第1話 とある恋する少年の悩み 四
海人の足は重かった。
それは今日が、昨日玲美と約束したことを実行しなければならない日だからだ。
海人がここまで学校に行きたくないと思うのは、人生で初めてだろう。
全く勉強をせずに、中間テストに挑む時よりも、遥かに行きたくない気持ちは強い。
美咲は海人よりも早起きで、先に学校に行ってしまうことが多い。
小学生の頃は、一緒に登校したりもしていたのだが、それをからかわれた海人が、美咲と一緒に行くことを拒否したのだ。
それ以降、海人と美咲は別々に登校している。
しかし、今日だけは、一緒に登校したかった。いや、登校というよりも、学校に着く前に美咲に会いたかった。
昨日の女性との約束を守ることは宣言したものの、それをみんなの前で言う勇気は、海人にはなかったから。
そのために、海人はいつもよりも大分早く目を覚ました。まだ日も上がっていない時間に1人で起き、心を落ち着かせる。
やっと日が昇ってきた頃にリビングに行くと、母親からは何事かと驚かれた。
それに海人は、別に、とはぐらかす。
そして、朝ご飯を食べると、いつもよりも30分以上早く準備を整えた。
熱でもあるのかと母親からは心配されたが、ひたすらに誤魔化し続けた。
そして、玄関で海人は立ち止まる。
足が重く、玄関の戸を開けるのが億劫だった。
美咲はすぐ隣の家だ。
美咲が学校に向かうのは、そろそろだろう。早く出なければ、美咲は先に学校に向かってしまうかもしれない。
そう思っても、中々勇気が出せず、ずっと止まったまま。そして、やっと家を出たのは、玄関に立ってから5分が経過した頃だった。
ガラガラと戸を開けると、晴れた空が眩しく広がっている。
晴れやかな空だが、海人の気は進まない。しかし、外に出てしまった以上、もはや後戻りはできない。
覚悟を決めた海人が美咲の家の方に目を向けると、そこに予想外の人物がいた。
「海人?」
「み、美咲?」
そこにいたのは、海人と同じく気まずそうな顔をした美咲だった。
どうやら、美咲も玄関を出てすぐの所で立ち止まっていたようだ。
実は、海人が玄関で躊躇していたせいで、いつもの美咲なら、とっくに学校に向かっているはずの時間だったのだが、何故か今日は、まだ出発していなかったらしい。
それがどうしてなのはわからなかったが、海人は目当ての人物の登場に息を飲む。
「お、おはよう」
意を決して挨拶をする海人だったが、美咲はそれに応えない。気まずくて声が出ないといった様子だ。
2人の間には、普段は感じられないくらい、どんよりとした空気が流れている。幼い頃からずっと一緒にいた2人だが、こんな雰囲気は初めてだった。
どちらも何も言えずに、時間だけが過ぎていく。
しかし、永遠に続くように思えた沈黙は、案外早く破られた。
「あの、さ。ちょっと、いいか?」
近付くことはなく、海人が口を開く。
「……何?」
やや間をおいて、美咲が応えた。
かなり無愛想な返事だったが、それは怒っているというより、戸惑っているという方が近い。
と言っても、そんな細かい感情の差など、海人にはわからなかったが。
だが、海人はもう勢いに任せて言うしかなかった。
「昨日のこと、なんだけど」
「……うん」
「悪かった」
「え?」
謝られるなんて思っていなかったのか、美咲は驚いたように顔を上げる。信じられないものを見るような目をする美咲だが、それは、いつもの海人の態度ゆえだった。
今回のような本気の喧嘩は少ないが、海人と美咲の喧嘩自体は少なくない。喧嘩をして仲直り、というのも、経験したことがない訳ではない。
しかし、そのどの場合でも、ここまで素直に海人が謝ってくることはなかった。
大抵の場合、誰かに言わされているか、もしくは、美咲の剣幕に怯えて謝ることがほとんどだ。
どちらにしても、今回のように、本当に反省して、申し訳なさそうに謝ってきたことは、少なくとも美咲の記憶の中にはなかった。
そんな海人が、ここまで素直に真剣に謝ってくることが、美咲は信じられなかった。
「どうしたのよ? 急に」
「いや、別に。……いや、何て言うか、ちょっと、ある人の話を聞いたら、昨日の俺って、最低だったなと思って」
一瞬、誤魔化そうとした海人だったが、思い直したのか、正直に言い直す。
「少し焦ってたんだ。美咲は、真剣に相談していたのに、それに気付けなかった。ごめん」
「あ、う、うん。こっちこそ、ごめん。私も言いすぎたかも」
昨日までは、謝ってくるまで絶対に許してやるもんか、と強く思っていた美咲だったが、実際に謝られると、どうしていいのかわからなくなってしまう。
しかも、その場限りの謝罪ではなく、しっかりとした心からの謝罪に、美咲は毒気を抜かれていた。
そして、そうして頭が冷えると、美咲は1つだけ、確認しておきたいことを思い付く。
「ね、ねぇ、海人」
「何だ? やっぱり、許せないか?」
「そうじゃなくて、1つだけ聞きたいんだけど」
「……何だ?」
微かに間があった返事。
それに気付きながら、美咲は気になっていることを尋ねた。
「焦っていたって言ってたけど、どうして、焦っていたの?」
◇◇◇◇◇◇
「ふんふーん。今日もお客さんはゼロですね」
「ちっ。笑いながら言うことじゃねぇだろ」
暢気なことを言いながら掃除をする女性に、トシさんは毒づく。
しかし、全く響いた様子のない女性は、そのまま掃除を続けていた。
そんな女性に何を言っても無駄だと、トシさんは寝床に戻っていく。
ただ、トシさんは悪態をつきつつも、この静かな時間が好きだった。
飲める訳ではないが、コーヒーの香りは嫌いではなく、程よく流れるBGMはトシさん好み。誰もいない空間でする昼寝は、至福の時だった。
流石に365日、毎日客がゼロということはない。この前の海人のように、ふと訪れる客もいるにはいる。
そういう時は、昼寝ができない。
別に寝ていても問題はないのだが、単純にトシさんは、他人がいると寝付きが悪いのだった。
それを踏まえると、客がいない状況も、トシさんにとっては、別に悪いことではなかった。
それでも悪態をつくのは、これが商売だと知っているからだ。が、女性がそれを気にしないと言うのなら、それ以上言うつもりはなかった。
さっさと至福の時間に移るとしよう。
そう思っていたトシさんに、嗅いだことのある匂いが近付いてきた。しかも、嗅いだことのない匂いまで引き連れて。
「ちっ。せっかく寝ようとしたのに」
「ふふ。気にしなくてもいいんですよ?」
「知らねぇやつの呼吸する音が聞こえるだけで、俺は寝れねぇんだよ」
トシさんは、不貞腐れたように壁の方を向いてしまった。
女性は苦笑いを浮かべて、コップを2つ用意する。それとほぼ同時に、カランカランと鈴の音が店の中に響いた。
「いらっしゃいませ」
声の先にいたのは、海人と、そして、海人と同じ歳くらいの女の子。
「お姉さん。入っても大丈夫?」
「ええ、もちろん。こちらへどうぞ」
海人は促されるがまま女性の前のテーブルへ向かった。それについてくる女の子は、女性の綺麗さにうっとりとしているようだ。
「初めまして。あなたが、美咲さんですか?」
「え? あ、はい。海人から聞きました。お姉さんに話を聞いてもらったって」
海人と共に来たのは、美咲だった。
あれから、海人がどうなったのか、女性も結果は聞いていなかったが、今の2人を見れば、おおよその予想はつくだろう。
女性は2人にホットミルクを出した。
「ふふ。うまくいったみたいでなによりです」
2人は顔を赤くして、うつむく。
その仕草がほとんど同時で、そんな姿が微笑ましく、女性は僅かに口許を緩めていた。
「ったく。惚気てんじゃねぇよ」
「え?」
少し離れた所から聞こえてきた声に、美咲が振り向く。そこにいたのは、1匹の犬だけ。
その犬は不機嫌そうな表情で、目を閉じていた。
「本当に、喋れるんですね」
興味深そうに近寄る美咲に、海人は恐る恐るついていく。いざという時には、自分が助けなければ、という使命感があるのだろう。
元より、トシさんは、美咲を襲うつもりなどないのだが、以前、例えばの話で、トシさんが美咲を襲う話をしたのが駄目だったのだろう。
しかし、美咲は存外恐いもの知らずのようで、トシさんの頭を撫でている。
煩わしそうにしながらも、払い除けることはなく、トシさんはされるがままになっていた。
ちなみにこれは、美咲が女の子だからである。これが、海人なら、軽く噛みついていたことだろう。
女性に手を上げない。それは、トシさんの信念に近いものだった。
「可愛いね」
「そ、そうか? 俺は恐いんだが」
「海人は恐がりだからねぇ。ぷぷぷ」
「おい。そんなんじゃねぇぞ」
軽く言い合いながら、美咲は満足したのか、トシさんから離れて、女性の元に戻っていく。
そして、表情が真剣なものに変わった。
「あの、この度はありがとうございました」
お礼を口にする美咲に、女性は少しだけ首を傾げた。
「私、お礼を言われるようなこと、しましたっけ?」
それは、女性の正直な感想だった。
海人にアドバイスをしたのは確かだが、美咲にお礼を言われるようなことではない。
仮にそのアドバイスでどんな結果になっても、それは海人自身が手にした結果であり、女性は何も手は出していないからだ。
と思いつつも、実は女性は、美咲の内心に気付いていた。
「えっと、私、海人に告白してもらって、付き合うことになったんです」
「それは、おめでとうございます」
実際に口にされて、女性の推測は確信に変わる。パチパチと手を打ち鳴らして祝福し、心からのお祝いを述べた。
「想いが通じあったのなら、よかったです。でもそれは、海人さんが勇気を出したからですよ?」
「そうかもしれないです。でも、その背中を押してくれたのは、お姉さんだと思うから。だから、どうしても、お礼を言いたかったんです」
律儀な美咲に好感を持った女性は、優しく微笑み、少しだけ圧の込もった笑みを海人に向ける。
「すごく良い子ですね。海人さん。もう美咲さんを泣かせたりしないでくださいね?」
「うっ。わかってるよ。俺だって、美咲が泣く姿は見たくないし」
最初にあった時よりも大分素直になった海人は、顔をひきつらせながらも、はっきりと約束した。
そんな海人を、女性は羨ましそうに眺め、すぐにいつものにこやかな表情に戻った。
「さて。それでは、お2人のお祝いをしましょうか」
テーブルの下から出したのは、いくつかのお菓子だった。それを小皿に並べて、見た目を少し豪華に飾る。
即席だが、美味しそうな盛り付けに、2人は感嘆の声を漏らした。
「ありがとうございます。お姉さん。えっと……。お名前は何て言うんですか?」
「あ! それ、俺も知らない」
「どうして海人まで」
また言い争いになりそうな2人に苦笑いしながら、女性は美咲の質問に答えた。
「そういえば、また自己紹介してませんでしたね。私は玲美、といいます。今後もこの喫茶店をご贔屓に」
そこは、不思議な喫茶店。
綺麗な女店主と喋る犬がいる不思議な喫茶店。
そこには、悩みや不安を抱えた人たちが集まってくる。
もし、あなたも同じなら、一度立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
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