低俗なことをする人間だなんて、認めたくなかった。
しかし、一度口に出してしまった言葉の言い訳なんて思い付かなくて、一葉は黙り込んでしまう。黙れば黙る程、それを認めたことになると、わかっているのに。
心臓の音がうるさかった。どんどん早くなる鼓動に、一葉は自分が怖くなっていった。
それは、何処か知らない土地に、1人で放り投げられたような感覚。心細くて、怖くて、身体が氷のように固まって、冷たくなって、どうしていいかわからず動けない。
気付けば、一葉は泣いていた。
意味がわからなかった。
何が悲しいのかわからない。しかし、悲しくて悲しくて仕方がなかった。
一葉は涙を拭うことすらできずに泣き続ける。
嗚咽が漏れて、手が涙で濡れた頃、不意に暖かい感触が、頬に触れた。
「大丈夫ですよ。一葉さんがひどい人だなんて、誰も思ってませんから」
「え?」
玲美は一葉の涙をハンカチで拭っていた。
「今、一葉さんが何を思っているのかはわかりませんが、少なくとも私は、一葉さんはすごく素敵な人だと思ってますよ」
優しく微笑む玲美は、まるでお母さんのように、一葉の心を優しく包み込む。
「誰しも、他人を快く思わない感情はあります。それが正常なんです。一葉さんだけのものじゃないのですよ」
玲美はソッと一葉を引き寄せて胸に抱き締めた。トクトクと、心臓の音が聞こえてくる。
その音は、さっきコーヒーを飲んだ時よりも、遥かに落ち着くもので、一葉の頭は少しずつ落ち着いていった。
そして、それからしばらくしてやっと、一葉は口を開くことができた。
「違うんです。私が嫌だったのは、それだけじゃないんです」
頑なだった心は、今ではもう溶けていた。
一葉の心は、すでに溢れている。
それは、何かのきっかけがあった訳ではない。いや、きっかけはあった。しかし、それは、偶々それがきっかけであっただけで、それに限ったものではない。
いつでも決壊してしまう程に、一葉は限界だったのだ。
きっかけは、一葉が有咲の誘いを断ったこと。
自分を誘ってくれた有咲は、本当に優しいと思った。誰とでも分け隔てなく接してくれる有咲は、一葉にとっても、あこがれの存在だった。
そんな有咲の誘いを断ったのは、単なる当て付けだった。
実際、遊ぼうと思えば遊べる。
空気が悪くなるなんてのはただの言い訳だ。そんなもの、有咲がいれば解決する話だろう。
勉強をする時間が減るという問題も、こうして今、喫茶店に来ることができている訳だし、この時間をカラオケに向ければ、何ら問題はない。
そうしなかったのは、結局、一葉が勝手に嫉妬して、有咲を毛嫌いしているからに他ならない。
そしてそれは、今回に限った話じゃない。
一葉が自分で言っていたように、有咲は何かと一葉を気にかけてくれていた。
それは1年生の頃から。
最初の定期テストの結果が出た時、その時、学年で1番が有咲。2番が一葉だった。
同じクラスだったこともあり、2人はお互いの存在を認識した。一葉の場合は、新入生代表の挨拶の際から認識していたのだが。
それから、有咲はよく、一葉に話しかけるようになった。
その真意はわからない。
しかし、面白半分で近づいてきている訳ではなさそうだった。
最初、一葉は有咲が優越感に浸るために、自分に話しかけてくるのだと思っていた。どれだけ努力しても勝てない自分を、心の中では馬鹿にしているのだろうと。
しかし、有咲から何度も話しかけられる内に、そうではないのではないかと思うようになっていった。
有咲は、一葉と話すことが楽しそうで、大した話をしていないのに、少し話すだけでも喜んでいた。
大抵は勉強の話がメインだ。
あそこが難しかった。あれはどうやって覚えたのか、など。それはとても有意義で、一葉も素直に楽しんでいた。
そう。一葉は、有咲との会話を楽しんでいた。
それは揺るがない事実だった。
だが、一葉はそれを自分で否定していた。
もしかしたら、有咲は本当に優しい人なのかもしれない。そう思おうとしたことも、ない訳ではなかった。
しかし、テストで負ける度に、一葉は有咲を憎んでしまう。
そして、有咲との会話は楽しくない。有咲は自分を馬鹿にしている。そう思い込もうとしていた。
そう思わなければ、有咲を敵だと思わなければ、一葉は自分を保てなかった。
何もしなくてもすべてを手に入れることができる有咲は、自分の敵。悪であり、許してはならない存在。
私は努力している。彼女は努力していない。
世界は不条理であり、不平等であるだけ。神に愛されただけの有咲なんかより、私の方が絶対的に正しい。
そう思い込んでいた。思い込もうとしていた。
しかし、実際には、思い込むことなんてできていない。思い込んでいると、自分に嘘をつくことしかできない。
元来、一葉は嘘をつくことに何も感じないタイプの人間ではない。それが自分を騙す嘘であっても、一葉の心は傷付けられていた。
それが今、その傷が今、悲鳴を上げたのだ。
この場で。この喫茶店で。玲美の前で、それが悲鳴を上げたのは、本当に偶然に過ぎない。
決して、玲美が何かをしたからではない。
だが、こうして今、心を決壊させた一葉を、玲美は放っておかなかった。
「話してみてください。全部、思うことを。私は絶対に、見損なったりなんてしませんから」
その言葉に、一葉は顔を上げて玲美を見た。
その顔は怯えているようで、まだ完全に心を開いてくれたわけではなさそうだった。
しかしそれは、心の開き方を知らないだけ。
今まで多くの問題を1人で解いてきた一葉は、唯一、誰かに助けを求める方法を知らない。
だから、玲美はそれを教えてあげることにした。頭の良い一葉なら、すぐにわかるはずだと確信しながら。
「一葉さん。私がどうして、一葉さんを素敵な人だと思ったのか、わかりますか?」
「え?」
急な問いに、一葉は反応できなかった。
もちろん、玲美もそれは予想済みで、特に待つ気配もなく、答えを告げた。
「さっきも言いましたが、人は誰でも、誰かを疎ましく思うものです。でも、一葉さんは、それを嫌なことだと思ってましたよね? そう思えることが素敵だと思ったのです」
静かに語りかける玲美の言葉は、すんなりと一葉の心に落ちていく。
その感覚は、テストで1番を取った時。いや、もっと前の、もっと単純な感情。勉強を頑張って母親に誉めてもらった時の、あの嬉しかった、純粋な気持ちだった。
そして、自然と、一葉の口が動いた。
「私は、勉強しか取り柄がないんです」
そうして話し始めたのは、一葉の内に秘められた今までの葛藤だった。
歳を重ねるにつれ、自分が勉強しかできない人間なんだと思うようになっていったこと。
それ以外に誉めてもらえるような特技なんてないこと。
それ以外に自分が認められるものなんてないと思ったこと。
そして、そのすべてを有咲に奪われたと思ったこと。
一葉は、それらを包み隠さず話した。
もう、一葉を止めるものはない。
もうすぐそこまで押し寄せていた感情の波は、止まることなく進み続ける。
語った。
何もかもを語った。
白状した、とも言えるかもしれない。外に出してはいけないと思っていた感情もすべて。
そうして最後まで語り終えた時、一葉は、なんとも言えない解放感と、同時に、自分が情けなく感じていた。
しかし、それも、今までのような感情を抑え込んで、嘘をつき続けてきたことに比べれば、まだましな方だった。
「私って、本当に勉強しかしてこなかったんですよね。しかも、結局、それでも1番になれませんでしたし。情けないです」
力なく笑う一葉は、溜息を溢して項垂れた。
一葉の内には、さっきのような張り詰めた緊張はなくなっていたものの、自己嫌悪は残っているようで、ひどく落ち込んでいた。
そんな姿も、今となっては、年相応に悩む普通の少女の姿になっているのだが。そんなこと、一葉には気付きようもなかった。
そんな普通の変化を微笑ましく眺め、玲美は口を開いた。
「情けなくなんてないと思いますけどね」
「ふふ、慰めはいいですよ」
一葉は苦笑いで答える。
しかし、玲美は首を振った。
「いえいえ、本当のことですよ」
玲美は笑って、一葉を見つめる。
無邪気な瞳で見つめられ、一葉はなんとなく恥ずかしくなり、顔を赤くした。
玲美は、そんな一葉に笑みを浮かべて語り始める。
「さて。一葉さん。少しだけ、お話をしましょうか?」
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