第1話 とある恋する少年の悩み 二

「なるほど」


 話を終えるまで、女性は簡単な相づちを打ちながら、静かに海人の話を聞いていた。

 急かすことなく、質問をすることもなく、ただひたすらに、海人が話したいように話をさせていた。


 途中、よくわからない所もあっただろう。

 思うがままに、言いたいままに、話したいことを話していた海人には、話の順序立てや気配りなんかは考えられていなかった。


 しかし、それでも女性は、最後まで、遮ることなく海人の話を聞いていた。


 話を聞き終えた後、女性は物思いに耽るように薄く目を閉じて、そのまま何も言わなくなった。


 何も言わなくなったのは海人も同じ。

 海人の場合、何も言えなくなった、という方が正しいかもしれない。

 今更になって、こんな話を他人にしたというのが恥ずかしくなったのだろう。


 ホットミルクをがぶ飲みして、顔を隠すように下を向いている。


 気持ちが楽になったのか、それはわからない。しかし、少なくとも、気持ちが落ち着くことはなかった。むしろ、恥ずかしさで心臓の鼓動が強く鳴り響いている。


 せめて何か言ってくれ。

 そう思っていた海人に、女性の凛とした声が聞こえてきた。


「少し、面白い話ですね」

「え?」


 女性は、海人を見ながら、意地悪そうな笑みを浮かべている。


「好きな女の子が誰かに取られそうになって、焦って、その女の子に当たってしまった。ふふ、男の子なら、仕方がないかもしれないですけどね」


 何一つオブラートに包むことなく指摘され、海人は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 しかし、徐々に理解していくと、海人は女性の言葉に腹が立ってくる。それが正しいことだと、頭の中では理解していても。


「そ、そんなんじゃねぇよ。ただ、そんなどうでもいいことを、こっちに聞いてくんなって言いたかったんだよ」


 どうでも良いことである訳がない。

 これだけ焦り、悩み、喧嘩したことに落ち込んでいた海人が、この事をどうでも良いことだ、などと思っているはずがない。


 それは、海人のことを知らなくても、この数分の言動を聞けば、一目瞭然だった。


「ふーん」


 しかし、そのことを指摘することもなく、女性は面白そうに笑みを深める。


 しかし。



「おい、てめぇ。ふざけたこと言うのも大概にしろよ」

「え?」


 突然聞こえてきた男の声。

 店の中には海人と女性しかいなかったはずなのに。


 しかし、その声は確かに海人に聞こえた。

 だというのに、周りを見回しても、自分たち以外の姿は見えず、海人は困惑する。


「下だ。下を見ろ」

「し、下?」


 声の出所は、確かに海人の少し下だった。

 恐る恐る下を見ると、そこにいるのは、1匹の犬。少し大きめな犬だが、顔は穏やかで、そこまで恐くない。


 しかし、そこには犬しかいなかった。声に聞こえたような男の姿は、何処にもなかった。


「ど、何処に?」

「お前の目の前だよ。見えてんだろ。俺だ。俺」

「え? えぇ!」


 声が聞こえるのと同じように、犬の口が動く。

 どう見ても、犬なのだが、声はその犬から聞こえてくる。


 海人は目の前で起きたあり得ない出来事に驚き、椅子から転げ落ちるように倒れた。


「おっと」


 しかし、床に頭を打ち付けるよりも前に、女性が海人の体を支える。まるで、海人が転げ落ちるのを予知しているかのような、スムーズな動きだった。


 それにお礼を言うことも忘れて、海人は人間の言葉を話す犬に目を向ける。さっきのは何かの間違いだと思い込むように。

 しかし、それは決して幻聴や妄想ではなかった。


「何だ? 文句あんのか? あぁ?」

「い、いや、いや、あ、あの」


 信じられない出来事に、海人は言葉もままならない。気絶しそうな程に驚いているのに、なんとか耐えているのは、女性が海人のことを支えてくれていたからだ。


 そこでやっと、海人は女性の方を振り向いた。


「あ、あの、この、犬……」

「あぁ、トシさんです。人の言葉を話す珍しい犬ですけど、害はありませんよ」

「トシ、さんって」


 あまりにも普通の反応に、海人は一瞬、自分がおかしいのだろうかと錯覚しそうになった。

 が、流石にそれはないと思い直す。


「いや、犬が喋るなんて、おかしいでしょ!」

「うーん。でも、実際、話してますし。むしろ、意志疎通ができて、楽ですよ」


 あくまで女性は、気にしていない様子。

 そこまで来ると、海人も焦っていた気持ちが少しだけ落ち着いてきた。


 少なくとも、女性が海人の肩に触れている間は、人の言葉を話す犬に対する恐怖も僅かながらに薄れている。

 それだけ、女性の声には人を落ち着かせる不思議な力があった。


「つーかよ。そんなことより、てめぇの話だよ」

「う、お、俺ですか?」


 だが、そこで和ませてはくれない。


 グルル、と喉を鳴らす犬、もといトシさんに、海人は怯えながら反応する。

 明らかに怒った様子のトシさんに、海人は逆らえず、怯えながら尋ねた。


「な、何のことですか?」

「てめぇ。女を泣かせて、どうでも良いとはどういうことだって聞いてんだよ」

「いや、あの」


 トシさんの剣幕に、海人のさっきまでの意固地な態度は儚く散っていた。


 最初の印象とはまるで違い、犬というよりも狼のような迫力があるトシさんに、海人は終始怯えたままで、まともに話すこともできない。


 そんな海人にトシさんが舌打ちをすると、女性が、こら、と声を出した。


「怖がらせるなんて、大人げないですよ、トシさん」

「あぁ? こいつが勝手に怯えてるだけだろ。俺はただ、こいつに質問してる……」

「トシさん?」


 女性の笑みは、見た目上、さっきまでと変わらない穏やかなものだ。

 しかし、その笑みからは、黒いオーラが見え隠れしている。それは、空気を読むのが下手な海人ですら見えるくらいに。


 それは当然、女性と親しげなトシさんであれば、なおのこと、敏感に伝わっていることだろう。


 その証拠に、トシさんは、さっきまでの勢いをなくし、クゥンと尻尾を垂れ下げていた。


「いや、しかし……」

「トシさん?」

「うっ。悪かったよ。そんなつもりはなかったんだ」


 しょんぼりと頭を下げるトシさんは、見た目のような少し大柄な犬にしか見えず、海人は少しだけホッと息をついた。


「さて。海人さん。落ち着きましたか?」

「え? あ、はい。あ、ありがとうございます」


 そこで初めて、海人は自分を支えてくれている女性の存在を思いだし、お礼を口にした。

 それに笑顔で答えて、女性はさりげなく、海人に椅子に座るように促した。


 それに従って、海人が椅子に座ると、すでにホットミルクは冷めてしまっていたようで、さっきまであった湯気もなくなっていた。


 それでも、海人は一息つくために、冷めたホットミルク。いや、すでにただの牛乳だが、それを飲む。


 それを見計らったのか、女性は、海人がコップをテーブルに置くタイミングで声をかけた。


「でも、トシさんの質問は、私も気になりますね」

「え?」


 実は、トシさんの質問など、海人の耳には届いていなかった。

 もちろん、音としては聞こえていたが、それを言語として認識できる程に、海人は冷静ではなかった。


 それを察してか、女性は柔らかい口調で、トシさんの質問を繰り返す。


「海人さんは、その女の子を泣かせたことを、どう思ってるんですか?」

「……それは」


 茶化すような口調ではなく、真剣な声で聞く女性に、海人はすぐに答えることができなかった。


 しかし、答えが返ってくることは期待していないのか、女性の話は終わらない。


「この際、海人さんが正しいのか、間違ってるのか、そんなことはどうでもいいんです。それこそ、ね。でも、海人さんは、結果的にその女の子を泣かせて、どう思ったんですか?」


 海人は何も言えずに黙ったまま。


 俺は何も悪いことはしていない。あっちが勝手に泣いただけだ。という回答は、女性によって先に潰されてしまっている。

 そして、それ以外の答えを、海人は持ち合わせていない。


 美咲を泣かせたことに、海人は落ち込んでいた。申し訳ないことをしたと思っていた。しかし、それを素直に言うのは、海人のプライドが許さなかったのだ。


 それゆえに、海人は何も言えない。

 言うことができない。


「例えば、ですが、海人さんが、その女の子を泣かせたことを後悔していたとして、もし、謝りたいと思っているのなら、アドバイスをしてあげてもいいですよ?」

「そんなんじゃない」


 思春期ゆえなのだろうか。

 本当なら、海人は美咲と仲直りがしたい。しかし、その方法がわからず、アドバイスをしてくれるというのなら、すぐにでも教えてほしいくらいだった。


 しかし、真っ直ぐにそう言われてしまうと、認めたくない気持ちの方が強くなってしまう。


 海人の後ろで、トシさんが怒った様子で、グルルと喉を鳴らしている。それにも気付かずに、海人は意固地になっていた。


「そうですか。なら、何も言うことはありませんね。明日にでも、その女の子は、告白してきた男の子と付き合うことになるでしょうね」

「それ、は。別に、どうでも、いいけど」


 海人は心底絶望した顔をしながら、まだ意地を張っている。


 こうなることは、女性もわかっていた。

 言えば言う程、海人が頑なになるなど、女性は最初から予想していた。


 それでも、こうした海人を追い込んだのは、少しだけお仕置きをしたかったから。


 実は、女性も海人が女の子を泣かせて、それを素直に謝らないことに怒っていた。それは、トシさん程ではないし、思春期の男の子なら仕方がないと、冷静に考えることができる程度ではあったが。


 とは言え、今後の将来のために、少しは落ち込むことも必要であると、女性は考えたのだ。


 そして、少しでも反省したのなら、諭してあげることも女性としては吝かではない。


 それに、女性としては、その話に出てくる女の子の気持ちもわかってしまったため、どちらかというと、その女の子のため、という方が大きかった。


 どうでもいいと言いつつ、見るからに落ち込んだ様子の海人に、女性は優しく語りかける。


「さて。海人さん。少しだけ、お話をしましょうか?」

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