第2話 とある絶望する青年の話 二

「なるほど。仕事でミスをしてしまったんですね」

「そうなんです。取り返しのつかない、大きなミスです」


 契約内容や相手のことを話せない尚太は、大雑把な内容で、今、自分が陥っている状況について説明した。


「こんな大きな額。もし、契約がなかったことになったら、会社の損害も図り知れません。みんなにも、迷惑をかけてしまう。そう考えたら、どうしていいかわからなくなって」


 最後まで話し終えた尚太は、下を向いてまた泣き出しそうになっていた。


 話してみても、自分の犯した過ちが、とても大きいものであるという事実が重くのしかかってくる。

 気が楽になったなんて感覚はなく、むしろ、やはり話すのはまずかったのではないか、という自己嫌悪まで加わってきた。


 しかし、そんな絶望したように意気消沈する尚太の前に、玲美はソッとコーヒーを差し出す。


 その仄かな香りは尚太の鼻をくすぐり、ふと顔を上げさせる。気付けば最初に出されたコーヒーは冷めてしまっていて、さりげなく玲美が回収していた。


「私の自慢のコーヒーです。どうぞ」

「あ、はい」


 よくわからなかったが、促されるまま、尚太はコーヒーに口をつけた。


 口の中に広がるコーヒーの香りは、尚太の心を落ち着かせ、スウッと喉の奥を通る感覚が癖になりそうだった。


「美味しい」

「気に入っていただけて、よかったです」


 玲美は本当に嬉しそうに笑った。


「でも、このコーヒーが淹れられるようになるまで、5年くらいかかったんですよ」

「5年も?」

「ええ、それまで試飲をしてくれた知人がいたんですが、いつもまずいって怒られて」


 玲美が言うと、少し後ろで、クゥンという犬の声が聞こえてきた。尚太は驚いて後ろを見ると、店の角に犬が寝ている。


「あ、あの犬は私が飼っているトシさんです。気にしなくても大丈夫ですよ」


 トシさんは、少しだけ尚太の方に目を向けると、興味無さそうに、また寝る体勢に戻っていった。


 別に、尚太も特別犬が大好きという訳でもないので、そうですか。とだけ言って、玲美の話に戻る。


「それで、私も頑張っていたんですが、中々認めてもらえなくて、私、少しだけ怒っちゃったんですよ」

「怒っちゃった?」


 少し子供っぽい笑みを浮かべる玲美は、少しだけ尚太の耳に口を寄せて、小さく囁いた。


 耳にかかる吐息にゾワッとした尚太だが、下心がばれないように、必死で玲美の話に集中する。


「実は、コーヒーですって、嘘をついて、炭酸を抜いて温めたコーラを出したんです」

「えぇ!」


 思わぬ行動に、尚太は思わず叫んでしまう。


 見た目からの印象しかないが、尚太からしたら、何でもそつなくこなして、完璧な女性に見える玲美が、そんな子供じみた行動を取るということに驚きを隠せなかった。


 それがいつの話なのかわからないので、本当に子供の頃の話である可能性もあるのだが。


 予想していた通りの反応だったのか、玲美は満足そうに笑っている。


「あの時は、結構本気で怒られました」

「そりゃあ、そうでしょうね」


 コーヒーを飲ませてくれると思って飲んだらコーラだった。しかも炭酸の抜けたあの甘ったるい飲み物を、コーヒーだと思って飲んだのなら、それはそれは、かなりの衝撃だろう。


 実際、玲美がコーラを出した人物も、吹き出して、後ろに倒れてしまう程に驚いていたのだが、そこまでは玲美も話さない。


「とまあ、そんな私の失敗談でした」

「は、はぁ」


 いきなり始まった失敗話は、かなり面白い話ではあったが、何故今、そんな話をしたのかわからず、尚太は頭を悩ませる。


 しかし、その答えは早々に玲美が教えてくれた。


「ふふ。尚太さんだけ、失敗した話をするのもフェアじゃないでしょう? 私の恥ずかしい失敗も話しておかないと」

「いや、別に、そんなこと気にしてないんですけど」


 よくわからない理屈に、尚太は少しだけ笑ってしまう。

 尚太にとってそれは、久しぶりに笑った感覚でもあった。実際はそんなこともないのだが。


 しかし、それで気が楽になったのは、尚太も気付いていた。玲美がおどけて、尚太の気を紛らせてくれたのだということを。


 そこまで落ち着いたのを確認すると、玲美はふと、真剣な表情に変わる。


「それで、尚太さん。この後はどうするおつもりですか?」

「え?」


 唐突に真剣な話に戻り、尚太はその落差に驚きながらも、玲美の真剣な目に見つめられ、気が引き締まった。


「この後は、さっきの人に連絡して、間違ったことを謝って、書類の作り直しをしようと思います」


 今考えられる最善を、尚太は口にした。

 それは、さっきまでの会話で落ち着きを取り戻していたからこそ、思い至った結論だった。


「なるほど。それが良いと思います。ですが、会社への報告はどうされるんですか?」

「うっ。それは」


 尚太も、そのことは気にしていた。

 間違いを早々に訂正すること自体は、尚太も間違っているとは思っていない。

 だが、その順序については、悩んでいる所だった。


 すべてが丸く収まってから、その後に上司に報告すれば良いのではないか、尚太はそんな風に思っていた。


「もし、全部、自分で解決できる自信があるのなら、私は大丈夫だと思いますよ。でも、少しでも不安があるのなら、先に上司に報告されてはいかがでしょうか?」


 尚太はそれで悩む。


 尚太はこれまで、今回のような失敗をしたことがない。

 語弊がないように正確に言うと、内部の、つまりは同じ会社に勤めるような仲間の職員に対しては、新人時代から色々と迷惑をかけ、失敗していた。


 しかし、今回のような、外部の、自分の会社の人間ではない人物に迷惑をかけるような失敗は経験したことがなかった。


 それなりに経験を重ね、成果は得られないものの、そつなく最低限のことをできるようになっていた尚太にとって、今回のような失敗を挽回する方法は、経験したことがなかった。


 正直に答えるならば、尚太は自信がない。


 契約相手に謝ったとして、きちんと失敗を取り戻せるのか、と問われても、尚太には答えられなかった。


 であるならば、玲美が言うように、先に上司に報告するのが正解だろう。

 それは、尚太も理解していた。


 しかし、すぐにそう答えられなかったのは、言ってしまえば、ただの恐怖心からだった。


 正直に言えば、クビになるのではないか。

 ただその1点のみ。


 問題を起こしておいて、失敗しておいて、未だに自分の身を心配している。それを自覚して自己嫌悪に陥る尚太だったが、この感情は理屈ではなかった。


 何事もなく、すべてを丸く収めてから、上司に報告する。それができれば、その失敗もお咎めはないだろう。むしろ、そんな事実、上司に報告する必要すらないかもしれない。


 そんな淡い期待が、尚太の良心に待ったをかけていた。


 それが間違った考えなのだということは、頭の隅ではわかっている。だが、やはりそれも、理屈ではないのだ。


「や、やっぱり、ちゃんと自分で解決してから話そうと思います。自分も社会人なので、自分のミスは自分で取り返さないといけませんから」


 失敗をしたことのない人間は、失敗を繰り返してきた人間よりも、失敗を恐れるもの。


 それを、玲美は理解していた。

 だからこそ、玲美は尚太の考えに寄り添った。


「なるほど。立派な心がけだと思います」


 それは、玲美の本心からの言葉だった。

 例えその言葉の裏に、邪な心があったとしても、その信念自体は、正しい心だと思ったから。


 しかし、尚太は、自分で自分の言葉は逃げているだけだと感じていた。

 誉められるような言葉じゃない。そう思っていたのに、玲美に誉められていて、尚太は居たたまれなくなった。


 玲美には不思議な魅力がある。

 ここまでしっかりと自分の失敗と向き合えたのは、玲美のお陰に他ならない。

 話を聞いてもらうだけでも、勇気をもらい、こうして自分の思う正解へと、少しずつ進んでいけた。


 しかし、最後の一歩がどうしても踏み越えられない。

 それは、玲美の力ではなく、自分自身の意思でなければ越えられない一歩だからなのだが、まだ若い尚太では、そこまでは理解できなかった。


 冷静に分析し、客観的に考えることができる玲美は、このまま行けば、尚太はまた失敗すると確信していた。

 玲美にとっては、尚太など、出会ったばかりの人間で、情けをかけるような理由はない。


 それでも、もう少しだけ手助けをしてあげても良いかと思ったのは、その性格ゆえか、それとも、別の思惑があるのか。


 それは、玲美自身にもわからなかった。


「そういえば、さっきの私の話で、試飲してくれた知人に本気で怒られたという話をしましたよね?」

「え? は、はい」

「実は、その話には、もう少し続きがあるんです」

「続き、ですか?」


 急に変わった話の流れに、尚太は困惑していたが、玲美はそれに気付かないふりをする。


「さて。尚太さん。少しだけ、お話をしましょうか?」

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