五、ワタツミの宮④―ヤマサチ、ついに地上への帰還を決意す!…そのときワタツミは…?―

 このスサノオとヒルコ、ワタツミとの一連の件の後も“宴会”は毎日続いた。


 相も変わらぬ“馬鹿騒ぎ”の日々の中、ただ一人スサノオだけが物思いに沈む。


 あの一件の数日後、スサノオは再びヒルコと会った部屋の方にも出向いてみた。


 しかし部屋の扉の前にはワタツミの宮殿の男が二人立っており、ここは立ち入り禁止です、と言われてしまった。


 つまりワタツミは、ヒルコはあなたたちに危害を加えることはない、などと言っておきながら、スサノオがヒルコと接触することは嫌がっているわけだ。


 とはいえ、このことでワタツミを再び追及したところでほとんど意味はないだろう。


 何しろヒルコが具体的に悪事をしたというこん跡は何もない。

 ゆえにワタツミに、ヒルヒコは他の者に危害を加えるような者ではない、などとしらを切られればそれまでだ。


 それに再び自分がワタツミに詰め寄るようなまねをすれば、自分たちとの関係が決定的に悪くなる危険性も少なくはないだろう。


 それと、ヒルコとの一件については一応オオクニヌシにも話をしてみた。


 もっともその話をスサノオから聞いたあと、オオクニヌシはなんとも言えない、といったような顔をしていたが。


 とはいえそれも無理からぬことかもしれない。


 なにしろスサノオはヒルコに関して、具体的に悪事をしたという証拠を一切知らない。

 ただ単にこれから悪事をするのではないか、という“疑念”だけで危険性を指摘しているのだ。


 このスサノオの考えを完全に信じろ、ということのほうに無理があるだろう。


 結局ヒルコはまだ具体的に悪事をしていない、ということが、スサノオが周囲にヒルコの危険性を伝えようとするときに必ず障害になってしまう。

 下手をしたらヒルコを悪とみなすのはスサノオが考えたありもしない妄想、ということにもなりかねない。

 そうなればもはやスサノオは狂人扱いだろう。


 しかしそれでもスサノオはヒルコを最初に見た時の事を思い出し、考えるのである。


 あのときのヒルコが持っていた、悪意、憎しみ、怒り、負のオーラといったものから自分が感じた“嫌な予感”は決して単なる妄想などではない。


 それはもしあの場にオオクニヌシや他の者たちがいたら、少なからず感じられたに違いないものなのである。


 だが今の状況ではヒルコの姿を他の者たちに見せることもできないだろう。


 ヒルコの件に関してはもはや完全に八方ふさがりである。


 このことについては高天原に戻ったときに、アマテラスたちに報告する以外にもはややれることはなさそうである。


 こうして“宴”を楽しむ者たちにとっては面白おかしく、そうでない者たちにとっては無為にワタツミの宮での日々は過ぎていった。



「…ふーっ…」


 ヤマサチは深いため息をつく。


 そんなヤマサチの様子をトヨタマヒメが心配そうに見つめる。


 ここ最近までのワタツミの宮での日々はヤマサチにとって確かに楽しい日々であった。


 しかし楽しい宴会もさすがに毎日続くと、だんだん飽きてくるというものである。


 そうして宴に少しずつ飽きてくると、今度は自分がいない間に地上の様子がどうなっているのか、ヤマサチはだんだん気になり始めていた。


「…あの、ヤマサチ様、…最近ため息をつかれることが多いのですが、…何か気にさわることでもあるのでしょうか?」


 ついにトヨタマヒメはヤマサチに、どこか憂うつそうな理由を、思い切って尋ねてみることにする。


「…実は―」


 ヤマサチはトヨタマヒメにここに来るまでの経緯を話す。


 無論自分がなくしてしまった釣り針を探して、ウミサチに返さねばならないことも、である。


 そして釣り針が見つかったら地上に帰りたい、ということも伝えた。


「…わかりました。釣り針の事については父に聞いてみるのがいいでしょう。ではいっしょに参りましょう」


 こうしてヤマサチはトヨタマヒメと共にワタツミの元へと向かうのだった。



「…なんと、そのようなことが…」


 ヤマサチの話を聞くとワタツミは非常に困惑した様子を見せる。


「…うーむ、…私はできることならあなたにワタツミの宮にとどまり、このままここに住み続けて欲しいと思っている。それは無理なのですかな?」

「ええ、私は地上に生まれ、地上に生き続けるべき者です。この宮で一生を終えることはできません」

「…ふーむ、…そういうことならば仕方ないか…」


 ワタツミは心底残念そうに深くため息をつくと、話を続ける。


「…わかりました。それでしたらこれから今この宮の近くにいる海の者たちを通じて、あらゆる海の者たちに針の行方について知る者はないか、という話を広めさせましょう。そして何らかの情報を持っている者がいれば、この宮まで来るように言います。そうすればじきに釣り針は見つかるでしょう」

「わかりました、ありがとうございます」


 その話を聞くと、ヤマサチは安心して針が見つかるのを待つことにするのだった。



 ワタツミが釣り針のことを海の者たちに広めさせてからしばらくして、ある魚からどうも赤いタイの体の中に針があるのではないか、という情報が寄せられた。


 その魚によれば、最近その赤いタイののどに何かが刺さって、おかげで物が食べにくくなってしまっている、とのことだった。


 そのためワタツミはその赤いタイに宮殿まで来るように命じた。


 そしてその赤いタイののどから見事に釣り針を抜き取り、泉の水で洗い清めてヤマサチに返した。



「釣り針を返していただいて、ありがとうございます」

「いやいや、礼には及びませぬよ」


 釣り針のことについて礼を言うヤマサチに対して答えるワタツミの様子には、いまだに多少の未練がうかがえる。


 今日はヤマサチたちがワタツミの宮を去る日である。


 そして今は宮殿の外の、最初にヤマサチたちが舟でやって来た岸辺に、ワタツミ、トヨタマヒメ、さらにヤマサチ以下八人がいる。


 ヤマサチがワタツミの宮を去ることを決めたとき、スサノオ以下他の者たちもその考えに同意した。


 当初はワタツミの宮で過ごす日々をもっとも楽しんでいたミナカタとスクナビコナでさえ、毎日繰り広げられる“宴”に完全に飽きていた。


 そのためもはや一行の中にワタツミの宮を去ることに異論を唱える者などいようはずもなかったのである。


 トヨタマヒメはヤマサチの決意を聞いたとき、非常に嘆き悲しんだ。


 そしてヤマサチにはいずれ私もあなたの元に参ります、と告げた。


「そうだ、あなたにはいくつか申したきことがあります」


 ワタツミはヤマサチに話を切り出す。


「ええ、それはなんでしょう」

「まずあなたが釣り針を兄に返される時、『ぼんやり釣り針、すさみ釣り針、貧しい釣り針、おろか釣り針』と唱えながら、後ろ向きになってお渡しください」


 このワタツミの言った言葉は兄に呪いをかけるということを意味している。


「なぜそのようなことをしなければならないのでしょう?」


 ヤマサチがワタツミの話に疑問をぶつけると、ワタツミの表情がぐっと厳しさを増し、答える。


「以前あなたから聞いた話から察するに、あなたの兄があなたに元の釣り針を返すようしつこく迫ったのは、単に釣り針を取り戻したい、という気持ち以上にあなた自身をうとましく思う気持ちが強いからなのでは」

「兄が私のことをうとましく思っている?いえ、そのようなことは…」

「いやいや、あなたは地上に戻った後も兄の動向には常に注意を払うべきだ。あなたの兄に簡単に心を許すようなことだけはやってはなりません」

「…わかりました。ワタツミ殿がそこまで言われるならば…」


 ヤマサチは半信半疑ではあったが、ワタツミの忠告に従うことにする。


「ええ。それと釣り針を返した後は兄が高い土地に田を作ったら、あなたは低い土地に田を作り、兄が低い土地に田を作ったら、あなたは高い土地に田を作ってください。そうすれば、私があなた方の土地の水の流れを操り、あなたの兄を貧しくしましょう」

「…しかしそんなことをすれば兄は…」

「はい、ひょっとしたらあなたのことを恨み、軍勢を率いて攻め寄せてくるかもしれません。そのときのためにこれを」


 そう言ってワタツミはヤマサチに二つの玉を渡す。


「…これは…?」

「こちらの緑の玉が塩満玉(しおみつたま)です。この玉には潮を満ちさせる力があります。いざとなったら兄たちを水でおぼれさせることができるでしょう。こちらの白の玉は塩乾玉(しおふるたま)です。この玉には潮をひかせる力があります。もし兄たちを助けたいならこの玉の力を使うのです」

「わかりました、ありがとう。…できればこの玉を使う機会が来ないといいのですが…」

「あと、あなた達の地上への帰還についてのことですが…」


 そう言うと、ワタツミはパンパン、と拍手をする。

 それを合図に岸辺近くの海面から七匹の鮫がぽんぽん、と次々と頭を出す。


「皆様はこれらの鮫の背に乗って、地上までお帰りください。もちろんそれぞれ皆様の体格に合う鮫を用意しておきました。おそらく一日の間に地上までたどり着くことができるはずです」


 ワタツミはそうヤマサチたちに言うと、今度は鮫たちの方に向かって言う。


「いいか、お前たち、この方たちはこのワタツミの大切な客人たちだ。海の中を通るときに恐れさせるようなことは決してしてはならぬぞ!」


 ワタツミは強い口調で鮫たちに言いつける。


 そしてヤマサチたち七人はそれぞれ岸辺から鮫の背に乗る。


 スクナビコナはミナカタの着ている服の帯の間に潜り込む。


「それではワタツミ殿。何から何までありがとうございました」


 そうしてヤマサチたちはワタツミとトヨタマヒメに別れを告げると、鮫の背に乗ったまま、ワタツミの宮から去るのだった。

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