霧笛(創作小説 Advent Calendar 2023 参加作品)
12/20 霧笛記念日によせて
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
寺山修司
マッチを擦ると、その一瞬の火に照らされた海には深い霧が出ている。
この短歌に対する一般的な解釈はそうらしい。
案の定、自分の思い浮かべていた景色とは異なる。いつものことだ。
「それなら」
靴下とスラックス、共に上等な生地で包まれた足が退屈そうに投げ出されている。擦り切れた畳のうえで。
「おまえはどんな景色を見ていたのか、気になるところだね」
大したものじゃないと誤魔化しても
――港の端から続く防波堤に男が立っている。目前の海は平原のように凪ぎ、残照がわずかに水面を照らしている。外套の裾はそよとも揺れない。
男は煙草を取り出し咥える。マッチ棒が箱のなかで乾いた音を立て、細く頼りないそれを摘まみ上げて擦る。
鋭い音を立てて点った灯を男はゆっくりと煙草に移す。深々と吸えば濃い憂いの味がする。
立ちのぼる細い煙を目で追う。煙は輪郭を崩しながら海へと流れていき――そこで男は気づく。
目を離していたほんの束の間に、深い霧が海を覆い隠していた。手を伸べる残照を拒むように。
海のように揺るぎなく広いものも気づけば隠されて見えなくなる。ちっぽけな火では照らせないほど深く。
確かなものなど何ひとつない。ましてや、この身を捨てて守るほどの祖国など。
「世間さまよりさらに暗い解釈だね。絶望的じゃないか」
的確な評に猫背がさらに丸くなるのを感じる。
「祖国なんて言葉を使う歌が明るいわけがない」
「祖国は暗いかね。かつては
「昇ったところで斜陽だろ」
「その通りだ、まったく」
けらけらと笑う男は、本当はこんな安アパートにふさわしい人間ではない。
実家は金持ち、家族との仲は良好、何ひとつ障りなく健やかに成長した現在は見た目も頭も良く、親切で明朗快活な人気者。まさに絵に描いたような「選ばれた人」だ。
けれどたったひとつ、その完璧な調和を崩している理由がある。
「でもその暗さ、私は好きだな」
自分のような陰気で貧乏で本しか信じない人間に、なぜか興味を持っていることだ。
「その解釈を、講義で堂々と唱えてやれば良いのに。いい加減単位も危ないだろう?」
「そっちこそ昼間から油売ってる暇あるのか」
「私はレポートさえ完成したら卒業できるんだよ。言ってなかったっけ?」
「じゃあ図書館で資料でも探してくれば」
「一緒に来てくれるなら、喜んで」
純真、としか言いようのない笑顔を向けて葦野は言う。
――陰気で貧乏で本しか信じない人間を取るに足らない存在だと判断するほど、私は馬鹿ではないのだけれどね
いつだったか、葦野はそう言った。口調は皮肉そのものなのに珍しく傷ついた顔をしていた。そんな風に見えた。それ以来、なぜ自分に構うのだと尋ねるのはなんとなく避けている。
「行かない」
「じゃあ、私も行かない。お茶をもらうよ」
身軽に起き上がって台所へ行く。控えめで涼しい香りが鼻をくすぐった。
いつも葦野がまとっていたのとは、違う匂い。
――その匂い、嫌いだ。下品だし濃過ぎる
以前、さっさと帰れという意味を込めてそう言ったのを思い出した。
――そう? 私は気に入ってるんだけれど
八つ当たりみたいな一言で、あっさり香水を変えるような人間だったか。
「あのさ」
「なに?」
当然のように湯呑をふたつ手にして戻ってくる。急須から丁寧に入れた緑茶がやたらと美味くて、余計に頭が混乱した。
「香水変えた?」
「うん。おまえが嫌いって言ってたから」
当たってほしくない予想ほど良く当たる。
「なんでこっちの言うことはなんでも聞くんだよ。前もそうだっただろ」
「前? ああ、ちょっと前に付き合ってた子ね。だっておまえ、そんなつまらないやつと付き合うなって言っただろ。私もその通りだなと思ったしね」
「こんな人間の言うことなんかどうだっていいだろ」
「どうでも良くないから従ってるんだよ。おまえの言うことはね、どうでも良くないんだ。私にとっては」
あくまで優雅な手つきで、葦野は湯呑を取り音も立てず中身を啜る。
「おまえは私にとって特別なの。誘導しないから」
「誘導?」
「私の周りには、直接私に要求をしてくるやつなんか一人もいないんだよ。あなたのために言ってるとか、こうしてくれたら嬉しいとか、そんな虚しく飾った言葉ばかりを私に投げてくる」
いつも周囲に笑みを振りまく明るい茶色の瞳が、今はまっすぐにこちらを見ていた。
「私に嫌われたくないんだ。どいつもこいつも。そのくせ私を自分にとって都合の良い存在に保とうとする。うんざりなんだ。でもおまえは違う」
「なにが」
「嫌いだとか、下品とか、つまらないとか。いつだってまっすぐに言ってくれるだろう。私はそれが好きなんだ」
こいつは何もわかっていない。
そのまっすぐな言いかたのせいで排斥されたのに。だからこうして誰とも交わらず誰も信じず、本ばかり読んで暮らしているのに。
「それはエゴだろ」
「もちろん」
「わかっているさ。これは私のエゴに他ならない」
差し出された湯呑から、最後の力を振り絞るように細い湯気が立つ。
「私は、誰かにこう在れと望まれたことになんでも応えられる。応えられてしまう。どんなに相手を軽蔑していてもね。だから羨ましいんだ。自分を曲げて群れへ馴染もうとしないおまえが」
ばかばかしい。
そんなちっぽけな憧れを抱かれたところで、救われるわけないだろう。
「わかってない」
だから言い募る。
「馴染もうとしないんじゃない。ただ馴染めないだけだ。それがどんなに苦しいかわかるはずない。いつも人に囲まれて幸せそうにしている人間なんかに」
葦野は少しだけ黙って、それからまた笑った。いつかのようなさびしい笑いだった。
「そうだね。おまえがどんなに苦しんでるか、きっと私は理解できない。理解できないからこんな無神経なことを言うんだろうね。それでも」
それでも、と言葉を継ぐ。
「私は、おまえのその苦しみが好きだ。理解できなくても。癒せなくても。だから、いつもおまえと一緒にいたいんだよ」
互いに憧れ、だから互いに一方通行。いつまで経っても、的外れな気持ちは相手へ辿り着かない。
霧の海を行く二艘の船みたいに。
「なら沈むしかないだろ」
「うん?」
「燐寸の灯より頼りないよ。そんな気持ちは」
首を傾げた綺麗な顔に言い放つ。
「だったら私は霧笛を鳴らすよ。何度でも。灯台の光が届かないほど霧が濃くても、霧笛の音なら届くはずだ」
間髪入れず、葦野はそう応える。
「確かなものはひとつもない。その通りだ。でも、岸へ帰るくらいの役には立つだろう?」
身を捨てるほどの祖国などない。
「おまえが無事に岸に着いたら、また会えるからね」
差し出された手にもそんな価値はない。
けれど霧笛のような葦野の手を掴まない選択も、少なくとも今は、ない。
「食事に行こう。今日は私が奢るよ」
「なんだよ気持ち悪い」
「人の親切は受け取っておけよ。本の買い過ぎでろくに食ってないんだろう?」
「ほっとけ」
連れられて開いたドアの向こうに霧は出ていない。
ただ、煙草の灯みたいに赤い夕陽が沈んでいくのが見えた。
【創作小説】みんなでSS持ち寄る会 Advent Calendar 2023
https://adventar.org/calendars/8942
参加作品
月浜定点観測所・出張所 此瀬 朔真 @konosesakuma
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