第1話 とある恋する少年の悩み 三
「海人さん。その女の子の名前を教えてもらってもいいですか?」
「……美咲」
渋々と名前を言う海人は、目をそらして女性を見ようとしない。しかし、話は聞いているようで、それだけを確認すると女性は話を続けた。
「美咲さんは、どうして、海人さんに、そんな相談をしたんでしょうか?」
「そんなの、知らねぇし」
ぶっきらぼうに答える海人。
その答えを予想していたのか、女性は微かに口許に笑みを浮かべた。
「そうですか。じゃあ、もしもですけど、美咲さんが何かに困っていたら、海人さんはどうしますか?」
「困ってたら? どんな風に?」
「何でもいいですよ。例えば、じゃあ、恐い犬に襲われていたりしたら、どうします?」
そう言って、女性はトシさんに目を向ける。
それにつられて、海人もトシさんの方を見た。
トシさんは、苛立ったように歯を剥き出しにして、海人の方を見ている。
今にも飛びかかりそうなトシさんは、大人であっても力負けしそうな雰囲気があった。
まだ中学生の海人では、トシさんに勝つことはできないだろう。
もし、自分が襲われたら、そう考えると身がすくむようだった。
「あ? なんだよ?」
「い、いえ、何でも」
トシさんに睨まれ、海人はすぐに視線を女性に戻し、女性の言うような状況を想像してみた。
トシさんが、美咲に襲いかかる。
正直、今見ても、海人はトシさんが恐くて近付けなかった。そんな状況で、美咲が襲われていたら、助けに行くことができるのだろうか。
真剣に考えてみる。
そして出た答えは、どんなに恐くても、必ず助けに行くだろう。というものだった。
それは、美咲が好きな女の子だから、という理由だけではない。
物心つく前からずっと一緒にいた存在。
例え家族ではなくても、その繋がりは誰よりも強いと、海人は思っている。
それだけは、仮に美咲が誰かと付き合うことになっても絶対に変わらない、と。
そんな相手が困っていたなら。
危険が迫っていたのなら。
例え、恐くても、助けられる算段がつかなくても、勝手に体が動くだろう。海人には、そんな確信があった。
それくらい、海人にとって、美咲は大切な存在だった。
「ふふ。そういうの、すごく格好いいですよ」
「え?」
口には出していなかった。
しかし、まるで、海人の心を読んでいるかのようなタイミングで、女性が口を挟んだ。
「顔を見れば、何を考えていたのかはわかります。そして、多分、美咲さんも、海人さんがそういう人だって知っているはずですよ」
「美咲が?」
「はい。だからこそ、海人さんに助けを求めた。話を聞いてほしかったんです」
「それ、は」
女性に言われて、海人はサァッと顔が青ざめた。
自分を頼ってくれた。少し考えれば、そんなことはすぐにわかるはずだった。
それに、海人と美咲の関係を考えれば、真っ先に相談に来るのは自然だった。
いや、女友達よりも先に海人に相談に来たということは、海人が思っている以上に信頼されているということである。
それだけの信頼を寄せてくれていた美咲を泣かせたという事実に、海人は頭を抱えて後悔した。
意地になっていた時ならば、怒りに任せて考えることを放棄できただろう。感じることを放棄できただろう。
しかし、今、冷静な頭になり、自分の行動を思い返した時、その行動がどうしようもなく幼稚に感じてしまったのだ。そして同時に、美咲に対する申し訳なさが、どんどん強くなっていく。
本当は、女性に言われるまでもなくわかっていた。ただ自分が不貞腐れているだけなのだと。
それを認めたくないがための、意地っ張りだったのだと。
しかし、それが、美咲を悲しませる結果になってしまった。
今更ながらに後悔した海人は、うつむき、テーブルに頭を打ち付ける。
「あー。最悪だぁ。俺、なんで、あんなこと言っちゃったんだよ」
何を言っても遅すぎる。
さっき女性が言っていたように、明日になれば、美咲は告白してきた男に返事をするだろう。
その答えはわからないが、少なくとも、美咲の信頼を踏みにじった自分には、それを止める資格はない、と、海人は絶望を感じていた。
やっと理解したか、と、トシさんは後ろで、フンッと鼻を鳴らした。
そんなトシさんを諌めるように目を向けた後、女性は海人に語りかける。
「海人さん。例えば、ですが、海人さんが、その女の子を泣かせたことを後悔していたとして、もし、謝りたいと思っているのなら、アドバイスをしてあげてもいいですよ?」
それはさっきも言った言葉。
すげなく断られた提案。
しかし、同じ言葉であるはずなのに、海人はその言葉に期待を滲ませて顔を上げる。
「え?」
「もちろん。まだどうでもいいと思っているのなら、無理にとは言いませんが」
そんなことはなかった。
今となっては、その甘い提案に泣きつきたい気持ちの方が強い。
しかし、それでもすぐに反応できなかったのは、未だに意地を張っているから。
という訳ではない。
それは、助けを求めてもいいのだろうか、という、葛藤だ。
美咲の信頼を踏みにじったという事実が、海人の感情にブレーキをかけている。
美咲にひどいことをしたのに、他人に助けを求めてしまってもいいのだろうか、と。
さっきまでに比べれば、随分と殊勝な感情なのだが、まだ幼い海人には、その自問に対する答えは出せなかった。
それを助けるのは、女性の諭すような声だった。
「ふふ。別に、助けを求めるのは悪いことではありませんよ。私だって子供の頃は、友達と喧嘩して、仲直りの方法がわからなくて、大人に助けてもらったことがあります」
「お姉さんも?」
「ええ。大切なのは、謝りたいという気持ちがあるかどうかです」
謝りたいという気持ち。
もし、必要なのがそれだけならば。
海人は一度だけ、下を向き、自分の心に問いかける。そして、すぐに顔を上げて、真剣な顔で女性を見た。
「俺、美咲に、ちゃんと謝りたいです」
「ふふ。ええ、わかりました」
海人の正直な言葉に、女性は優しく微笑んだ。
◇◇◇◇◇◇
「それではまず、海人さんの覚悟を聞きます」
「うっ。は、はい」
美咲に謝るということを決めた海人を、女性は深刻な表情をして見つめる。
何を言われるのかと、海人は緊張した面持ちで女性の言葉を待った。
そして、女性は一呼吸おいてから、その覚悟を確かめる。
「あなたは、美咲さんに告白する覚悟はありますか?」
「うえっ! はぁ? な、何でそんな話に?」
驚き奇妙な声を漏らす海人だったが、女性の顔は真剣そのもの。しかし、質問の意図がわからず、海人は困惑するしかない。
しかし、そんな海人にお構い無く、女性は答えを急かす。
「これは必要なことです。あなたは、美咲さんに告白する覚悟はありますか?」
謝ることと告白すること。
どう考えても繋がらない2つの事柄。
それがどうして必要なことなのか、海人には皆目検討もつかなかった。
だが、アドバイスをくれるという女性を信じるしかない海人は、顔を真っ赤にしながら小さな声で答えた。
「もし、できるなら、告白、したい」
「すみません。よく聞こえません」
「っ! こ、告白したいです! する覚悟はあります!」
大声で宣言した海人に、女性はやっと満足そうに笑った。
「よろしい。では、明日、美咲さんが告白の返事をする前に、美咲さんと話してください」
「な、何を?」
「海人さんが今日、どうしてあんなことを言ってしまったのかを、です。そして、その事をちゃんと謝ってください」
「ど、どうして、あんなことを言ったか、を?」
何故、美咲にあんなことを言ってしまったのか。
その答えは、美咲が他の誰かに取られそうになって、焦って、美咲にあたってしまったから。
それは最初に女性が指摘したこと、そのままだった。
言うのは簡単だ。今さら、海人も、美咲への恋心を誤魔化すつもりはない。
しかし、それを本人に言えるのかというと、全くの別問題だった。
そんなもの、告白と大して変わらない。
そこまで考えて、海人は思い至った。
「もしかして……」
「そうですね。正直に話せば、それはそのまま告白のようなものになります。だからこそ、私は最初にそれを聞いたんです」
的中。海人の思った通りだった。
「告白する覚悟があると、海人さんは言いましたよね? なら、逃げたりしないですよね?」
女性は笑顔のまま海人に顔を寄せる。
それは有無を言わさぬ迫力があり、海人は逆らえなかった。
その笑顔は、さっきのトシさんの恐い顔よりもずっと、逃げられない圧力があった。
後ろの方で、トシさんが諦めたように自分の寝床まで戻り、横になったのだが、それに気付く者はいない。
いや、女性はそれに気付いていたが、特に気にも止めていなかったというのが正しい。
結局、その笑顔に圧しきられた海人は、明日、朝一番に美咲の元へ行き、正直にすべてを話して謝る、という約束をさせられたのだった。
後に、美女の笑顔ほど恐いものはない、と、海人は悟るのだが、それはもう少し先の話だった。
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