第2話 とある絶望する青年の話 四
「それでね、海人が、ちゃんとみんなに言ったんですよ。俺と美咲が付き合ってるのは本当だって。ものすごく気障だったけど、すごく嬉しかったんです」
「もういい、だろ。その話は」
「ふふ。いえいえ、海人さん、カッコいいですよ」
玲美の誉め言葉に、海人は恥ずかしそうに顔を赤くしてそっぽを向いた。
今日の客は、海人と美咲だけ。
海人は、ホットミルク。美咲はコーヒーにミルクと砂糖を多め、という注文だった。
しかし、2人とも、飲み物を楽しむというよりは、玲美との会話を楽しんでいるようだ。
海人と付き合うことになった美咲は、それからすぐに海人から玲美を紹介してもらっていた。
間接的にとはいえ、自分たちが付き合うことができたのは、玲美のお陰だと思ったからだ。
しかし、今では美咲は、玲美を本当の姉のように慕っている。
元々、美咲は長女で、妹が1人いるだけ。姉というものに少しだけ憧れていた美咲は、まさに理想のお姉さんのような玲美にすぐに懐いたのだ。
海人も玲美に対しては、今でも何かと相談に来ることが多く、玲美のことを信頼していた。
今となっては、ここは2人のデートの定番スポットの1つとなっている。
そして、今日もまた、2人は喫茶店に訪れていた。
「また惚気かよ」
「いいじゃないですか。お2人とも、すごく仲が良さそうで」
「……ふん」
トシさんは、2人の惚気話に飽き飽きしたという様子だが、楽しげに話す美咲を邪魔するのは野暮だろうと、強く言うことはなかった。
何かと美咲のことを気にかける玲美の怒りを買いたくないというのもあるのだが。
しかし、今日は、その2人以外にも、客が訪れる日だったようだ。
カランカランと、珍しく鈴の音が鳴る。
最近は、海人や美咲が来るので、鈴の音が鳴ること自体は、そんなに珍しいことでもないのだが、1日に2回以上、鈴の音が来客を報せるのは珍しかった。
トシさんは、美咲の話に気を取られていたようで、急な来客に驚きすぐに寝たフリをする。
海人たち以外に、話せることがバレるのは面倒だと思ったからだ。
「玲美さん。こんにちは!」
しかし、どうやらトシさんの声は聞こえてなかったようで、何ごともなく、1人の男が入ってきた。
「ああ、尚太さん。こんにちは」
玲美は音が聞こえる前から気付いていたようで、驚くこともなくコーヒーを挽いている。
さっきまでは楽しく話していた美咲たちも、初めて見た自分たち以外の客に驚き、話が止まってしまった。
しかし、そんな空気に気付いた様子はなく、尚太はまっすぐに玲美の元へと歩いてくる。
そして、とある紙袋を玲美の前に置いた。
「この前はありがとうございました。かなり怒られましたけど、なんとかなりました。なので、そのお礼です」
「そんな、気にしなくても良かったのに。でも、ありがたくいただきますね」
紙袋の中に入っていたのは、この近くにある高級菓子店の1番人気のお菓子だ。毎日のように行列ができて、買えないこともよくあるような、珍しいお菓子だ。
そんなものをお礼に、と持ってくる辺り、かなりの感謝を感じているようだった。
「訂正はできたんですか?」
自然な動作でお菓子を取り出しながら、玲美が尚太に尋ねる。
「はい。あの後、先輩に相談して、すぐに上司に報告したんですけど、玲美さんが言ってたみたいに、ものすごく怒られました。いや、正直、社会人になって初めて、あんなに怒られましたよ」
あはは、と力なく笑う尚太は、その時のことを思い出しているのか、かなり遠い目をしている。
しかし、そんな表情をしながらも、特にそれに絶望している様子はなかった。
「でも、それでも上司も先輩も、俺と一緒になって、取引先の相手に謝ってくれたんです。その人も、自分もちゃんと確認してなかったから、と、意外と簡単に許してくれたんです」
「なるほど。それなら、大きな問題にはならなかったんですね」
「はい。その後もこってり怒られましたが」
言葉では言い表せない程、かなり重い叱責を喰らったのだろう。その言葉には、相当な実感が込もっていた。
それでも、少しだけ嬉しそうなのは、その叱責の理由を、尚太自身も理解しているからなのだろう。
その証拠に、尚太の口から話されたのは、玲美が諭していたことそのものだった。
「玲美さんが言ってくれたみたいに、やっぱり俺、失敗が恐いだけだったんです。みんな、怒ってはいたけど、俺を見捨てるようなことはしなかった。でも、そんなの、今までのみんなを見ていれば、当たり前のことだったのに」
そんなことにも気付きませんでした。
そう言う尚太は、苦笑いを浮かべる。
そんな尚太に、玲美は首を振った。
「誰しも、周りが見えなくなる時はあります。でも、尚太さんが自分でそれに気付けたのなら、もう大丈夫だと思います」
人は、失敗を繰り返して成長する。
しかしそれは、失敗を糧に、次へと進もうとする人に限った話である。
尚太がもし、あの時、自分1人で解決しようとしていたら、仮に上手くいったとしても、そこに成長はなかっただろう。
その場は切り抜けることができても、いつか必ず、同じような、いや、もっと大きな失敗をしていたかもしれない。
そうならなかったのは、玲美の助言を素直に、しっかりと自分で考え、自らの行動を分析することができたからに他ならない。
玲美は、人を見る目はある方である。
その玲美から見て、尚太は何でもできる器用なタイプではない。どちらかと言うと、1つに集中すると周りが見えなくなる危なっかしいタイプである。
しかし、それゆえに、愚直なまでに真剣に自分と向き合うことができる人間である。
そんな尚太のことを、玲美は好ましく思った。それは、弟のような、庇護欲のそそる男の子というような感じだが。
「次からは、しっかりと確認して、周りの人に迷惑をかけないようにしてくださいね」
「うっ。も、もちろんです。そう何回も、迷惑なんてかけてられませんから」
若干不安は残るものの、しっかりと返事をした尚太は、もう今までとは違う、一皮むけた雰囲気があった。
玲美は、丁寧に、一際手間をかけて挽いたコーヒーを、尚太に差し出す。
「それでは、これは私からの餞別です」
玲美へ報告するために、少しだけ気持ちを昂らせていた尚太だったが、玲美に出されたコーヒーの薫りに、少しだけ心を落ち着かされた。
そして、それと一緒に出されたのは、尚太が持ってきたお菓子。それは、少し隣にいた海人と美咲にも出されている。
そして、もちろん、玲美の手にも。
「せっかくの美味しいお菓子です。みんなで食べましょうか」
実は、1番食べたがっていたのは玲美だ。
しかし、流石の玲美も、客そっちのけで、1人だけお菓子を食べるのは憚られた。
少なくとも、後々、トシさんから、色々と言われてしまうだろうことは容易に想像できる。言葉遣いとは裏腹に、トシさんは、そういう所には厳しいのだ。
しかし、そんな裏事情など知らない3人は、素直にお菓子を楽しむことにした。
その様子を少し遠くで見ているトシさんは、何か言いたそうにしていたが、尚太がいる前で言葉を話す訳にもいかず、黙ってそっぽを向いた。
「この喫茶店に、俺たち以外の客が来るとは思わなかった」
「ちょっと、失礼よ」
正直、美咲もそれに驚いていたのだが、口に出すことはしなかったのに、デリカシーのない海人が口に出してしまう。
流石に玲美だって、そんなことを言われたら、少しは腹を立てるんじゃないかと、恐る恐る美咲が玲美の方を見ると、玲美は特に気にした様子もなく、コーヒーを飲んでいた。
ホッとしたのも束の間、隣から声が出る。
「あれ! 俺のお菓子はっ!」
気付けば、海人の前に置かれていたお菓子がなくなっていた。
「はい。尚太さん。今日の主役は尚太さんなんですから、もう1つどうぞ」
「え? あ、え?」
何事もなく尚太に渡すお菓子は、明らかに海人の目の前にあったもので、玲美の笑顔も少しだけ威圧感があった。
その威圧に負け、尚太はそれを受け取ってしまう。
「あ、えと、ありがとうございます」
「お、俺の、お菓子!」
恨ましく睨んでくる海人に、尚太はどうしていいか困った顔。
「はぁ。だから失礼だって言ったのに。はい、これ」
「え?」
呆れた様子で、美咲は自分のお菓子を半分にして、海人にあげた。
「え? い、いいのかよ」
「べ、別にいらないなら、あげないけど」
半分に分けたとはいえ、それは美咲が口をつけていたお菓子。間接キスにもならない、そんなものだが、それでも、海人はそれを意識してしまう。
それは、美咲も同じようで、海人と同じように、顔を赤くしていた。
そんな様子を少し離れた所で見ていた尚太は、なんとなく居心地が悪くなる。
「あんな、子供にも彼女がいるのに。俺は」
さっきとは違う意味でどんよりとした様子の尚太は、チラッと玲美の方を見る。
玲美は、微笑ましげな会話している2人を、優しげな笑顔で見つめていた。
その様子は、すごく優しく綺麗で、尚太は目を奪われる。
初めから、綺麗な人だとは思っていたが、尚太は玲美のことが気になっていた。
目の前で彼女がいる羨ましい少年を見てしまったから、余計だろう。
「あの、玲美さん」
「はい? どうかしましたか?」
突然名前を呼ばれ、玲美が不思議そうに顔を尚太に向けた。
「あ、あの、また、また会いに来ても良いですか?」
いきなり核心をついたことは言えず、尚太は曖昧なことを言う。
しかし、顔を見れば真っ赤に染まり、おどおどとした様子を見れば、尚太の心の内など、玲美にしてみれば、火を見るより明らかだった。
そんな尚太に、玲美は苦笑いしながら、しかし、微笑ましく、先ほどの海人たちに向けていたような笑みを浮かべ頷いた。
「ええ、もちろん。今後もこの喫茶店をご贔屓に」
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