第3話 とある平凡な少女の悩み 一

 水上一葉は、平凡な少女である。

 しかし、この辺りでは1番の進学校である高校に通い、学年でもトップクラスの学力を誇る秀才少女でもある。


 そんな一葉は、昼間は学校。夕方は塾。そして、夜には自習と、休む間もなく勉学に勤しんでいた。

 部活になんて入っていないし、アルバイトなどもっての外。勉強に費やす時間がなくなる行為なんて一葉には考えられなかった。


 彼女は知っていた。

 自分が平凡であることを。

 自分が今、秀才と呼ばれているのは、ただ他人よりも勉学をする時間が長いから、というだけ。


 もし、少しでも怠れば、いや、自分が怠けなくても、周りがもし、一葉と同じだけの勉強をすれば、自分などすぐに抜かれてしまうだろう、と。


 彼女の親は、一葉に期待していた。

 有名な高校に入学し、そこでも恥ずかしくないトップの成績を残している。


 もちろん、一葉の努力は知っているが、それでも、両親の一葉にかける期待は、一葉には重すぎるものだった。


「あなたなら、弁護士にも、医者にもなれるわね」


 小学生の頃、そう言ったのは、一葉の母親だ。

 それは、単純な称賛だったのかもしれない。


 しかし、その言葉は、一葉にとって、自分が目指す指針になっていた。


 お母さんは、私に、弁護士か医者になってほしいんだ。そう思ったのは、一葉の早とちりなのかもしれない。

 だが、それを目指して頑張る程、母親は自分を誉めてくれた。


 勉強以外、特に得意なことのなかった一葉にとって、誉めてもらえるものは、勉強くらいしかなかった。だからこそ、一葉はそれに縋ったのかもしれない。


 それから、一葉はより一層、勉強に打ち込むようになった。


 小学校、中学校では、学年1番の成績を誇り、当然のように進学校に通う。

 それまでは、一葉は自分が平凡な人間だとは思っていなかった。


 運動は駄目。

 容姿もパッとしない。

 友達だってほとんどいない。

 性格だって暗い。


 それでも、勉強だけなら、自分は誰にも負けない。それだけの才能と努力を、自分は持っている。高校に入るまで一葉はそう思っていた。


 意識してはいなかったが、確実に、そういう思いが、一葉の心の中にあった。


 しかし。


「それでは、新入生代表、早乙女有咲」

「はい」


 この学校の新入生代表は、入試時の成績で決まる。つまりは、首席という訳だ。


 そこに選ばれたのは、一葉ではなかった。


 とはいえ、それにはそこまで、一葉も落ち込んでいなかった。


 入試という一発勝負の場で、一時的に負けてしまうのは、別に珍しいことでない。特に、この学校は各中学校で、トップクラスの成績を誇っていた学生が集まる高校だ。

 一度負けるくらい、一葉は想定内だった。


 しかし、それよりも、一葉が気になったのは、そこで呼ばれた少女のことだった。


 名前を呼ばれ、壇上に上がる少女は、スラッとした長く綺麗な足、汚れを知らない艶やかな黒髪。そして、凛とした表情は、まだ中学校を卒業したばかりとは思えない程に大人びていた。


 思わず見惚れてしまう程に整った容姿は、一葉にはないもので、そんな可憐な少女に負けたというのが、一葉には信じられなかった。


 しかもそれは、一葉に限った話ではなく、体育館に集まるほとんどの人間の視線を奪っているようだった。


「太陽の光が満ち溢れ、命が生き生きと活動を始める春……」


 響く声も、イメージ通りに綺麗なもので心地よく、体育館を満たしていく。


 ただその一時、それだけで、一葉は自分の敗けを認めてしまった。


 ◇◇◇◇◇◇


「ありがとうございました」


 一葉は塾からの帰路に着いていた。

 今日は日曜日。遊びに行くなどという発想はない一葉は、1日中ずっと塾にいた。


 もう夕方だが、今は夏。まだそんなに暗くはなっていなかった。


 それもあってか、街にはまだ遊んでいる学生が多い。一葉とは違い、今を楽しんでいるような学生たちを見て、一葉は言い様のない、不思議な気持ちになっていた。


 しかし、その気持ちがなんなのか、それを考えることはせずに、一葉は歩き出した。


「あれ? 一葉ちゃん?」


 知り合いには会いたくない。そう思っている時にこそ、人は知り合いに会うのだろう。

 そこにいたのは、有咲だった。


 有咲は友達と遊んでいる所だったようで、少し後ろには、いつもの友達がいた。


「あ、こ、こんにちは」

「こんな所でどうしたの? もし暇なら今からカラオケに行くんだけど、一緒に行かない?」


 有咲は無邪気な笑顔で一葉を誘った。

 実は、有咲は何かと一葉に話しかけてくることが多い。

 どうしていつも話しかけてくるのか、一葉には理解できなかったが、それを聞く勇気も、一葉にはない。


 一葉がチラッと有咲の後ろを見ると、有咲の友達たちも微妙な表情だ。

 別にいじめを受けている訳ではないが、クラスメイトとも絡まず、ただひたすらに勉強だけをする一葉は、クラスでも浮いていた。


 そんな一葉が、有咲たちの遊びに混ざったら、空気を悪くするのは明らかだ。それをわかっている一葉は、いつものようにその申し出を断る。


「ごめん。この後、用事があるから」

「そうなの? それなら仕方ないね。また、誘うね」


 断る一葉に、有咲は特に気を悪くした様子もなく、笑って友達の方へと戻っていく。


 それを見送って、一葉は溜息を漏らした。


 本当はもう少し街を見て、参考書でも見てみようかと思っていたのだが、また有咲たちに会うかもしれないことを考えると、あまり出歩くのも気が引けた。


 しかし、だからといって、帰るのは何か負けたような気がして、やりたくなかった。


 そんな時、何の気なしにふと、路地裏に入って行くと、不思議な雰囲気の喫茶店を見つけた。


 その喫茶店は、あまり人も入っていないようで、静かな雰囲気が一葉にとって好印象だった。


 カランカランと、扉を開けると鈴の音が響いた。


「いらっしゃいませ」


 聞こえてきたのは綺麗な女性の声。

 声のした方を見ると、そこにいたのは、有咲の時に感じたような目を奪われる感覚。


「どうぞ、お好きな席へ」

「あ、はい」


 思わず固まっていた一葉は、声をかけられてハッと意識を取り戻した。そして、特に何も考えずに、カウンターへと向かう。


 座ると、その女性、玲美が、一葉にメニューを渡した。


 別にお腹がすいている訳ではない一葉は、コーヒーだけを頼むことにした。

 畏まりました、と言う玲美は、やはり綺麗で、一葉は玲美を目で追ってしまう。


 最初、一葉は、玲美が有咲並みに綺麗だと思った。しかし、その認識は間違っていた。


 確かに、有咲も美少女に間違いないのだが、玲美は、それを遥かに超える綺麗な女性だった。


 それは外見だけではない、内面の美しさ、と言うのだろうか。一葉には、それを明確は言葉にすることはできなかったが、とにかく、玲美には、有咲にはない魅力的な美しさがあった。


 それは、人生の積み重ねの違い。

 なのだろうが、一葉には難しい違いだった。


「お待たせしました」

「あ、は、はい」


 気付けば、一葉の前にコーヒーが出されていた。その間、ずっと、玲美を見つめていたことを思いだし、一葉は恥ずかしそうにコーヒーに目を移す。


 そして、その焦った気持ちを紛らわすために、一葉はコーヒーに口をした。


「あ、美味しい」


 すると、口の中に落ち着いたコーヒーの薫りが広がった。それは少し苦かったが、それが逆に心を落ち着かせてくれる。


 フッと息を吐いた一葉は、ふと、玲美からの視線を感じる。

 優しげに見つめてくる玲美に、一葉は恥ずかしそうに目をそらした。


「あ、あの、どうかしましたか?」

「いえ、先ほどは熱烈な視線を感じましたので、何かあったのかな、と」

「うっ」


 もしかしたら、コーヒーを挽くのに集中していて、自分がずっと見つめていたことなど気付いていないのではないか、と淡い期待をしていた一葉だったが、それは虫が良すぎる話だったようだ。


「い、いえ。ちょっと、クラスメイトの子に似ていたので」

「ああ、そうなんですね。お友達ですか?」

「……いえ」


 別に、玲美に対して正直に答える必要などないのだから、単純に、はい、と答えてもよかったのだが、一葉は咄嗟にそれを否定してしまった。


「友達じゃ、ありません」


 遊びに誘ってくれた有咲の笑顔を思いだし、一葉は少しだけ迷ったように言う。


「なるほど」


 それは、他人から見れば、一瞬の迷い。

 気付かない人ならば気付かないだろう。例えば、これが海人や尚太ならば、絶対に気付かなかった。美咲でも、気付いたかどうか、微妙な所である。


 しかし、玲美はそんな一葉の一瞬の迷いに気付いていた。


「そう言えば、実はこの前、美味しいお菓子を頂いたんです。サービスしますので、いかがですか?」

「え? あ、サービスなら」


 勉強のお供に、一葉はよくお菓子を食べている。それもあってか、一葉は甘いお菓子が好きだった。


 一葉の返事を聞いて、玲美はニコッと笑い、後ろの棚からお菓子を取り出してきた。


 それを見て、一葉は驚く。


「え! それって、あのお店の?」

「はい。ご存じでしたか」


 玲美が出してきたのは、以前に尚太が持ってきてくれた有名なお菓子。中々手に入らない珍しいお菓子だ。


 一葉もその存在は知っていて、いつかは食べたいと思っていたのだが、いつも行列ができている店に並ぶなど、一葉にはできなかった。しかも、それだけ並んでも、失敗したら売り切れになってしまう。


 そうなったら、これ以上ない程に時間の無駄だ。そんな愚は犯せない。

 そう思いつつも、一葉はそのお菓子のことが、ずっと気になっていたのだ。


 まさか、こんな所でお目にかかれるなんて、想像もしてなかった一葉は、思わず唾を飲む。


「ふふ。そこまで喜んでいただけたのならよかったです」

「これ、手に入れるの大変なんですよね? それを貰ったんですか?」

「ええ、少しだけ縁がありまして、そのお礼に、と」


 何のことはないと言う玲美に、一葉は少しだけ苛立ちを覚えた。


「やっぱり、持ってる人は、なんでも持ってるんですね」

「え?」


 小さな呟きは、玲美には届かなかった。

 いや、本当に届かなかったのかは不明だが、少なくとも、玲美は、もう一度、一葉に聞き返した。


「どうかしましたか?」

「い、いえ」


 そこで一葉は、慌てて口をつぐむ。

 出会ってすぐの他人に、いきなり失礼なことを言うという非常識は、流石に一葉の理性も働いた。すぐにコーヒーを飲んで心を落ち着かせる。


 しかし、それが逆に、一葉の思考を悪い方へと引きずり込んでいす。


 一葉が飲んだこのコーヒーは、本当に美味しくて、それだけでも、この人の才能が見えるようだった。


 しかも、それだけではなく、玲美が今まで見てきた中で、最も綺麗だと嫉妬した人物、有咲でさえも霞んで見えるような美貌を持ち、さらには、恐らくお客からだろうが、普通なら手に入らないようなお菓子をプレゼントされるような人気者。


 出会ってから数分しか経っていないが、一葉の目には、玲美はなんでもできて、なんでも持っている、そんな人物に思えた。



 自分が寝る間も惜しんで勉強している中、遊んでいる有咲。それでも、有咲に勝てない自分。

 しかし、そんな有咲でさえも、玲美には勝てないだろう。


 そんな人が、目の前に現れて、一葉は悔しくて仕方がなかった。

 自分は何も持っていないのに、目の前の女性は、何もしてなくても、全てを手に入れているように見えて、一葉はどうしようもなく、悔しかった。


「どうぞ。落ち着きますよ」


 コトッと置かれたお菓子は、一葉がずっと食べたいと思っていたものだ。

 だというのに、今はそれを食べたくない。


 どうしてなのかはわからない。

 だが、それを食べたら、自分が何も持っていないことを認めてしまいそうで。



 しばらくお菓子を見つめ、黙ったままの一葉に、玲美は少しだけ苦笑いした。


「毒なんて入ってませんよ」

「え? あ、いえ、そんなこと思ってません」


 まさかそんな心配をされると思ってなかった一葉は、完全に虚を突かれた。


 しかし、そこで否定してしまったため、一葉はそのお菓子を食べないことに不自然さを隠せなくなった。

 一葉もそこまでの子供ではない。出されたお菓子を、当てつけのように押し返すのは、流石にできないのだ。


 仕方なく、一葉はお菓子を一口だけ食べることにした。そうしてから、口に合わなかったと返せば、そこまで不自然ではないと思ったからだ。

 それでも、かなり無理矢理であるのは、一葉も理解している所だが。


 しかし、そんな考えも、そのお菓子を一口食べただけで吹き飛んだ。


「っ! お、美味しい!」


 それまで考えていたことなど1つも忘れて、一葉はその美味しさに目を見開いた。


 そのお菓子は、一葉が思っていた以上に美味しかった。想像よりも甘さは控えめだが、その分、口当たりは優しく、すぐに次へと口が動いてしまう。


 さっきまでは、口に残っていたコーヒーの苦さも、お菓子の甘さで緩和される。

 まるで、元からセットであったかのような抜群の組み合わせに、一葉は無言でお菓子を頬張っていた。


 そして、気付けば、一葉の手にあったお菓子は跡形もなくなっている。それはもちろん、一葉がすべてを食べてしまっただけなのだが、何もなくなった手を見て、一葉は悲しそうに溜息を漏らした。


「ふふ。サービスですよ」

「え?」


 ふと頭の上から玲美の声がして顔を上げると、玲美は、シーッと指を口元に当てて、もう1つお菓子を出してくれていた。

 抜かりなく、新しいコーヒーまでも。


「あ、ありがとうございます」

「いえいえ、緊張がほぐれたようで何よりです」

「え?」


 ギクッと一葉が肩を震わせた。

 恐る恐る玲美を見ると、玲美は困ったように笑っている。


「少し、私が気に入らなそうだったもので。賄賂、ですね」

「わ、賄賂、ですか?」


 不穏な言葉に一葉が固まっていると、玲美は、冗談ですよ、と笑った。

 その無邪気な笑みに、一葉はいつの間にか、玲美に感じていた敵意を忘れてしまっていた。


 いや、忘れたというと語弊がある。まだ、一葉が玲美に対して持っている嫉妬の念は消えていない。しかし、それを意識しても仕方がないと思う程に、玲美は、一葉とは違ったのだ。


「でも、もし、何かお悩みなら、お話は聞きますよ?」

「悩みなんて、何もないですよ」


 そんな玲美に、一葉は少しだけ、悩みを打ち明けたくなった。それは、答えに悩んだ生徒が、先生にヒントを尋ねるような感覚だ。

 しかし、今まで1人で勉強を続けていた一葉には、誰かに頼って出した答えを認めることはできなかった。


 頑なに話す様子のない一葉に、玲美は表情を崩さずに話を変えた。


「そうですか。そういえば、さっき、私に似ている方がいるとおっしゃってましたよね?」

「え? そう、ですね」

「よろしければ、その方のことを少し教えていただけませんか? 私に似ているなんて、少しだけ興味があるので」


 玲美は、大人びた雰囲気からは程遠い、子供じみた調子で尋ねた。


 そんな玲美に、一葉の警戒は少しだけ薄れてしまう。


 悩みを打ち明けることはできないが、有咲の話をするくらいなら。しかもそれは、相手が聞きたがっているから話すに過ぎない。それは、あくまで一葉から話す相談ではないのだから。


「わかりました」


 そして、有咲の話が始まる。

 それら、紛れもなく、一葉自身の話であるはずなのに。

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