第2話 とある絶望する青年の話 三
「実は、その知人が怒っていたのは、コーラを飲まされたからではなかったんです」
「え?」
「あ、もちろん、それも怒ってはいましたよ? でも、それが1番の理由ではなかったのです」
平然と言う玲美は、知人にコーラを飲ませたことについては、あまり反省していないのかもしれない。
少なくとも、尚太の目にはそう写った。
しかし、それを指摘するような気概はなく、尚太はそのまま玲美の話を黙って聞く。
「それで、その知人はこう言ったんです。失敗したからって、恐がってんじゃねぇよ、とね」
「え?」
尚太は少しだけ予想外な答えに驚いた。
話の流れから、その知人が口にしたのは、「逃げるな」というものだと思っていたからだ。
実際、尚太は、自分の失敗から逃げようとしていた。なかったことにできるのなら、なかったことにしたい。それだけを思っていた。
その思いに影響して、玲美の話を先読みして出した答えがそれだったのだが、全くの見当外れだったようだ。
それに呆気に取られていた尚太だが、玲美の話は終わらない。
「正直、恐がっているつもりはありませんでした。ただ、仕返ししてやろうと、そう思っただけだったんです。いえ、そう思おうとしてただけなのかもしれないですね」
玲美は困ったように笑う。
少女のようにも見えるあどけない笑顔を浮かべる玲美は、幻想的で、しかし、最初に尚太が感じていたような完璧さは薄れていて、少しだけ親近感が沸いた。
「思おうとしてたってどういうことですか?」
尚太の質問に、玲美は正直に答える。
「ふふ。私は、結局、コーヒーを出して、また、まずいと言われたくなかっただけなんですよ。もう、そんなことを言われたくなかった。何度も失敗するようなやつなんて、思われたくなかったのだと思います」
それは、失敗を恐れていたからこそ。
玲美がそれを言葉に出さずとも、尚太はそれを読み取った。
そして、その言葉は、今の尚太にも当てはまる。
そこで初めて、尚太は自分の本当の思いに気が付いた。
結局、自分も失敗を恐れていたのだ、と。
目に見えた成功体験はないものの、大きな失敗体験もなかった尚太にとって、初めて取り返しのつかないと思った失敗。
それを認めることが、尚太は恐かったのだ。
そして、それのせいで、みんなに見放されるのが、恐かったのだ。
いつも良くしてくれた人たちも、今回の失敗で愛想を尽かしてしまうかもしれない。
そう考えると、恐くて恐くて、仕方がなかった。
言わずに済むなら、言わずに終わらせたい。
それを、自分の失敗を取り戻すため、なんて、立派な言い訳で着飾って、あたかも、それが正しいことであると、自分自身に言い聞かせていた。
これは、決して直接指摘された訳ではない。玲美はあくまで自分の体験談を話したに過ぎない。
しかし、尚太には、この話は自分に向けられた話だと思わずにはいられなかった。
「俺、でも、こんな失敗。言えないですよ。馬鹿にされたくないとかじゃない。みんなに見放されるのが、恐い。優しかったみんなが離れていくのが、恐いんですよ」
やっと、正直な言葉を話してくれた尚太に、玲美は穏やかな表情だった。
そして、震える手を握り、ソッと語りかける。
「尚太さん。失敗をして怒られるのは、誰でも恐いです。それは、恥じることではありません。でも、もし、本当に、皆さんに嫌われたくないのなら、正直に皆さんを頼ってみてください」
「頼、る?」
あまり、この場にそぐわないように感じる単語に、尚太は少しだけ戸惑った。
失敗を正直に告白することは、失敗した者の責任だろう。それは、言うなれば、叱責される前段階であり、償うための準備とも言える。
それを、頼る。という言葉にまとめるのは、尚太には難しかった。
「尚太さんは、社会人になってそれなりに経験して、後輩までできて、それなりに1人前になってきたと思ってるのかもしれないですけど」
玲美はカチャとカップを手に取って、一口コーヒーを口に含む。その優雅な動作は、映画のワンシーンのように決まっていた。
いやに演技がかった動きだが、それでも変に思えないのは、それだけ玲美の動きが自然だからだろう。
尚太も、思わず見惚れていたが、次の玲美の言葉に現実に戻される。
「私たちから見たら、まだまだ若造ですね」
「うっ」
ズバッと言われてしまうと、尚太に反論なんてできなかった。
尚太は、自分が1人前だなんて思っていない。しかし、すでに社会人として責任は取れるぐらいには成長していると思っていた。
そんな尚太に、玲美の言葉が深く突き刺さる。
まだまだ若造。尚太も、心の何処かではわかっているつもりだった。しかし、実際に言われると、思ったよりもショックが大きく、突き放されたような感覚だった。
落ち込む尚太は、深い溜息を溢すが、そんな尚太の気持ちを持ち上げるのもまた、玲美の言葉だった。
「だから、尚太さんが失敗しても、ちゃんと受け止めてくれますよ」
玲美は優しく言う。
何を根拠に言ってるんだ、と、尚太は言いそうになったが、玲美の顔を見ると、そんな言葉は吐けなかった。
玲美の表情は優しく、女神のように温かい。
別に根拠がなくても、信じて良いと思わせるような、そんな表情だった。
「尚太さんが話してくれた人たちは、本当に優しい人たちです。ですが、それは、尚太さんが真摯に働き続けたからです」
「俺が、真摯に?」
「時に、尚太さんは、もしかして、私のことを、優しい人だと思っていたりしていますか?」
「え? まあ、はい」
唐突に聞かれ、尚太は思わず頷いた。
玲美のことなんて、よく知りもしないが、それでも、ここまで話を聞いてくれて、相談にまで乗ってくれる。
しかも、どんな話も親身に聞いてくれて、優しく諭してくれる。
ただこの数分間だけでも、尚太は、玲美が優しい人だと思っていた。
しかし、玲美は、いたずらっ子のように、小悪魔らしい笑みを浮かべていた。
「私は、別に優しい人じゃないですよ。正直に言えば、あなたの話なんて、どうでもいいんです。早く話を終わらせたいとすら思ってます」
「そ、そこまで、ですか」
他人の心など知りようもないが、ここまではっきりと言われると、流石に傷付くものである。
しかも、さっきまで親身に話を聞いてくれていたと思っていた玲美に言われると、その思いはさらに強まった。
「でも」
さっきの絶望よりも、さらに深い絶望を感じていた尚太の耳に、玲美の声が響く。
「私は、尚太さんなら、アドバイスをする価値があると思ったから、アドバイスをしてるんです」
「アドバイスをする価値ですか?」
「あなたは、自分の失敗を恥じて、後悔して、反省して、二度としないようにしようと思っていますよね」
「それは、もちろん」
すでに後悔し尽くせない程に後悔し続けている尚太は、それに関してだけは自信をもって言えた。
そんな尚太に、玲美が満足そうにしていた。
「誰にでも失敗はあります。私だって、失敗しますから。だけど、たった一度、失敗しただけで、取り戻せないことなんてないんですよ。どんなことでも、時間をかければ取り戻せるのです。そして、尚太さんは、今回の失敗を、どんなに時間をかけても、償うと誓えますよね?」
「それ、は、も、もちろん」
微かに、誓う、という言葉に重みを感じたが、それで尻込みできる雰囲気ではなかった。今の玲美には、それをさせない程の威圧感があった。
「だから、私は助言してるんです。尚太さんなら、しっかりと私の話を受け止めて、今後に繋げてくれると思ったから。人って、自分の話をちゃんと聞いてくれる人には、誰でも親切になれるものなんですよ。尚太さんの周りの人も、同じ思いだと思いますよ」
尚太は、少しだけ恥ずかしくなった。
まさか、ここまで自分のことを評価してくれるとは思わなかったからだ。
そして、尚太は、やはり、と考える。
「やっぱり、玲美さんは優しい人ですね」
「ふふ。そんなことはありませんよ。ここまで話しましたが、ものすごく怒られると思いますよ。それはもう、仕事をやめたいと思うほどに、ね」
「や、やめてくださいよ」
冗談に聞こえない玲美の言葉に、尚太は青ざめる。それを見て、玲美が笑って、しばらくすると、尚太もつられて笑ってしまった。
それからすぐに、尚太は会社に帰っていったのだった。
◇◇◇◇◇◇
「随分と、親身になってたじゃねぇか」
尚太がいなくなったのを確認して、トシさんが玲美に尋ねる。そんなトシさんに、玲美は片付けをしながら答えた。
「お客様の話を聞くのは、リピーター作りのために、大切なんですよ」
「けっ。そうかよ。俺はてっきり、私はできる大人アピールをしたのかと思ったぜ」
「……トシさん?」
トシさんの知る玲美は、およそ完璧な大人ではない。トシさんしか知らないことも多いが、抜けている部分は多い。
そんな玲美は、外面が良いだけに、理想の大人と思われることが多い。
そして、今回も。
尚太の話を聞く玲美は、若手の相談に丁寧に対応する、理想の大人、を演じていた。
しかし、実際の玲美は、失敗を隠すのがうまい。というより、失敗をしても、大抵のことはリカバリーできてしまうので、誰にも気付かれないうちに、揉み消してしまうのだ。
そこに、反省という段階はない。
そして、なまじ優秀な玲美は、自分ではどうにもできない失敗をしたことがない。
なので、尚太に話していたことは、そのほとんどが、自分のことを棚に上げているものだった。
とは言え、尚太がその話に感銘を受けて、良い方向へ進むというのなら、トシさんとしても、強く指摘はできないのだが。
しかし、完璧だった、と油断している玲美に、少しだけお灸を据えたいと思っただけなのだ。
玲美の恨めしげな視線を無視して、トシさんは店を出ていく。
「夜には帰る」
それだけを言って。
店を出たトシさんは、まだ明るい空に目を細めて、少しだけ遠くを見た。
そこにはもう、尚太の姿はなかったが、店を出た尚太の足取りを見れば、問題はないだろうと確信できた。
結果は、またそのうちに教えに来るだろう、と、トシさんは、いつもの散歩道へと繰り出したのだった。
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