第2話 なぜこの言葉なのか?
3 なぜその言葉を選んだのでしょうか? 何かきっかけになったエピソードや理由があったら教えてください。
私が『水滸伝』を最後まで読んだのは中学生のころでした。
図書館にあったハードカバー二段組みの分厚い三冊本です(駒田信二 訳;文庫化されています)。これだけ長い物語を読んだのは初めてのことでした。
何か月、もしかすると一年以上の時間をかけて読んだ物語の最後のことばだから、それだけ感慨深かったのだろうと思います。
でも、それだけでなく「その『水滸伝』という物語がどうしてこんなにおもしろいのか」が、この詩でわかった気がしました。
ここで出て来る「忠良」は「忠実で善良な人たち」です。
しかし、『水滸伝』は、「心のなかは忠実で善良でも、この世で生きて行くなかで、悪人とされ、反逆者とされて行く、お
それはもう、「暴力描写あり」、「残酷描写あり」、「性描写あり」がぜんぶまともに該当する物語です。とくに、「残酷描写」は、あんなのとか、こんなのとか、ここに書くのがはばかられるようなのがいっぱいあります。正義の味方のはずのヒーローたちが、
趣味で手当たり次第に人を殺す「ヒーロー」もいます。しかも、この「人殺しが趣味」という
だから、そういう物語のファンが求めているのも、「少々、どころか、きわめつきにガラが悪くても、心のなかは善良なヒーローたち」なのでしょう。
この「忠良」ということばは、そういうニュアンスで使われています。
あるとき私が「『水滸伝』はおもしろい」という話をしていると、その席にいた一人の
その方のおっしゃるには「少し読んでみたけれど、同じような話ばかりでつまらない」ということでした。
そのとき、私は「あ! そういうことだな」と思いあたりました。
『水滸伝』には、たとえば、「主人公が成長する」とかいう話はありません。
「小説にはテーマがなければならない」とか「主人公が成長しなければならない」とかいう、学校で教わるような「近代文学の約束ごと」にはまったくこだわりがない。
もちろん、「近代文学の約束ごと」よりも『水滸伝』のほうが先に存在したのですから。
日本文学史的なことを言えば、江戸時代に『水滸伝』的な物語が大流行した。その状況をふまえて、明治になって
その歳上の男のひとは、詳しいことは書きませんが、近代的でまじめで立派なひとでした。
まさに「出処に真跡を求める」生きかたをずっと実践して来られた方でした。
そういう方には『水滸伝』はそういうふうに感じられるのだな。
そして、私は、そういう感性をしていないのだ。
そう思ったのです。
『水滸伝』では、同じようなキャラクターが登場して、同じような筋書きを繰り返す。
同じパターンの話が何度も何度も出て来る。
基本的に、「心のなかは忠実で善良なひとが、この世のなかのめぐり合わせとか、制度とか、そういうのとぶつかって悪人にされ、逃亡して主人公の仲間に加わる」という無法者たちの物語が繰り返されます。
でも、それがおもしろいのです。
……というか、私は、そういうのがおもしろいと思うひとなんだ、と。
そのことを自覚して、私は、小説を書くときにはそれでいいんだ、と、覚悟が決められました。
同じような話で、同じようなエピソードの繰り返しで、主人公は成長してもいいけど、べつに成長しなくてもいい。
そういう物語を書いて行こう、と。
そして、いま、私はここにいます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます