第2話 とある絶望する青年の話 一

「やばい。まじでやばい」


 その青年、尚太は、焦っていた。


 尚太は、水川ハウスという不動産で働いている青年だ。業績は芳しくなく、働き始めてすでに3年目となっているが、すでに後輩に成績を越されているような、落ちこぼれだった。


 それでも、周りの同僚や先輩には恵まれており、業績が悪いからと苛めや過度な指導をされたりすることはなく、熱心に仕事を教えてくれていた。


 とは言え、流石に後輩にも業績が負けるとあっては、どうにかしなければならない。

 成功している仲間たちのノウハウを教えてもらい、色々と試してはいるのだが、今のところ成果は出ていなかった。


 そんなある日、尚太に転機が訪れる。


 かなり久しぶりに、尚太は契約を結ぶことができそうだったのだ。それも、かなりの大口の契約だ。

 それ1つで、もしかしたら、今月の業績が一気に上位に食い込むかもしれないという程の。


 成果を求めていた尚太にとって、その話はこの上なく魅力的だった。


 しかし、本当なら、それ程の大口な契約、上司に相談もせずに決めるのはかなり危険なことだ。

 ましてや、尚太は、これ程の大口な契約は経験がない。そんな尚太の一存で契約を結ぶのは、どう考えても危険な行為だった。


 しかし、その場で決めなければ、他に心変わりしてしまうかもしれない、という不安に煽られた尚太は、冷静な時ならば絶対にやらないようなことをしてしまう。


 即断即決、その場で契約まで漕ぎ付けたい尚太は、事後承諾という形で上司に話をすればいいと考え、その場で頷いてしまった。


「わかりました。すぐに手続きをします」


 もちろん、その場ですべて決められる訳もなく、細かい手続きは後日ということになった。

 しかし、その際に、契約の要となる各種承諾書に、印鑑を受け取ってしまっている。内容の確認もせずに。


 それは、早く契約に漕ぎ着けたいという、尚太の勇み足であったがしかし、その行動が仇となってしまう。


 帰り際、尚太は、久しぶりの功績に喜んでいた。


 これまで業績が振るわなかった尚太だが、それでも周りは温かく見守ってくれていた。

 そんな環境は、嬉しくもあり、逆に強いプレッシャーでもあった。いや、むしろ、でき損ないと貶されていた方が、まだ、諦めもついたのかもしれない。


 向いていないのかと、仕事を止めようとしても、周りの期待がプレッシャーになり、中々言い出せなかった。

 結果、迷惑をかけていると自覚しながらも、堪え忍びつつ働いてきたのだ。


 しかし、その我慢がやっと、報われた気がした。尚太は、それが嬉しくてたまらなかったのだ。


 帰ったら、上司に報告しよう。


 そう思って、帰り道の道すがら、昼食でも食べながら、書類の確認をしておこうと、とある喫茶店に入って、軽いものを注文した。


 ちょうど店内には他に客もおらず、静かに確認ができた。


「ん?」


 しかし、そこで、尚太は不穏なものを見つけてしまう。


 それは、各書類の金額が少しずつ間違っていることだ。この時点で、かなりの問題なのだが、尚太が不安になったのは、それが合計金額を算出する書類ではない所だった。


 その書類はパソコンで自動計算されているもので、もちろん、途中が間違っていれば、その間違った数字のまま、計算されてしまう。

 つまり、間違いはさらに間違いを生み出し、さらに大きな間違いになってしまうということだ。


 一気に顔を青ざめる尚太は、慌てて書類のすべてを確認した。


 すると、かなり初期段階の数字に間違いがあったらしく、ほとんどの書類が間違っていた。


 普段、普通に仕事をしている尚太なら、こんな間違いはしない。業績は振るわなくとも、事務仕事はしっかりとこなしてきた尚太だ。

 周りの人も、尚太を見捨てなかったのは、そういう気付かれづらい所でも手を抜かずに頑張っていることを知っているからだ。


 そして、尚太も、仕事は丁寧にやっているつもりだった。


 この会社に来てから3年が経ち、契約を持ってくることはできなくとも、事務作業については慣れてきていると自負している。

 上司からも、仕事は丁寧だと誉められていて、その点だけは、尚太も自信を持っていた。

 はずなのに、ここまで初歩的な間違いをしてしまった自分が信じられなかった。


 そして、問題はさらに重なっていく。


 まず、間違った金額はかなりの額になっているということだ。元々、高額な計算だ。少し違うだけでも、ズレ幅が大きくなってしまう。


 ただ、唯一の救いだったのは、説明に使用していた資料は、正確な数字が載っていたことだろう。そのお陰で、少なくとも、尚太の説明は、正しい金額で行われていた。口頭で、の話だが。


 しかし、さらに大きな問題は、今、尚太が手にしているように、かなりの枚数の書類に、印鑑を押してもらって、尚太が受け取ってしまっていることだ。


 もちろん、相互に確認というのは当たり前の話なのだが、尚太はそういった確認の時間を取るというような配慮をする余裕がなく、契約相手も、尚太が言う通りの内容が書いてあるのだろうと錯覚してしまっていたのだ。


 と言っても、肝心要の契約書、という訳でもないので、大問題ではあるが、間違いを訂正し、しっかりと謝罪すれば、まだ取り返せる問題である。


 のだが、まだまだ経験の少ない尚太にとってみれば、この間違いは、取り返しのつかない大問題のように感じてしまっていた。


 その時には、自分の説明は正しかったことや、相手もしっかりと正しい数字を確認した上で、承諾したという事実も忘れ去っていて、ただただ焦った気持ちだけが心を埋め尽くしている。


「やばい。やばいやばい」


 こういう時に、どうすればいいのか。

 それを相談できる人もいない。いや、こんな大問題を相談しても大丈夫なのだろうか。

 もしかしたら、クビになるかも。

 それではとどまらず、会社に大損害を与えてしまうかもしれない。


 今まで良くしてくれた人たちの人生まで台無しにしてしまうかもしれない。


 尚太は、焦った頭で、いくつもの最悪のシナリオを想像してしまう。


 この書類を破り捨てて、無かったことにすれば良いんじゃないだろうか。

 本気でそう考えすらした。

 それをした所で、さらに悪化するのは誰が考えても明らかだったのだが。


 そう考えてしまう程、尚太は追い詰められていた。

 どうしていいかわからずに、今にも泣き出しそうな尚太。


 そんな尚太の元に、その人は現れた。


「お待たせしました。おすすめのコーヒーセットです」

「え?」


 自分が注文していたことも忘れていた尚太は、いきなり現れた人物に驚く。


 その人は優雅な手付きで、サンドイッチとコーヒーのセットを持ってきてくれた。

 焦っていた尚太も、その女性の容姿に目を奪われる。


 可愛らしくもあり、大人びた綺麗さも併せ持つ、絶世の美女。しかも、立ち振舞いは、尚太が今まで会ってきた大人たちの中でも、飛び抜けて優秀そうに見えて、何でもできそうな雰囲気を醸し出していた。


 営業スマイルなのだろうが、その笑顔を見れば、男だろうが、女だろうが、すぐさま魅了されてしまうだろう。

 尚太は、さっきまでの焦りも忘れて、女性を見つめていた。


「どうかしましたか?」

「え? あ、いや、なんでも、ないです」


 女性は首を傾げて、自分を見つめてくる尚太を見つめ返す。


 ずっと見ていたことに気付いた尚太は、すぐに目をそらした。が、その顔は赤く染まっていた。


 女性は特に気を悪くした様子もなく、尚太の目の前に並べられた書類の束に目を移した。


「お困りですか?」

「あ、いや、これは、その」


 流石に、他人に仕事の情報を漏らしてはいけないということは、尚太もわかっていた。

 本当は今すぐにでも、誰かに頼って助けてほしいと思っているのだが、そのくらいの分別はついている。


 そんな尚太の態度を察した女性は、優しく微笑み、尚太に語りかける。


「もし、お困りでしたら、お話くらいは聞きますよ。もちろん、具体的な話は隠していただいて構いません。それでも、少しは気持ちが落ち着くと思いますよ?」


 その女性の言葉には、不思議な力があった。

 その女性が言うのならば、そうなのだろう。そう感じさせるような力が。


 それでも、やはり仕事の話を部外者に話すことを躊躇する尚太は、元来、真面目な性格なのだ。

 だからこそ、ここまで悩んでいるのだが。


 それを急かすことなく、女性は、尚太の回答を待った。


 それはまるで、母親のような雰囲気。

 すべてを包み込んでくれそうな女性に、尚太は少しだけ心を開いた。


「じゃあ、少しだけ、相談に乗ってもらってもいいですか?」

「はい。喜んで」


 尚太の言葉に、その女性、玲美は、カウンターの方の席へ、尚太を案内したのだった。

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