二 朱紙征人(一)

 英雄の後ろ姿を、そのすぐ後ろで見ていた。

 壇上に立つのはアラムネシアを代表する魔法使にして、魔獣討伐企業AMOを率いる成功した企業家。その表情は自信に満ちあふれており、洗練された客たちによる品定めするような目線を前にしても怯むことなく、胸を張ってよどみなく演説して見せている。今このとき、この場所で、全ての中心にいるのは、父――朱紙あけがみ辰彦たつひこだった。

 植民地様式の大邸宅、英雄が築き上げた成功の城。その極めて象徴的な領域の庭に招待される者たちは、当然ながら既に英雄に匹敵する成功を積み上げてきたか、あるいは受け継いできたかのどちらかだ。そうした選ばれし者たちの間に挟まれ、朱紙あけがみ征人ゆきひとはひどく居心地の悪い休日の夜を過ごしていた。

 俺はここにいていい人間じゃない。征人は周囲にいる人間たちと自分を見比べてそう思った。俺は父さんと違う。

「あなたが英雄の息子?」

「最年少で魔法使資格を取った天才にお目にかかれて光栄だよ」

「あなたのように優秀になる秘訣を、ぜひうちの息子にも教えてやってくださらない?」

 父の演説が終わると、英雄の息子という立場だけで、成功者たちは征人にも話しかけてくる。たいていは気を使ってか二言三言話したあとはその子どもたちと引き合わされるが、そうして目の当たりにする同世代の人間たちは、やはり両親と同様かそれ以上に輝いた瞳でこちらを見てくるのだ。そこに悪意は一欠片もない。みなまっすぐな目で征人を見て、征人の打ち立てた経歴への純粋な敬意を表明してくる。

 征人を全く疑うことなく立派な人物だと見做してくるその純朴さが、征人には耐え難い。

 英雄の息子。最年少で魔法使資格取得。最年少で魔法局入局。確かに経歴だけ見ればそれは華々しいこと限りないだろうが、征人は自分がそうした評価に値するだけの人間だとはこれっぽっちも思っていなかった。

 ただ自分は、安全な場所で習熟した先達から危険を管理された修業を課され、命が脅かされることのないテストを通り抜けただけだ。つまり、まだ誰のなんの役にも立っていない。自分は父のような、死地にいて大勢を救ったような人間ではないのだ。だから、そこまで人が自分のことを評価してくる理由がわからなかった。

 征人はすぐにパーティの中心を離れ、暇そうにしていた知人――西条さいじょう四十六よそむを家を取り囲む回廊まで連れ出した。

 西条は父が魔法局にいた時期からその補佐をし続けていた信頼の篤い部下であり、征人にとっては幼少の自分の面倒を何度も見てもらった友人でもある。父が警察を辞め、AMOの前身となる警備会社を立ち上げた時も、AMOが魔獣討伐に大きく舵を切ってからも、西条は常にその側で父を支え続けてきた。本人こそ魔法使でないものの、魔法に関する深い知識と洞察力は並の魔法使を凌駕するものがあり、実践的な魔力の扱いにばかりこだわる父の教育方針を補完するように、征人は資格取得の際のペーパーテストの勉強で何度もお世話になってきた。

 初めて見る人ばかりの中で、父と西条だけが落ち着ける相手だった。

「人前に出るというのは慣れないもんだろ?」回廊の壁に掛けられた電灯に照らされ、西条が笑いながら言った。

「ええ。父さんはよくこんなことができると思いますよ」

「私も表に出る仕事は好かない。だから全て君の父上に任せてしまっているわけだな」

 征人は笑った。「人に見えない仕事は全て西条さんがやってるんだから、おあいこだ」

「まさに持ちつ持たれつだ。対外的に組織を代表する人間と組織内部を統制する人間は、どちらも欠けてはならない表裏一体の存在だからな」西条はわざとらしく、神妙に頷いて見せる。

「ところで征人、君は今いくつだ?」

 征人は答えた。「十八です」

「ということは、入局してもう三年目か」

「そうですね」

「仕事は難しくないか?」

 即答する。「それほどでは」

 西条は目を瞬かせた。

「そうか……やはり君には感嘆させられるな。君が魔法使の記録を一気に塗り替えたときは、驚愕すると同時に若い君が本当にあの厳しい世界でやっていけるか不安もあったが、未だ私や辰彦さんに泣きついてこないどころか、仕事は難しくないと言ってのける。どうやら君は、私の想像を超えて遥かに頑強な人間のようだね」

 征人は苦笑する。この人にそのような光栄な言葉を投げられるようなことを、自分はしていないと思ったのだ。

「父さんとあなたが所属していた頃より、魔法局はずっと緩くなっているんですよ。それに俺はまだ若造だから、あなたが想像しているような危険な仕事は任せられていないんだ」

「だが、その歳でとなるとどうしても不要な敵意を買うこともあるだろう」

 征人は職場で投げかけられる言葉の数々を思い出したが、それでもまっすぐに西条の目を見て言った。「ありますが、もう慣れました。それよりも苦痛なのは、仕事が退屈なことです」

「退屈?」

「普段はただ署で待機して、近くで魔法を使った事件が起こったらざっと現場を調べて本格的な捜査は誰かに引き継ぐ……俺がやってるのは基本的にはそれだけです。魔獣とやり合うこともないし、テロリストと魔術の撃ち合いをすることだってない」

 征人がそう言うと、西条は真面目な顔をして言った。

「つまり君は、辰彦さんのようになりたいのか?」

 征人は頷く。「はい」

「英雄になりたいと?」

「何も、何千人を殺した魔獣を相手に大立ち回りを演じたいわけじゃないんだ。だけど、父さんに教えられたことがまるで活かせない今の仕事は、なんだか思い描いていたものからズレているような気がする」

 西条は少し考えるような素振りをして言った。

「君の気持ちはわかる……だが、そう焦らなくてもいいんじゃないか。将来への幻滅を語るには、まだ君のキャリアは始まったばかりだろう。君は早熟だが、それだけでなく極めて優秀な魔法使になれる素質がある。地道にその日の仕事に励んでいれば、近いうちに必ず働きぶりが評価されて、望む仕事へ転属できるはずだ」

 征人は頷いた。言っていることはただ宥めるだけの言葉だったが、西条に言われると本当にそうなるような気がしてくるから不思議だった。征人は言った。

「できるだけはやく、そうなることを望みます」

 征人は思う。俺はここにいるべき人間じゃない――少なくとも、今はまだ。

 だがすぐにそうなってやる。



 翌朝、征人が署に出勤すると、同僚たちはみなそれぞれの仕事に出払っていているのか、魔法使部屋は空っぽになっていた。自分の机に向かうと、その上に新聞が開かれた状態で置かれていた。

「誰が置いたんだ、こんなもの」

 そう言いながら新聞を手にとって見てみると、誰がやったのかはともかく、その意図はすぐにわかった。《英雄と天才――朱紙親子に受け継がれる成功哲学》そう題された、低俗な日刊紙の特集記事。それを征人に見せつけようとしたのだ。

 眉間にシワを寄せながら、征人は軽く本文に目を通す。かつてインタビュー記事なんかで父が語っていたことや、タブロイドに載っていた出所不明の噂話やなんかが継ぎ接ぎされて記事は構成されている。初出の情報は一つもない。中傷が目的でないだけ他より遥かにまともだったが、読む価値はどこにもなかった。

 よくあることだ。

 数多くのスターを有するAMOの中でも一番のスターは間違いなく父だが、その息子である自分にも、メディアは同様の活躍を求めている。あいにく功績を挙げられるような場所には属していない自分は期待に応えられそうにないが、そうなると向こうは勝手に期待だけ煽るような記事を書き立ててくるのだ。

 はじめはそういう動きを無視することに徹していたが、ヒールとして描かれがちの警察組織の中で一人だけ“善玉”あるいは“期待の星”として目立ちがちな征人は、どれだけ本人が民間への移籍を否定したとしても組織の中で反感を集める。征人を取り巻く人間関係は、朱紙“親子”がメディアに注目される度に微妙なものになっていく。嫌がらせとまではいかないまでも、征人への注目をからかうようなことはしょっちゅうだった。

 小さな署の魔法使専用の部屋で、征人はこの状況がいつまで続くことになるのか勘定しようとした。それはつまり、征人が英雄の息子として相応の実績を積んだとみなされるまで、どれだけの時間がかかるのかだ。

 警察局で誰からも理解されるような実績を積むには、刑事課や魔獣管理課などで事件を解決するのが何よりも大事だ。こうした重要部署に配属されればそれだけ局内でも評価を受けるチャンスは増えるし、場合によっては警察の外からもいっぱしの人間として認められることもある。

 有望だとみなされた魔法使は配属の最初から重要部署で経験を積まされることがあるが、征人はその機会を逃した。次のチャンスは原則に従えば四年目――つまり少なくとも、今年いっぱいは無理だということになる。そしてその来年度に実際に転属が叶うだろうかと考えてみると、目立つ功績の未だない征人には、それも難しいことのように思える。

 なぜ自分は本部に配属にならなかったのだろうか? 試験の成績は良かったはずだが……。若いうちから変に目立って、無用な反感を買ったりしないためだろうか?

 そう征人は考えて、すぐに思い上がりを自省する。俺はまだ本格的に魔法事件にかかわるには諸々経験不足だと判断されているだけだ。

 自分というものを得るより前に付いてきた分不相応な評判――それは自らが何を成し遂げてきて、そして何を為すべきなのか、それを見極める目を曇らせる。征人は自分を再確認する。俺はまだ何も成し遂げていない。人は自分を天才と言うが、英雄と呼ぶことはない。それは俺が、誰も救っていないからだ。

 名声を嫌ったことはない。父を尊敬しているし、父のようになりたいと思っている。だが名声だけが欲しくて魔法使になったのなら、最初から警察になどならず、AMOに所属していた。

 西条の言葉を思い出す。

 焦るべきではない。もう何年か我慢すれば、きっと道は開けるはずだ。

 気を張り直すために新聞を筒状に丸めてゴミ箱に放り投げ、コーヒーでも飲もうかと征人が立ち上がったそのとき、スピーカーががなり立てるのが聞こえた。

「緊急連絡――緊急連絡!」

 棒立ちのまま、征人はスピーカーの方を見つめる。男の声から感じる緊迫感は並大抵のものではない。相当なことが起きたこと、そしてそれが署の魔法課に連絡しなければならないことであることは明らかだった。

「西太宮区差方さしかた本町一丁目、アントバンク差方支店にて武装強盗が発生。犯人は一人。今は銀行内で人質を取って立てこもっているが、ライフルに加えて魔法杖らしきものを所持している。実際に魔法の行使を目撃したとの情報もある。銃じゃ火力が足りない、誰か手の空いている魔法使をすぐにこちらに寄越してくれ!」

 署内の魔法使は皆出払っている。通報を受ける者は他にいなかった。

 征人は受話器を手に取った。



 銀行強盗? 魔法杖? 楽勝だ。

 バイクで事件の現場に向かいながら、征人はそうたかをくくった態度でいた。なぜなら杖を使っているという事実それだけで、相手の脅威判定を二段階ほど下げることができるからだ。

 魔力を扱うことを専門とするものを総称して魔法使と呼ぶが、それは更にいくつかのカテゴリに分類できる。征人は中でも最も高等とされる、生得的に自らの魔力を持ち、それを練って魔術として放出することができる素質を備えた、魔術使まじゅつつかいと呼ばれる存在だ。

 対して相手は魔杖使まじょうつかい――つまり自分の魔力を持つことのなかった、外部から魔力を借り受け、魔杖から射出することでしか魔法を扱うことのできない魔法使ということになる。修練さえ積めば魔力の扱いにおいて魔術使に引けを取ることはないとはいえ、最初から魔力を直感的に扱える魔術使との差を実際に埋めることは、言うは易く行うは難い。

 ましてや、銀行強盗?

 征人は思わず笑ってしまいそうにすらなった。わざわざ魔法杖を使えるようになってまで犯罪に手を出すなんて、相当要領の悪いやつに決まっている。杖使いとはいえ魔法使になったのなら、その辺の社団に所属してしばらく魔獣討伐に勤しめば、その報酬金だけで個人が銀行から持ち出せるような金額なんてすぐに超えてくるだろう。リスクがリターンに見合っていないのだ。そのせいかどうかは知らないが、犯人は拳銃程度しか持っていない警官を相手に立てこもらなければならないほどに追い込まれているらしい。

 相手の程度は知れるというものだ。

 とはいえ、下手の鉄砲数撃ちゃ当たるというのも事実だ。流石にいくら相手の判断力に疑いがあるからといっても、魔法を実際にこの身に喰らえば命取りであることに変わりはない。できるだけ相手の情報を事前に把握しておくために、征人は無線で現場から集められるだけ情報を集めようとしていた。

 だが、現場からもたらされる情報は曖昧なものだった。

「相手の杖の形状は?」

征人は基本的なことから聞いたはずだった。魔法使の中で魔杖使は最も人数が多く、したがって魔法犯罪での登場回数も多い。現行の基本的なモデルに関して、おおまかなカテゴリくらいなら一般の警察官たちも講習で知っているはずだったが、現場の警官たちは既にその時点でかなり怪しいようだった。

 警官は困惑したように言った。

「それが……わからないんだ。俺も一応簡単な知識ならあるが、今まで見たどの杖とも似てないように見える」

「適当でいい、こっちで類推する」

「ああ……なんというか、白い棒だ。白い棍棒みたいなものを振り回して、魔力を射出していたらしい」

「……棍棒?」

 少なくとも今の発言で相手の使用する杖が魔力を射出するという形で利用するタイプであることは確定したが、征人は相手の言い方に引っかかりを覚えた。

「杖ならもっと機械的な見た目をしているはずだろう」

 だが、警官は断言する。

「俺もそう思ったんだ。だけどあれが杖で間違いない。客はその白い棍棒から魔法が行使されたと言ってるんだ。現場には薄いが赤雲が漂っているから、証言に疑いはない」

「わかった。とりあえず他の様子も聞かせてくれ。あと二分で着く」

 征人は怪訝に思いながらも、遠目だったから見えなかったのだろうと判断し、その他の現場の状況を聞きながら現場に急いだ。



 現場に到着する。

 透視魔術のひとつ、《間折まおり》を使って銀行の店内を覗き込む。中にはとりわけ強い魔力が凝縮された塊が四つ――これは魔法杖と、杖を動かすために必要な魔力カートリッジで間違いないだろう――に、微力ながら魔力を帯びた人影があった。

 どうやら犯人が魔法使であることに、確かに間違いはなさそうだ。

 その周囲には四人ほど人質が固まって座らされている。征人は場合によっては面で魔術を行使して一気に片付けようかと考えていたが、そのような手段を使えないことが明らかだ。事前情報のとおりだが、征人はこれから自分がどうやって動くべきかを少々頭の中で計算した。

 そして心の準備を整えると、征人は右手を口元に持っていき、魔術の名称を表す単語を口にした。

「《血霧ちぎり》」

 征人がそう唱えると、どこからともなく大量の赤黒い霧が溢れ出して、店内へと流れていく。人体に無害な程度の魔力を拡散して放出し、自在に操作できる煙幕を作り出す魔術。これを特に犯人の周囲に展開することで、こちらの視界を確保したまま相手の行動を制限できるのだ。

 店内から男の声が響き渡る。

「うおっ! なんだこれ!」

 なんだこれ、は無いだろう。血霧は基本中の基本魔術だ。この程度で驚いているようじゃ、相手の程度はさらに低く見積もってもいいはずだ。最良の使い手なら血霧を吸わせただけで相手を昏倒させるまで調整できるという。征人がそれを使えていたなら、勝負はこの時点で終わっていたかもしれない。

 征人は深呼吸して――やけに心臓が重く感じる――正面から店内へ入り込む。

 すぐに向こうから魔力が飛来してくることはない。まだ自分に気がついていないのだ、と征人が侮っていると、敵はあたりが見えないなら見えないなりに、無闇矢鱈に撃ってきた。

 赤い線条が空間中に現れては店の壁やガラスを撃ち破っては消えていくのを、店内中央の太い柱の後ろに隠れてやり過ごす。魔杖から放たれた魔力は一発でも当たれば死か、最低でも被呪障害は免れない――それは征人の、魔法使としての人生の終わりを意味する。つまり死と同義だ。無用に敵の射線に出るようなことはしない。

 しばらくそうしていると、犯人の魔力掃射が一瞬止んだ――魔力カートリッジの交換だ。

 征人はその一瞬を逃さずに柱の陰から身を乗り出すと、犯人の足元からだけ血霧を晴らしてしっかりと標的を見据え、「《深汀しんてい》」を放った。

 人間の胴体と同じだけの幅を持った平べったく赤い線条が、目にも留まらぬ速さで犯人の足元をすくい上げる。犯人は間抜けな声を出しながら床に落ち、顔を打ち付けた。

 征人は走り出した。

 犯人が体勢を立て直すまでに受付カウンターを飛び越え、人質を避けて魔術を当てられる距離まで接近する。転がっている犯人のすぐ目の前に突っ込んでいく。確実に当てるために、血霧を全て晴らす。

 その一瞬、犯人の目がこちらを向いたのが見えた。犯人は杖をこちらに向けようとした。

 左手を犯人の方へ向け、犯人に向かって真っすぐ飛んでいく黒い弾丸をイメージする。そしてその弾丸が当たったあと、縦に広がっだギロチンのようになっていく様をできるだけ克明に意識する。正確に弾道を計算するようなことは必要ない。必要なのはただイメージだ。口元に右手を添える。

 今まさに立ち上がり、杖を握って魔力を放とうとしている犯人に、征人はこう叫んだ。

「《釿撃きんげき》」

 征人の左手から赤く細い線が空間中に引かれ、犯人の身体に到達すると同時に縦に広がった。犯人の体に縦一直線に引かれた線は瞬時に身中に潜り込んでいき、その線の軌道をなぞるように身体が裂けた。

それと同時に、犯人が魔杖から放った魔力が征人の頬のそばを掠める。それは直接肌に当たることもなく、したがって被呪障害のような後遺症を生じることもなかった。一方で《釿撃》は人質の誰にも当たることはなく、正確に犯人だけを殺傷した。

 一刀両断された死体が、その場にくずおれる。断面から血が吹き出す。

 人質からわずかに悲鳴が上がるが、すぐにそれも収まっていった。


 人質たちを解放しおえた征人は、犯人の死に顔を見下ろした。取り立てて何か言うような顔ではなかった。指名手配なんかで見覚えもないし、死んで力を失ったからかもしれないが、引き締まってもいない。どこかの大物という印象は全く受けなかった。

 事前に思っていた通り、大したことのないやつであるということは確かだ。こいつは杖使いの中でも相手は相当に弱く、征人の一方的な戦いだったと言っても良い。

 楽勝だった。敵は弱く、自分はそれに対処できるだけの十分な実力を持っていた。この調子なら、異動も時間の問題だろう。征人はそう確信し、将来への不安を感じていた自分が馬鹿らしくなってきた。 人を殺すということに対する葛藤のようなものは、今このとき征人のどこにも存在してはいなかった。征人は自分が殺した相手に対して、侮蔑的な感情さえ感じていた。

 だが、どうしてだろう――征人は勝利の喜びと栄誉に陶酔したかったはずが、自分がまるでそのような状態にないことに気がつく。手が震えているが、これは戦闘の緊張が抜けていくときのそれというよりもまるで指先が凍るようで、冷気に包まれたように指先の感覚がない。

 手足が脱力していて、なんだか立っていられなくなってきた。征人は犯人をよく調べようとしていたはずが、そこまで到達できずに座り込んでしまった。

 征人は気づいた。

「まさか……」

 征人は思わずそう口に出してしまった。

 これは、恐怖だ――たった今、自分が相手の魔法を頭部にまともに喰らいかけたことに対して、征人の本能は死の恐怖をしっかりと理解してしまったのだ。

 まさか、俺が、怖くて歩けなくなっているのか?

 瞳が、涙で濡れている。呼吸もだんだん難しくなってきて、緊張が解けてくると同時に高揚によって抑え込んでいた様々なものが一気に意識の中になだれ込んでくる。紛れもない恐怖に由来する嗚咽と、自分がそのような弱さを発していることに対する自嘲が、交互にやってきてわけがわからなくなってきた。

 死体から未だにどばどばと流れ出る血溜まりに身を浸しながら、ぐらぐらとする頭を抱え、征人はしばらく蹲っていた。


 そうしてしばらくいると、遠くからサイレンが聞こえてくる。

 応援の魔法使たちだろうか。彼らがやってきたときに座り込んでいたら、いくら犯人を殺害したとしても同僚たちに笑われてしまうかもしれない。征人は壁に手をついて立ち上がったが、しばらくは壁にもたれかかっていないと体勢を維持するのが難しかった。

 次第に脚に力が入ってくると心に余裕も出てきて、征人は犯人の手元に転がった杖を拾い上げてみた。所轄の警官が言っていた通り白い棍棒のような見た目をしていたが、実際にそれをまじまじと見てみて、征人は首を傾げた。

「なんだ、これは……?」

 それは確かに魔杖であることには違いないが、これまで征人のその目で見たことのあるどれとも似てはいなかった。ふつう魔獣の骨や筋肉・皮革を複合的に利用するだけでなく、精密な金属の機構や場合によってはコンピュータまで搭載する現代の魔杖のあり方から考えると、それは非常に簡素な作りをしている。

 征人はその杖をよりよく観察してみる。魔杖にはカートリッジを挿入する部分と魔力の放出に指向性を持たせる部品の他には何も人為的な加工を施されたような痕跡は見えず、魔獣の大腿骨か何かを少し削って、とりあえず最低限魔杖として機能させられるだけの部品を取り付けたようだった。征人はいつか参考書で見た、何世代も前の原始的な杖を想起した。原始的な杖は霊木か何かを削り出してそのまま使っていたというが、ここにある杖の形状はそれに似ている。しかし、カートリッジを利用できるように加工されているところなど、ところどころ最新鋭のパーツが組み込まれている点で原始的な杖とは全く異なっていた。

 現代のまともな工房で作られた魔杖なら、このような不安定で非効率な形態は取りようがない。これでは魔力を扱う魔杖使の側が被呪障害を負いかねないだろう。そう征人は考えて死体の服をめくってみる。

 案の定、そこには小規模な被呪障害らしきただれが生まれていた。

 征人は理解した。

 間違いない、こいつ、素人だ。

 戦っている間、強盗は正統な魔杖使としての修練を積んできたようにはまるで見えない魔力の取り扱いをしていたが、その直感は間違っていなかった。杖も、その使い手も、必要最低限のラインにまるで達していない。こいつはただ杖をどう操作すればカートリッジから魔力を放出できるかを覚えただけで、そのリスクも対処法も知らぬまま、ただ犯罪に使えるというだけでそれを行使している。そのせいで自らの扱う魔力で被呪障害を追うなんていう間抜けすぎる事態に陥ったのだ。

 征人は急に自分の持っている杖もどきが暴発でもしないか怖くなり、急いでカートリッジを抜き取った。

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