砂浜にて #2024AdventCalendar_SS_10024
遠く続く海岸線に風は荒れ狂う。くすんだ色の砂は湿って固く、波打ち際まで押し寄せる霧が灰色の海を半ば隠している。
ここから少し歩けば燈台があるが、今日は薄青いフレネルレンズも結露しているだろう。光は投げかけただけ飲み込まれ、船はスクリューの呟きだけを波のしたに泡立たせながら海を進む。
女は風に逆巻く髪を押さえながら、限りなくモノクロームに近い海辺の景色を眺めていた。
コートのポケットが震える。女はスマートフォンの画面に表示された名前を一秒だけ眺めて、通話を開始した。
――そろそろ出発かな
穏やかな声は前置きを省いた。声の主である男は時折そのような話し方をした。そのために女は度々返事が遅れたが、今日もまたそうなった。
「少し遅れる。霧が濃いから」
――そう。こちらは雨だよ。冬の冷たい雨だ
それは女がもっとも嫌うもののひとつだった。高みから降り注ぎ、街の色と温度を溶かしながら流れ去る雨はいつも女を憂鬱にさせ、あたたかい家に閉じ込めた。快適な部屋は女の好きなものばかりで満たされ、気に入りの紅茶がカップで立てる湯気さえも女を息苦しくした。
「珈琲を飲んでいる?」
――きみがいないからね
女はまた珈琲の香りを嫌った。好きであることに理由はないが嫌いであることには必ず理由がある。誰かが垂れていた理屈は女には理解できなかったが、今なら少しだけその意味がわかるような気がする。もともと飲めなかった珈琲の、香りすら嫌いになったのはそれが自分の不在を表すからだ。
男は女が部屋にいないときだけ、珈琲を飲んだ。飲み終わればすみやかにカップを洗い、窓を開け、香りの痕跡を消し去って女の帰りを待った。
霧は一層陸へ押し寄せるようだった。汀に残る水の跡を抱き込まれ、次第に見えなくなる。
今日はいくら換気をしても無駄だろう。珈琲と雨の匂いが入り混じり部屋を満たすだけだ。
提げた鞄のなかは空白が目立つ。どこまでも連れていけるものは多くないと、鞄を閉じながら女は理解した。人は移り変わるのが定めなのだから、捨てては手に入れてを繰り返していくのもまた当然だ。次第にその頻度も量も減っていくだけのことだと女は思った。
――きみの好きな砂糖菓子をひとつもらった。珈琲にも合うね
数少ない好物である菓子は鞄に入れなかった。この先の道行きではそれが気休めにもならないことを女は既にわかっていた。
紅茶の湯気のような息苦しさを拭うために、珈琲の香りが示すよりも深い不在へ向けて、女は船に乗る。
――このあいだ買ったランプ、燈台に似ているね。点けておくよ
男の声は女の帰る港を今も示すが、もうすぐ霧にまぎれて聞こえなくなるだろう。
「アドベントカレンダーは燃やしておいて。風邪を引かないようにね」
返事を待たず、女は通話を終わらせる。踵を返して砂浜を歩いていく。
霧が去ったら、海には雪が降るはずだ。
【創作小説】みんなでSS持ち寄る会 Advent Calendar 2024 参加作品
https://adventar.org/calendars/10024
十二月二十日 霧笛の日によせて
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます