ジョバンニの切符・冒頭(ケンタウル祭2025)
「ジョバンニ先輩!」
戸口をくぐると、明るい声と共に小走りにやってくる若者があった。
「例のお客さんがまた来てるんです、今回も無茶ばっかり」
若者は最近ここへやってきた。明るく真面目で、仕事を着実に覚えている。
「わかった、すぐ行くよ。応接室かな?」
「はい。今は所長が話を聞いていますけど」
あまり当てにならないと思う、と若者は表情だけで言う。ぼくは苦笑いして、輪転機と活字棚のあいだを抜けて活版所の奥へ向かった。
「おお、ジョバンニくん。来たかね」
応接室では街場の社長がソファにどっかりと座り、顔色を悪くした所長が縋るような目でこちらを見ている。ぼくはお辞儀をして所長の隣に腰かけた。
「こんにちは、社長さん。今日はいやに暑いですね」
「まったくだよジョバンニくん。これでは商売もうまくいかないね」
社長はまた香水を変えたようだ。きつい匂いで、早くも気分が滅入ってくる。けれどもこれも仕事だ。できるだけ、穏やかに。
自分にそう言い聞かせて、ぼくはノートを開いた。
社長は満足した様子で帰っていった。一方ぼくの手元には新しい仕事が残った。報酬はかなりの額、納期はなんとか二週間伸ばしてもらった。
「というわけだ」
集まった作業員たちの前で所長が説明すると、みんな複雑そうな顔をした。
ありがたい額の報酬ではある。けれど、他の仕事を一度止めないといけない。活版所の仲間が総出で進めないととても間に合いそうになかった。
「皆さん、申し訳ないです。もう少し時間をもらえたらよかったのですが」
ぼくは深々と頭を下げる。
「いいんですよ、ジョバンニさん。あの社長の言いなりだったら、もっときつい納期でやらなけりゃあいけませんでしたから」
「手持ちの仕事をいっぺん整理してみましょう。いくらかは後回しにできるはずですから」
「大体、所長はジョバンニさんを頼り過ぎですよ」
「そうだそうだ、まずは所長ががつんと言ってやるべきでしょう」
「いやあ、面目ない」
「ぼくはいいんですよ。とにかく皆さん、よろしくお願いします」
工場のなかはいっぺんに騒がしくなった。紙をめくる音、機械の音に負けないよう電話口で張り上げる大声。せわしく歩き回る足音。
さっきの若者が近づいてきた。
「先輩、俺にも手伝えることないですか」
「うん。じゃあ、これを読んでおいてもらえるかな」
ぼくは資料を見るふりをして、若者のまっすぐな眼差しから逃げた。
それはぼくがなくしたもののひとつだ。
時間は飛ぶように過ぎ、どうにか段取りがついた。明日に備えて今日は早く帰るようにと所長が言ったので、みんなは終業のベルと同時に飛び出していく。
ぼくも鞄を取って、奥の作業台に声をかける。
「お先に失礼します」
まだ数人残っている工員たちが手を振った。ぼくは頷いて活版所を出た。
外は夕暮れで真っ赤だ。同じように仕事から帰る人たちが行き交って、街は賑やかだった。人波を縫うように歩き、家へ急ぐ。裏町の小さな家で、父は多分眠っているだろう。
「ただいま」
日覆いはまだ開けたままだ。声をかけると、しばらくしてから歩いてくる気配があった。
「おかえり、ジョバンニ」
父は眠そうな目を擦りながらぼくに笑いかけた。漁が休みになった今でも、早朝に目が覚めるくせが抜けない。だからこうして昼から夕方まで眠っている。
「今日はずいぶん早いな。具合でも悪いのか?」
気遣わしげな父に、ぼくは苦笑してみせる。
「全然。明日から忙しくなるから、今日は早く帰れと言われたんだ。また無理な仕事を引き受けてしまってさ」
「そうか。なら、明日は父さん一人で行こうか」
顔を曇らせた父を励ますように、ぼくは首を振る。
「いや、ぼくも一緒に行くよ。昼休みに少し活版所を抜け出してくる。それでもいい?」
「ああ、もちろん。腹が減ったろう。姉さんが昼間来てくれたんだ、いくつか御菜(おかず)を作っていったよ」
「じゃあ、食べようかな。一緒に食べる?」
「父さんはもう少しあとでいい。先におあがり」
食卓に皿を並べると、急に空腹を覚えた。パンを千切りむしゃむしゃと食べる。父がコップに牛乳を注いで置いてくれた。
「なんだか最近、牛乳の味が落ちたような気がするんだ。味が薄いんだよ」
ぼくが何気なくぼやくと、父は厳しい顔をした。
「贅沢を言うんじゃない、新鮮な牛乳が毎日飲めるなんてありがたいことだ」
贅沢を言うんじゃない――父が帰ってきてからの口癖だ。
父が監獄に入っていたという噂は本当だった。正確に言えば、半分だけ。
父をはじめ北の海へ出ていた漁師たちが、ちょっとした手違いで隣の国に捕まってしまったのだ。
なんだかおかしな話だとぼくは思うけれど、海にも国境線がある。そのそばで漁をしたのが失敗だった。小さな漁船が寄り集まっているのを見かけた隣の国は大急ぎでやってきて、漁師たちをみんな連れて行ってしまったのだ。
自分たちは何も悪いことをしていないと言い張ったけれど、結局ずいぶん長いこと漁師たちは隣の国から帰れなかった。
あの人が言った通り、父を乗せた船は数日遅れて港へ戻ってきた。
――すまなかったな、ジョバンニ。ほら、お土産だよ
痩せたひげ面で、父は何かやわらかいものをぼくに差し出した。
らっこの毛皮で作った、ふわふわの上着だった。
漁師たちが捕まったのは隣の国の手違いだ。彼らに一切責任はない。
偉い人たちがそう伝えた日、ぼくはらっこの上着を着て学校へ行った。みんな気まずそうな顔をして、おまけに少し暑かったけれど、お構いなしに手を大きく振ってどしどしと校内を練り歩いた。
歩きながら、彼がいたらいいのに、と思っていた。
翌日。思った通り仕事は大変だった。ぼくは作業台と輪転機をひっきりなしに行き来して、メモを取ったり指示を出したりした。誰もが汗を流して働き、どうにかひと段落ついたのは昼休みが始まってから二十分も経ってからだった。
「すみません、少し外へ出てきます」
ぼくは仲間たちに声をかけて、活版所を飛び出した。通りの角の花屋を目指し走る。花屋の娘はぼくの顔を見ると驚いたように微笑んだ。普段来るのは休日の午後だから無理もない。けれど何も言わず、季節の花を織り交ぜた花束を拵えてくれた。
「ありがとう」
銀貨を一枚手渡し、釣り銭と共に花束を受け取る。
「今日は暑いから、気をつけて」
墓地には木々が少ない。やってくる人たちはいつも、汗を拭いながら歩く。
ぼくは頷いて、店を出た。
父は既に墓地の入り口で待っていた。ぼくを見つけると手を振る。
「ごめん、父さん。遅くなった」
「いいや。今来たところだ」
ぼくたちは陽射しの降り注ぐ墓地を並んで横切り、隅にある小さな墓石の前にしゃがんだ。
「暑いね、母さん」
墓石はまだ綺麗だったけれど、水を含ませた布で丁寧に拭き上げる。父は周囲のごみを拾っている。小さな墓だから大した作業ではない。それでも、ぼくたちはなんべんも汗を拭いながら掃除を進めた。
母が亡くなったのは、父が戻ってからすぐのことだ。
ほとんど起き上がれなくなってからも、母はぼくたち家族のことばかり気にしていた。精いっぱい笑って、ぼくたちの話を聴きたがった。とりわけ、父の話はなんべんも耳を傾けた。仲間たちと力を合わせて海に挑んだ日々のことも、北の海に浮かんだ凍てつく雲のことも。
最後はひどい熱を出して、ぼくたちをみんな枕元に集めた。次はこんなに自分のことばかりで苦しまなくていいように生まれてくる、そうしてみんなとまた家族になりたい――目を潤ませながら、そう言い残して逝った。
「よし、こんなものか」
父は服の襟元を緩め、ごみを入れた袋の口を結んだ。最後に墓石の前に花束を置いて、ぼくたちのすることはほとんど終わった。まもなく昼休みが終わろうとしている。
「片付けは父さんがしておく。おまえは、仕事に戻りなさい」
「ありがとう、父さん。じゃあ、母さん、またね」
墓地を出る間際に振り返ると、父は陽射しに晒されながら、じっと墓石に向かい合ってその場に座り込んでいた。
月浜定点観測所出張所 此瀬 朔真 @konosesakuma
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