四、ワタツミの宮③―宮殿の奥での出会い!“ゼンシンショウリ”とは何者なのか!!―

「…暗いな…」


 スサノオは部屋の中でつぶやく。

 十分に予想されたこととはいえ、部屋の中は完全な真っ暗闇である。

 宮殿の廊下が無数のたいまつに照らされていたこともあり、この部屋の暗さがいっそう際立つ。


 これは暗闇に目が慣れるのを待つしかないか?

 スサノオがそう思ったときである。


(…ショウリ…)


 再び例の声が聞こえる。


「…こっちか!」


 スサノオは暗闇の中を手探りでゆっくりと、声が聞こえた方向へ歩みを進める。


「…これは…」


 ようやく部屋の隅の辺りまでたどり着いたとき、スサノオはついに小さな人影らしきものを見つける。

 その人影はスサノオに背を向けたまま、部屋の隅っこの壁を見つめるような形で突っ立っている。


「…すいません、尋ねたきことが!」


 スサノオは思い切ってその人影に尋ねてみる。


「……」


 スサノオの声に背を向けていた人影が黙ったまま振り返る。


「……!」


 その人影の姿を見た瞬間、スサノオは言葉を失う。


 背はスサノオより頭二つ分は低く、首から下は黒い布で覆われている。


 だがスサノオが特に驚かされたのはその顔である。


 髪の毛は全くなく、皮膚は黒い岩のように見え、耳と鼻は“器官”というよりはただの“穴”といったほうがふさわしい形であいている。

 そしてその目はぎょろっ、とした様子でスサノオの方を見ている。


 そのあまりにも特異な姿形に、さしものスサノオも一瞬声をかけるべきか迷う。


 しかしである。


 この者はスサノオが宮殿の中をさんざん探して初めて出会った者である。


 それにいかに異形の姿形をしているとはいえ、自分を脅かすとまだ決まったわけではない。


(…ええい、今さら迷う必要などあるまい!)


 意を決して、スサノオはこの正体不明の存在に話しかけてみることにする。


「…いや、これは失礼した。そなたを驚かせるつもりなどなかったのだが…」


 そう言いながら、スサノオはちゃんと会話できそうな程度に相手との距離をつめる。


 そして部屋の中を見回してみる。


 スサノオの目が暗闇に慣れてきたこともあり、よく見るとその者の立っている位置のすぐ近くの床は穴が開いていることが確認できる。

 その穴からはかすかにざあざあ、という水が動いている音がしており、穴の下は海水があるらしいことがわかる。


「…実は今完全に宮殿の中で迷ってしまっていてな、…そなたにはここから大広間への行き方はわかるだろうか?」


 スサノオは話しながら相手の目を見る。


 相手もスサノオの目を見返す。


 そんな無言のにらみ合いが数秒ほど続く。


「…そうですか。ここはワタツミの宮殿の一番奥の部屋に当たります。実は大広間の真裏にあたるのですが…」


 相手はスサノオから目線をそらして、初めて言葉を発する。


「そうなのか、ずいぶん遠くまで来てしまったものだな。…して大広間への戻り方は?」

「はい、この部屋を出ましたらしばらくまっすぐお進みください。そして突き当りを左に曲がり、そのまま道なりに廊下の左側に注意しながら進むと、いずれ左側にひときわ大きな青銅の扉を見つけられるはず。そこが大広間への入り口です」

「そうか、かたじけない。…ところでせっかくなのでそなたの名前をお聞きしたいものだが?」

「私の名前ですか?私の名はヒルコです」

「ふむ、ヒルコ殿か。それではこれで…」

「ええ、それではこれにて。“スサノオ”様」


 すでに部屋から出ようとしていたスサノオは再びヒルコの方に向き直る。


「…なにゆえこのスサノオの名を知っている?このスサノオ、自らの名は一度も貴様に対して明かしたことはなかったはずだが?」

「…いえ、…それは…」


 詰め寄るスサノオに対して、ヒルコはしどろもどろになる。


「どうした?ひょっとして貴様がこのスサノオの名を知っている理由をしっかりとこちらに説明できないとでも?」


 スサノオはヒルコとの距離をつめながら、その右手で腰からかけている刀の柄をつかむ。


「…いえ、…決してそのような。…そ、そうだ、…あなた方がここに来られてから一行の中にあなたがおられることが宮殿内で話題になって、…かつて出雲でヤマタノオロチを討った英雄スサノオ様、外見は全身の毛が真っ白である、と…」


 このヒルヒコの言葉を聞いて、スサノオは自らの刀から手を離す。


「…ふむ、一応話の筋は通っている…」


 スサノオはヒルコに詰め寄るのをやめ、その様子をじっと見る。


 ヒルコはいまだに少し困惑した様子で、スサノオを見返す。


「…すまなかったな、お前をどうこうするつもりはない…」


 そう言い残すと、スサノオはくるりと向きを変え、一直線に部屋から出て行くのだった。



 スサノオは大広間へと向かう廊下を歩きながら考える。


 無論それはヒルコのことである。


 歩いている間もスサノオの頭からあの不気味な存在のことが離れることはない。

 それはただ単に外見が異様だとか、自分の名前を知っていた、といったことだけが原因ではない。


 あのヒルコが身にまとっている雰囲気、オーラのようなもの自体がスサノオの不安をかき立てるのである。

 そのあまりに強い“負のオーラ”のために、スサノオがヒルヒコに詰め寄ったときには危うく刀を鞘から抜きそうになったほどだ。


 そしてあの者がこちらを見たときの目つきには強い憎しみと怒りを感じた。

 それはヒルヒコがスサノオ個人を憎んでいるというよりは、あの者にとって自分が見るもの、世界のすべてが憎い、といった感じのものだった。


 さらにはヒルコが発していたと思われる“ゼンシン、ショウリ”という言葉も耳にこびりついて離れない。

 一体どういう意味があるのか?


(…おそらく“前進勝利”なのではないかとは思うが…)


 とはいえ、そうだとしてもそれが本当の意味で何を意味しているのかはこの言葉だけではわからない。


「…ふーっ…」


 あまりの訳の分からなさに、思わずスサノオは深いため息を漏らしてしまう。


 もっとも、今のところヒルコが悪行を働いたということは一切ない。


 むしろスサノオが大広間まで行く方法を教えてくれた、という意味では親切であったとすらいえる。

 しかしそんな小さな親切もあの者のまとう“負のオーラ”の前では本当に小さなものだとスサノオは感じている。


(…そうだ!)


 そういったことが頭の中を巡っているときに、スサノオの頭に妙案が浮かぶ。


 ヒルコのことをワタツミに直接問いただしてみてはどうか?


 何と言ってもこの宮殿の主はあの男だ。

 それに幸いワタツミはヤマサチや自分たちに対してかなり好意的な感情を持っていると思われる。


 自分がヒルコのことを聞けば、案外簡単に答えてくれるかもしれない。

 ヒルコのことをどうするかはその後考えても遅くはあるまい。


 そう考えると、スサノオは一刻も早く大広間にたどり着きたくなってくる。

 スサノオは大広間の位置を特定する作業を早めるのだった。



「着いた!」


 スサノオは青銅の大きな扉を開ける。


 結局ヒルコの言った通りにすれば、意外に簡単に大広間に着くことができた。


 少なくとも大広間への行き方に関して言えば、ヒルコは嘘をついていなかったわけだ。


 もっともその程度のことでスサノオのヒルコに対する〝疑念〟が晴れたわけではなかったが。


 スサノオは大広間に入り、ワタツミの姿を見つけると、一直線にそこに向かっていく。


「…おお、父上、ようやく帰ってこられましたか。ずいぶん長く帰ってこられなかったので私は非常に心配を、…え…?」


 スサノオを見つけて近寄り、声をかけるオオクニヌシをスサノオは無視して素通りする。


「…失礼だが、ワタツミ殿」


 ワタツミの座っている場所の一畳分は他の場所よりも一段高くなっている。


 スサノオはそのすぐ手前までやってきて、座って声をかける。


「なんですかな、スサノオ殿?」

「実はこのスサノオ、大広間を出て少し宮殿の中を歩いたときにたまたま奇妙な者に出会いましてな」

「奇妙な者、…ですかな?」

「はい、それはヒルコと名乗る者で…」

「…ヒルコ、…ですと…」


 それまで穏やかな調子で話していたワタツミは、スサノオの口からヒルコの名が出るのを聞くと、一気にその表情をこわばらせる。


「ええ、その者がいったいどういう者なのか、あなたに尋ねたいと思い、こうして話を切り出したのです」

「…あの者は、…ええと…」

「まさか知らないとは申しますまいな。なにしろヒルコはこの宮殿の中にいるのですぞ」


 明らかにスサノオの質問の返答にきゅうしているワタツミを、スサノオはさらに問いつめる。


「…えー、…あのヒルコという者はもともとこの宮の近くの海を漂流していたのです。それを我々は保護して…」

「漂流していた?このスサノオにはあの者は魚にも人間にも見えなかったがな…」

「…それは…」


 スサノオは要領を得ない話しぶりに終始する、ワタツミの口ぶりにいら立ちを募らせる。


「…ええい!いい加減しろ!」


 ついにスサノオのいら立ちが怒りへと変わる。


「ワタツミよ!貴様はヒルコのことを適当にごまかそうというのか!ヤマサチ殿はだませてもこのスサノオは…」


 スサノオは立ち上がり、ワタツミとの距離を詰めようとする。


「父上、おやめください!」


 スサノオの前に突然オオクニヌシが割って入る。


「ナムチよ、なぜ止める!この男はな…」

「あなたにどんな事情があるのかはこのナムチにはわかりません!しかし今の状況を考えてください!」

「状況だと?」

「せっかくヤマサチ殿がワタツミ殿といい関係を築いておられるのに、あなたはそれを壊そうとしているのですぞ!」

「…く…」


 さすがのスサノオもオオクニヌシに指摘されて気づく。


 自分たちがここに来たのはもともとヤマサチがなくした釣り針を探すためである。

 その目的を達成する前に自分たちとワタツミの関係が悪くなることは決してあってはならない。


 さもないとスサノオが、ヤマサチが釣り針を取り戻すのを邪魔した、などということになりかねない。


「…ワタツミ殿、すまなかった。このスサノオ、そなたに害を与えるつもりは決してない…」


 スサノオはワタツミに謝罪する。


「…ええ、わかっておりますとも。…それとあなたが疑問に思っている“ヒルコ”のことについてですが…」


 ワタツミはスサノオの謝罪を受け入れる。その態度も以前の平静さを取り戻している。


「ヒルコはあなたにも他の方々にも危害を加えることは決してありませぬ!そのことはこのワタツミが保証いたします!」


 ワタツミはスサノオのヒルコへの“疑念”を強く否定するのだった。

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