第4話 異世界の就業事情

 俺が異世界に転生し、第二の人生を歩み始めた記念すべき初日。

 憧れのファンタジー世界で自由に生きる為に俺は今。



「すみません、表にあった従業員募集の張り紙を見たのですが」



 ――就職活動に勤しんでいた。


 自由を求めている筈の俺が就活に励んでいるのには理由がある。

 森を抜けて辿り着いたこの街の、とある露店が切っ掛けだ。

 木箱の中に山盛りに詰め込まれた赤く瑞々しく、丸かじりすればさぞかし果汁の旨味が口の中に広がるであろうことは想像に容易いとても美味しそうな林檎。そんな林檎達の入った木箱に貼られている値札。



 『リンゴ1個 10ルピド』



 これこそが全ての切っ掛けだった。

 別に金がない訳ではない。所持品の確認をした時に、金貨を10枚ほど持っていたのを確認している。が……俺にはその金貨がどれぐらいの価値なのかがわからなかったのだ。

 ルピドというのは察するに通貨の名前だろう。ではこの金貨は1枚で何ルピドになるのだろうか?

 何かを買ってみて釣り銭を数えれば金貨の価値を知れるが、手持ちの金貨10枚は右も左もわからないこの世界での全財産。簡単に使ってしまう訳にはいかなかった。

 ここは異世界。文化も違えば前世の常識も通用しないかもしれない世界。言葉や文字が理解出来ているのは幸いではあるが、右も左もわからないというのが現状だ。

 各通貨の価値は勿論、物価に金の稼ぎ方。

 最低でもこの辺りは知っておかなければ魔物との戦いの中ではなく、餓死などというファンタジー世界に来ておきながら非常に勿体無い最期を迎えることになってしまう。


 最も優先すべきなのは知識と生活の安定。

 その為に俺は観光よりも先に就活に取り掛かり、従業員募集の貼り紙をしてあった武器屋を見つけ、早速乗り込んでいるところという訳だ。



「それじゃ名前を聞こうかな」



 店主らしき初老の男性に店の奥へと通されるなり面接が始まった。

 アポ無し訪問から面接に応じてくれるだなんて前世では考えられないがここは異世界。履歴書の提出も求められなかったことからこういった形式が一般的なのだろう。

 だけどこの流れも想定の範囲内、何も問題はない。就活戦争を一度経験している俺が何の前準備もなしに面接に臨む筈がない。



「はい。伊藤と申します」

「イトー君っと……変わった名前だねぇ」



 この反応も予想通り。

 少し調査すればこの世界に合った偽名も考えついただろうが、俺は敢えてこの世界では珍しいであろう前世での名を告げた。

 これから俺は『珍しい名前』だという主人の疑問に対して『地方の田舎出身で貧しい村なので出稼ぎに来た』と身の上話まで持っていく返答をし、こちらには働かなければいけない理由と意欲があることを知ってもらうのが狙いだ。


 相手に疑問や興味を持たせることで、それらに答える返答で、自分の発言したいことやアピールしたいところまで話を膨らませていく。そうすれば例え来て欲しい質問がこなかったとしても伝えたいことが押し付けがましくなく、自然と伝えられる可能性が出てくる。

 面接という質問する側とされる側、一方通行になりがちな形式での基本技術。前世でそれなりの場数を踏んできた経験と面接対策で得た知識を今こそ活かす時――!



「じゃあ採用ということで、明日から来られるかな?」

「はい。私の出身は――――って、えぇっ!?」



 こっ、これだけで採用? 本当に? 聞き間違いじゃない……よな?

 店主は俺が何で驚いたのかわからないといったばかりにきょとんとした表情だ。

 ……異世界の採用面接ではこれが普通なのか?

 まだ『ただお金の為だけならウチじゃなくて他のところでもいいよね?』とか『武器屋で働きたいだけなら他にもいっぱい武器屋はあるよ?』みたいなウザったい質問もきてないのに……。



「ええと……そんな簡単に採用を決めてしまってよろしいのでしょうか?」

「ん? ウチが従業員を募集していたところにイトー君が働きたいと申し出てくれた。それなのに採用しないというのはおかしい話ではないかい?」



 ……た、確かに正論だ。

 募集していて明記されている募集条件に沿っているのにも関わらず、不採用の理由も記載せずにお祈り通知だけ送りつけてくる雇用側の皆さんに聞いて欲しいぐらいの正論だ。



 ――だけどやはりおかしい。

 学歴や職歴や志望動機どころか住所などの素性も明かしていないのに、ただ名前を名乗っただけで素性の知れない人間を採用するなんて常識的に考えて――。

 ………………常識的な考え?

 そうか……そうだよ。

 ここは日本じゃないんだ。異世界なんだ。

 前世での常識や文化なんて通用しないのは通貨の件でわかってたことじゃないか。

 常識的に考えて、という考え自体が既に前世で染み付いた身勝手な先入観でしかない。

 国が違うだけで文化も常識も法律も、そこに住む人々の価値観や考え方まで変わるというのに今や丸っきり世界が違う。採用の基準一つとっても違ってくるのは当然だ。


 ……まったく。どうも駄目だな。

 歳を重ねて色々経験していくとそれだけ考え方が凝り固まってしまうみたいだ。

 この世界で自由に生きるためにももっと柔軟に対応出来るようにしていかないと。



「わかりました。では明日から――」



 いやでも待てよ?

 このあっさりと採用が決まってしまう感じ……どこか既視感がある。

 そう、確か俺の前職であるあのブラック会社の面接を受けた時だ。




『伊藤さんは大変優秀な方のようですね。実は既に内定を貰っているのではないですか?』

『――いえとんでもないです。御社が第一志望です』

『それは嬉しいですね。こちらとしても伊藤さんのような優秀な方は是非ともうちで働いて頂きたいと思っています』

『――ありがとうございます』

『であればこちらの内定承諾書にサインを頂けますか? 実を言うと他にも内定候補者がいましてね。手続きが遅れると採用枠が埋まってしまう可能性が高いのですよ。私個人としても伊藤さんという有望な人材を失いたくないのです。なのでよろしければ――』




 ――そんな口車に乗せられてサインをしてしまった過去の記憶が蘇る。

 内定を焦るばかりにやってしまった人生最大の失敗。失われた新卒ブランド。こんにちはブラック企業。

 せっかく苦く苦しい記憶があるんだ。あんな経験をしておきながら同じ失敗は繰り返せない。繰り返すわけにはいかない。簡単に採用するところほど危ないという経験を基に慎重になるんだ。



「すみませんが勤務形態などの説明をお願いしても宜しいでしょうか?」

「ん、おお。そうだったそうだった。その辺もちゃんと言っておかないとだった」



 すっかり忘れていたとばかりに手をポンと叩く店主。

 このとぼけたような態度は裏があってのことなのか……見極めさせて貰おう。



「じゃあこの勤務表を見ながら説明させて貰おうかね」



 そう言って店主が差し出してきた手書き感溢れるシフト表を見て俺は驚きを隠せなかった。



「8時間……労働……!?」

「多いかい? でもすまないね。店番だけじゃなくて商品の手入れや入れ替えに在庫確認とか色々やって貰いたいからこれ以上短くするのは難しくてねぇ……」



 申し訳無さそうに店主が言うが、俺が言いたいのはそうじゃない。逆だ。

 短すぎる……あまりにも短すぎる。

 店の営業時間が12時間とあまり長くない上に二交代制。日によっては8時間労働どころか6時間や7時間で済むような日もある。そしてなにより休日まであるではないか。

 これが、こんな勤務時間が異世界のスタンダードなのか……?



「……これ、勤務時間が逆に増えるってことはありますか?」

「うーん、忙しい時は普段より1、2時間ぐらい多く働いてもらうことになるけど……まぁそれも月に2回あるかってぐらいだから残業ばかりってことはないから安心していいよ」



 なんという……なんということだ……。

 あまりにも天国のような労働条件に、体の震えが止まらない。

 けれどこの震えは喜びに打ち震えている訳ではない。

 感動に打ちひしがれている訳ではない。


 恐怖だ。


 俺は恐怖している。恐怖に震えている。

 こんな楽な労働条件の下で働いていたら俺は……俺は……。


 ――駄目な人間になってしまう。


 駄目だ。このままじゃ駄目だ。なんとか、なんとか労働条件を改悪して貰わないと……!



「も、もっと勤務時間を増やせませんかっ!?」

「ええっ!? 増やすのかい!?」

「はい! 勿論増やして頂いた時間分の給料は結構ですので!」



 俺が今欲しいのは金じゃない。労働時間だ。

 タダ働きの時間が発生してしまうが、前世で月に最低でも何百時間ものサービス残業をこなしてきた俺にとってはごく自然で、口にしてみても全く抵抗感のない提案だ。



「いやぁしかし増やせと言われても営業時間を伸ばすわけにもいかないからなぁ……」

「で、でしたら俺だけ休日組まなくていいですから!」

「それこそだめだよ。しっかり休んで貰わないと。身体を壊したら元も子もないからね」



 そ、そんな……。

 休日にしっかり休めだなんて……。

 そんな言葉……初めて言われた……。

 これまで上司や先輩からは『休みのうちに打ち合わせ用の資料作っとけよ。平日は外回りばっかりで作ってる時間ないからな』とか『土日祝は提携先と連絡取れない事が多いから気をつけろよ』ぐらいしか言われたことがなかったのに……。



「ふむ。今気付いたのだけど君はとても疲れているようだね。顔色があまり良くないよ」



 雇い主が俺の体調を気遣うだなんて……。



「そうだねぇ……明後日から来て貰うことにしようか。明日は一日しっかり休みなさい」



 あ、ありえない。

 雇い主や上司なんて普通、仕事を丸投げしたり無茶ぶりしたりそのくせお前のやったことだから責任は取らないと知らんぷりする人のことで、こんな優しい言葉を投げかけるのはおかしくて……。

 ましてや休みをあげるからしっかり休めなんて絶対に言わない人で……。

 ……や、やっぱり駄目だ。

 俺はここにいると確実に駄目な人間になってしまう……!



「それで給料についてだけど張り紙に書いてた通りだから――」



 これはもう金の問題じゃない。例え給料が安くとも、逆にありえないほど高くても、こんな労働時間が短くて、すぐに腑抜けになってしまいそうな環境でなんてとても働けない。



「あ、あのすみませんっ! やっぱりこの話はなかったことにしてください!」



 話を遮って勢い良く頭を下げた俺は店主に背を向け、すぐさま走り出した。



「え? ちょ、ちょっとイトー君? 突然どうしたんだい?」

「すみません失礼しますっ!」



 店主の慌てたような声。

 出入口で一度だけ振り返って頭を下げたのを最後に、俺は心の中で何度も店主に謝りながら店を飛び出していった。

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