Day 31 遠くまで(二〇二三七月・文披31題)

はじめに

この物語は、小説企画「文披31題」の最終日・三十一日に投稿した作品です。


企画詳細

https://twitter.com/Fictionarys/status/1674794952038166533


投稿作品(リプライツリー)

https://twitter.com/KonoseSakuma/status/1675156531233566721


こちらのツイートと連動した内容になっております。

ペンネームの由来はなんですか?

https://twitter.com/KonoseSakuma/status/1663153543602397189





以下より本編です。お楽しみください。



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「信じてる。今は離れた空のした、あなたは誰かの灯台だって。」


 近頃街が騒がしい。隣人――と言っても住んでいるのは車で十分ほど行ったところだ――に尋ねると、先日ここに引っ越してきた一家がいるらしい。こんな辺鄙なところじゃ暮らすのも大変だろうと思ったが、住人たちは久しぶりに仲間が増えたと随分張り切っているようだ。畑で穫れた野菜を持たせたり、祭りに誘ったりと街に溶け込めるよう積極的に場を設けているという。

「センセイも、もう少し世の中と繋がっとかないとだめよ。あんまりお節介は言いたくないけどね」

 二人暮らしが独り暮らしになったことについて、未だに何も尋ねてこない隣人はさらりと言う。俺は何も言わず、ただ苦く笑って応えた。

 紹介したい子供がいる。数日後、頼んでいた食料品を運んできた住人が、汗を拭きつつそう言った。

「ほら、こないだ越してきた三人家族。俺んちの隣りに住んでるんだけどよ。そこの子。二年生っつったか」

 はあ、と曖昧に応える間もなく、住人は言い募る。

「センセイんち、本たくさんあるだろ。見せてやんなよ」

 話が急に飛んだ。詳細を尋ねてみるとその子供は本が好きで、学校の図書館にある蔵書を早々に消化して暇を持て余しているのだという。

 田舎の小学校の蔵書などたかが知れている。しかし、引っ越してきてからさほど時間が経っていないあたり、読書家であるのは間違いないようだ。ちょうど仕事もひと山越えたところだ。たまには、子供と話してみるのも気分転換になるだろう。

 荒い運転で走り去っていく軽トラックを見送りながら、この家に自分以外の誰かを入れるのは久しぶりのことだとようやく気づく。

 玄関先でぺこんと頭を下げる仕種はなかなか可愛らしい。転勤族の家庭と聞かされていたから、知らない大人への挨拶など苦もなく述べてみせるのだろうと思っていたが予想はあっさり裏切られた。顔を真っ赤にして、自分の名前を言うのもやっとな様子だ。

 本がたくさん読めると教えてもらった。消え入りそうな声で、ランドセルを背負った子供はそう言った。

「うん。多分、学校の図書館よりもっとある。好きなだけ読んでいくといいよ」

 張り詰めていた表情がぱっと明るくなった。先ほどより元気良くお辞儀をする。全身から待ちきれないような気配を発しながら、それでも脱いだ靴はきちんと揃える。楽しい時間になりそうだった。

 グラスは既にびっしり汗をかいている。なかの氷が融け切ってもページをめくる手は止まらない。大した集中力だ。ひと晩じゅうでもそのままにしておきたいところだが、窓の外ではまもなく陽が沈む。越してきたばかりの土地で子供の帰りが遅いとなれば親も気がかりだろう。二度、三度とそっと名前を呼ぶと、飛び上がってこちらを見た。たった今目を覚ましたばかりという顔だ。本にどっぷり浸かったあとの、まだ寝ぼけたような表情。

「そろそろ帰ろう。送ってくから」

 どんぐり眼がたちまち曇る。うまく表せないだけで、この子のなかには既に無数の言葉と感情が踊っているのだろうと思う。そう思うとなぜか妙に胸が騒いで、らしくもなく言葉を継ぐ。

「本は逃げない。だからまた明日、おいで」

 そう言うと、神妙な顔つきで本を見つめ、そっと閉じた。そして細い腕でぎゅっと抱きしめる。また明日、と言うように。

 待ち侘びた様子の両親に挨拶し、彼らに見送られながら暮れなずむ道を引き返す。辿り着いた家はいつも通りに静かだ。けれどその静けさに、まだゆらゆらと残っている気配がある。自分以外の誰かがここへやってきたのを喜んでいるような。

 そういえば何を読んでいたっけ、となんとなく本棚から引き出す。表紙を見てはっと胸を衝かれた。

 いつまでも捨てられず、結局隅に収めた青い表紙。

 彼女が残していった本だった。


 ずっと気になっていた。

 ここまでの道のりをすっかり覚えて、散歩のごとく気軽に立ち寄るようになったその子が、いつも大事そうに持ち歩くノート。

 読書がひと段落したところを見計らって、いったん書斎に入った。

「ほら。お揃い」

 差し出した白いノートと、自分の手元を見比べて驚いたように笑う。少し高価だが書き味がとても気に入り、親にねだって買ってもらったと教えてくれた。

「俺は、ここに物語の種を書いてるんだ」

 執筆中の作品に関する記述もあったが、見せるのに抵抗はなかった。この子は言いふらしたりしないと確信があった。手渡すとしばらく興味深そうにページをめくる。

「俺はね、もうずっと長いあいだ物語を書いてきた。きみは?」

 小学校に入ったくらいから、と素直に応えて、ぱっと口を押さえるまでに小さな間があった。抗議するような目で睨んでくる。思った通りだ。

「ごめん。でも、俺にも覚えがあるよ。物語を書いてると言ったら笑われた。おかしいことでもなんでもないのに」

 いつから書き始めたか、もう忘れた。

 どんなときもどんな話でも、真剣に書いていたことだけを覚えている。

 床に落ちる眼差しに迷いと悲しみが滲む。しばらく黙ったあと、ぽつぽつと話をしてくれた。

 いろんな学校で過ごしてきたが、お話を書いていると知るとみんなにからかわれた。ノートを取り上げられ大声で朗読されたこともある。だから、ここに越してきてからは、書いていることをまだ誰にも話していない。

「読ませてくれないか。笑わないよ、絶対に」

 すいと視線が持ち上がり、こちらに向けられた。透明で、だからこそ安易な嘘を許さない目をしていた。そういう強さを既にこの子は持っているのだった。

 差し出す手は震えていて、開いたノートはそのために羽化したばかりの蝶のように見えた。羽を乾かし、飛び立つ瞬間を待つ蝶。

 朝が訪れない、永遠の夜であっても。

 無慈悲な月が照らすばかりの荒野でも。

 学校の友人を主人公にしたというみずみずしい物語を読み終えて、俺はこう伝えた。


「きみはこの先、ずっと文章を書いて生きていくと思う。きっとそれがきみの宝物になるよ」


 たとえ俺の言葉が、呪いに変わってしまったとしても。

 大丈夫だ、きみは、必ず飛べる。


 出版社が急な打ち合わせを申し入れて、やむなく都会で一泊した翌日、夜も更けた頃に街へ戻った。一本道を家へ向かっていると、後ろからクラクションを鳴らされる。荒い運転の軽トラックが近づいてきた。

「都会でお仕事かい。大変だねえセンセイも」

 揺れる車内で、住人はところでさ、と切り出した。

「センセイんちに遊びに来てた子、いたろ。本好きの。あの子、引っ越しちゃったよ」

 心臓が一拍、強く跳ねた。それを悟られないよう、いつ、と問い返す。

「今日の昼。ずいぶん慌ただしく行っちまってさ。親父さんの仕事の都合らしいんだけどよ、にしたって急過ぎるよなあ」

 子供は親に振り回されて可哀想ったらねえよ、と住人はぶつくさ繰り返していたが、ほとんど耳に入らなかった。本棚の隅の青い表紙が目に入って、やっと意識が戻ってくる。

 引っ越し先は遠くの都市だ。おそらく、ここへやってくることはもうないだろう。

 戻らない時間が、またひとつ増えた。

 また明日、と笑って手を振った顔と、元気でね、と手を握った顔が、重なる。

 真夜中、書き上げたばかりの原稿の続きをせがんだ目と、ノートを抱きしめて頷いた目が、重なる。

 あの子は、彼女の代わりではない。それはよくわかっている。

 だから、よく知りもしない子供にあんなに肩入れしたのは、多分、嬉しかったからだと思う。

 俺はまだ独りではないとわかったことが。

 書くことはいつだって孤独だ。誰の理解も得られないまま、暗闇のなかを進んでいく旅だ。

 それでもときに、こうやって、輝きに出会える。

 七月の眩しい陽射しのような輝きに。


 月は、真円を間近に控えてますます強く灯る。なお進めと急かすように。

 その無慈悲さが、今は心地好かった。

 そうだ。

 俺は、俺たちは、進むために生きている。力の限り、命の限り。


 さようなら、小さな友達。

 望むままに飛んでいけ。

 ずっとずっと、遠くまで。

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