第5話 社畜精神
「……何故だ」
店を飛び出してしまった俺は、人気のない路地裏でズルズルと座り込みながら呟いた。
武器屋の店主には申し訳ないことをしたと思う。
けど……何故逃げ出してしまったんだ?
そもそも楽な労働環境に恐怖してしまったのは何故だ?
わからない。自分のことなのにわからない。俺は一体どうしてしまったのか。
「あんなにも良い条件だったのに……」
あのブラックな職場で働いていた時に何度も夢見ていた、休日があり労働時間も短いホワイトな職場。ずっとそういう職場で働きたいと心から願っていた。
けれど実際にその条件が目の前に提示された時、俺は逃げ出してしまった。
一体何が原因で……。
「……少し検証してみるか」
仮にあの武器屋で働き始めたとする。
馴染みのない商品に対する知識や取り扱いを覚えるのにも一苦労だろう。なにせ世界まで違うのだから通貨などの常識レベルのことから覚えなければならない。
だけど慣れてしまえばそれまでのこと。基本的に8時間勤務で休みもある。身体を休めるだけでなく、プライベートな時間だって取れてしまう。自由だ。とても自由だ。
「うぷっ……」
そこまで想像した途端、何故か吐き気のようなものがこみ上げてきた。
たまらず手で口を抑えてその場にうずくまってしまうが、堪えてそのまま検証を続ける。
次に想像……いや、思い出すのは前世で俺が働いていたあの過酷な職場のこと。
自宅はただの仮眠室とシャワー室と更衣室だけの存在と化していて、退社したその6時間後には出社時間なんてことも珍しくはなかった。時間外労働時間が溜まり過ぎると労基様に怒られるからと打刻だけして退社したと見せかけてまた残業、なんてことを誰もが自然と行う異常な職場。
デスクワークは勿論のこと、顧客や提携先との打ち合わせに現場の確認などの外回りも多くしなければならない、体力と精神力の両方をゴリゴリと削られていく業務。
上司からの、顧客からの急な無茶振り。許されている返事は「承知致しました」と「申し訳ありません」と「ではそのように変更させて頂きます」のみの、自分の意思が存在出来ない形態。
と、そこまで思い出したところで先程までの吐き気が嘘のように消え去っていた事に気が付いた。
「…………なんでだ」
もう何度目になるかもわからない疑問。
天国のような職場で働くことを想像すると不調になり、地獄のような職場で働いていたことを思い出すと快復した。
……これではまるで長年ブラックな職場で働き続けてきたせいで、それ以外のものを受け付けなくなっているみたいじゃないか。
「いやいやそんなまさか」
浮かんだ馬鹿げた考えを頭を振って否定する。
もしやと思って立てた仮説に当てはまる条件ではあるが、そんな恐ろしい拒否反応があってたまるか。きっと検証方法が悪かったんだな、うん。
もっと多方面から検証を重ねていこう。
例えばそうだな……自己暗示が抜けきっていないという仮説だ。
竹中先輩に教えて貰った、会社で生き残る為のコツの一つ。
辛く厳しい仕事を大好きだと自分に言い聞かせて何年も働いてきた影響がまだ抜けきっていないのではないだろうか?
だとするなら対策は簡単だ。仕事が嫌いだという暗示を重ねればいい。たったそれだけで俺の誰にも縛られない新たな人生がスタートできる。
「……やるか」
目を閉じ、徐々に身体全身に力を入れていく。
力を入れ始めて10秒程経ったところで全身の力を一気に抜く。
そして脱力状態になったところで、掛けたい暗示をひたすら口に出す。
「私は仕事が大好き私は仕事が大好き私は仕事が大好き私は仕事が大好き――」
……………………ん?
今、俺全く逆のことを言っていなかったか……?
いや……さすがに気のせいか。転生した途端ゴブリンに追われたこととか、武器屋での一件だとか色々あったせいで少し神経質になっているのかもしれないな。
だけどまぁそんなトラブルもここで終了だ。
自己暗示もバッチリ掛けたことだし、楽な仕事を見つけて自由な人生を――。
「うぷっ」
唐突に吐き気が襲ってきた。
まさかと思った俺はすぐさま以前の職場のことを思い浮かべると、嘘のように吐き気が引いていった。
「…………なんでだ」
もしかして暗示が弱かったのだろうか?
まぁなにせ会社に入ってから何年もの間毎日かけ続けてきた暗示だからな。一度や二度の上書きではビクともしないのかもしれない。でもそれなら何度でも新しい暗示をかけ続ければいいだけの話だ。
さてと、もう一度目を閉じて力を入れて、脱力してっと……。
「私は仕事が大好き私は仕事が大好き私は仕事が大好――――って違えよ!?」
何を口走ってるんだ俺は。
仕事が好き? 冗談じゃない。
仕方なく仕事をしていただけなのに好きになれるわけがないじゃないか。
そう、仕方なくだ。
定職に就いていることで得られる社会的信用と金銭の為に仕方なく仕事をしていただけだ。
なにせ働きたい、働かなければならないのに働けないって人が大勢いるような時代の癖に、金もコネもない無職には何かと厳しい社会だったので、定職があるというのはそれだけで恵まれた環境にあると言っても良かったと思う。
だからなんとなく人生を過ごしていただけの、なんの取り柄もなかった俺なんかを採用してくださった勤め先にはとても感謝しているし、仕事があるだけでもありがたいことだし、過酷な業務でもやり遂げた時の充足感やお客様からの感謝の言葉だけで満たされた気持ちになれるし、そんな仕事を授けてくれる会社が私はとても好きで――――あれ?
「………………」
身体中から変な汗が湧き出てくるのを感じる。
「なんだ……これ……」
正反対の方向へと飛躍していった自分の思考に戸惑う。
――嘘から出た実――
そんなことわざが頭の中をよぎる。
もし……もしもこのことわざ通りに、仕事を好きだと嘘を付き続けてきた結果、それがいつの間にか俺の中で真実になってしまっていたのだとしたら……?
…………。
……。
「う、うわあああああ!?」
嫌だ。
そんなの嫌過ぎる。
こんな精神が社畜のまま第二の人生を送りたくなんて――。
「………………社畜……精神……?」
なんだろうか、あまり良い響きではないのにやけに心にストンと馴染む。
社畜。
会社の家畜。飼いならされて、ただ会社の為に働く奴隷。
思い返してみても俺の社会人生活はまさに社畜そのものだったのだと思う。
……あぁ……そうか……俺は社畜だったから……社畜生活を続けていたから……。
「はは……なんだ……そういうことか……」
気付いてしまったと同時に乾いた笑いが自然と漏れた。
自己暗示の効果が抜けきっていないとか、嘘から出た実だとかそんなのじゃない。
文句を言いながらも、不満を抱きながらも、怒りを覚えながらも何年も会社に勤めていた俺は、自己暗示なんてするまでもなく――自分でも知らない間に立派な社畜になっていたんだ。
「社畜精神がすっかり染み付いてたって訳か……」
だからこその拒否反応。
だからこその武器屋での奇行。
だからこそ…………気付きたくはなかった。
「戻りたいな……」
戻って働きたい。第二の人生を自由に生きるなんて気持ちはもう湧いてこない。
昔憧れていたファンタジー世界で過ごすより、代わり映えのない社畜生活を送りたい……なんてことを思ってしまう辺り、やっぱり俺は立派な社畜だということだろう。
だけど。
『どうせ色々考えても前の世界とはもう関われないんだし――』
あの真っ白な世界で聞いた天使の言葉。その重さと意味が今ならわかる。
戻りたくても戻れない。望んだところでもう前の世界とは関われない。
この世界に生を受けた以上、ここで頑張るしかない。
「……だったら今はやらなきゃいけないことからやっていこう」
嘆いたところで、望んだところで何も変わらない。
気持ちを切り替えた俺はゆっくりと、けれども力強く踏ん張って立ち上がる。
ここは剣と魔法のファンタジー世界。目に映るもの全てが新鮮に感じられる異世界。
そんな世界で俺が今すぐにやるべきことは。
「良いブラック企業探しから、だな」
生活や世間体の為ではなく自身の労働欲を満たすため。
自ら過酷な労働環境を求める就活が、こうして幕を開けた。
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