02.「昼寝する河馬」

昼寝する河馬①


 真っ黒な闇の中に、細い隙間が一本走っている。


 隙間があれば、ついつい覗いてみたくなるものだ。だからエレンは母の言い付け通りに音を立てないようにしながらも、スリットの向こう側の光景を一部始終目撃していた。


 どれもこれも既に朧気なのは、あの記憶を思い出したくないとエレン自身が拒んでいるからか。


 でも本当は、覚えている。文字通り脳裏に刻まれたあの記憶は、今もエレンの根幹に根を張り、エレンを侵食しようと蠢き続けている。


 部屋中にブチ撒けられた家族の血。ズタズタになった父の身体に、苦悶の表情を浮かべた母の顔。壁や天井にベッタリと貼り付く血の色に、生温い熱気と共に周囲に立ち込める臓腑の臭い。


 叫び声。


 火の色。


 怒号。


 血潮。


 汚濁の色彩がグルグルと回ってエレンを染め上げ、圧迫し、押し潰そうとする。かつては好きだったモノが放つ腐臭が、エレンの感覚を狂わせ、おかしくしてしまう。


 小さくて何も出来なかったエレンは、その場に踞るしか無かった。現実から、世界から目を背け、己の時間を止めるしか無かった。


 そうして、自ら遮断して真っ暗になった世界に、


『——大丈夫か?』


 不意に、光が弾けたのだ。 




「──……」




 先ず初めに、ザワザワと空気が蠢いているのを感じた。


 沢山の、声。それから、足音。


 普段ならばお目に掛かれないような、沢山の音の合唱。それらが空気そのものを震わせて、全体でゆったりと動く一つの音になっている。森のざわめきや川のせせらぎの音とは全然違う、エレンにとっては見知らぬ音だ。


「……?」


 頭の中がふわふわしている。けれど身体はそれに相反するように、石のように重い。


 こちらは覚えのある感覚だった。忘れもしない、あれは初めて姉と組手を行った時。精一杯の緊張と警戒を以て構えていたエレンを姉が一発で殴り倒した後、目を覚ました後が確かこんな感覚だった。


『ごめん、ごめんな……――!』


 けれど”印象の残り具合”で言えば、あの時の姉の様子に勝るモノは無いだろう。


『姉ちゃん、加減が分からなくて……――!』


 涙なんか流していなかったのに、ベソベソと泣きじゃくっているように見えたのは何故だろうか。大きな猪ですら素手で仕留めてしまう程強い姉なのに、あの時だけは小さな女の子のように見えたのは何故だろうか。


 泣き止んで欲しくて、とにかく安心して欲しくて、とにかく”大丈夫だ”と繰り返した。


「……だいじょうぶ……」


「ん?」


 声が返ってきた。


 けれどそれは聞き慣れた姉の声ではなく、低く唸るような男の声だった。


「目ぇ覚ましたか?」


「――」


 咄嗟に返事を返せなかったのは、状況の把握が出来なかったからだ。


 聞き慣れない雑踏。嗅ぎ慣れない臭い。慣れ親しみの無い男の声。何一つエレンの日常には馴染みが無くて、思考が完全に止まってしまったのである。


「変に騒いだりするなよ。正直、これ以上の面倒は御免被りたいんだよ、俺は」


「……?」


 まだボンヤリしている。声は聞き取れるけれど、その内容を聞き取る事は出来ない。


 そうやって上手く反応出来ないでいるエレンの視界の隅に、白と黒の”魚”が映ったのは直後の事だった。二匹の”魚”が身を寄せ合って、綺麗な円を形作っている。それは見る者が見れば、陰陽太極図を描いた和傘であると直ぐに分かったのだろうが、これまで人間やその文化に触れて来なかったエレンには、知る由も無かった。


「あ。その子、おきた?」


「ああ」


 二匹の魚の円――和傘の縁がひょいと持ち上がる。金とあかの眠たげな双眸、あかと銀の真ん丸な双眸が、エレンを見る。金と銀はともかく、あかは姉のものと同じだ。ボンヤリしていた意識が刺激され、停滞気味だった思考がゆっくりと回り始める。


 姉。人間。追手。夜の森。


 咆哮。振動。黒コート。太った男。


「……ッ!」


 意識が覚醒したのは、その直後の事だった。


 同時に自身が置かれた状況や、気を失う直前の記憶が思い起こされ、思考の回転が一気に早まる。


 目の前で、束ねられて馬の尻尾のようになっている黒い髪がユラユラと揺れている。ゴツゴツと固い肩に、エレンにとっては未経験な広い背中。顔こそ見えないが、声や気配には覚えがある。道を尋ねるフリをしてエレンに近付いてきた――少なくとも、あの時のエレンはそう思った――黒いコートの”火色目”だ。その彼の背中に背負われて、エレンは何処かに運ばれているらしい。


 けれど、それより何よりもエレンの心の奥底を引っ搔いたのが、”この場の環境”だった。


 忍ばせるつもりが無い様子の足音。隣を歩く者と話し合い、笑い合い、時にはいがみ合う様々な声。纏まりが無く、雑然とした音の集合体。それらを奏でるのは、エレンが恐れるニンゲンだ。エレンが憎むニンゲンだ。


 ニンゲン、ニンゲン、ニンゲン、ニンゲン。 


 見渡す限りのニンゲンだ。とにかく数が多い事を指して”山のように”とか”山のような”といった表現を姉が使う事があるが、どちらかと言えばこれは河のようだとエレンは思う。エレンの両脇、しかも肌と肌が触れ合うような至近距離。見た事も無いような衣服を身に纏い、嗅いだ事の無い匂いを撒き散らして、ニンゲンは”火色目”と擦れ違ったり、目の前を横切ったり、追い越したり追い越されたりしている。エレンにとっては彼等は恐怖の対象で、そんな彼等が行き交う大通りの中をエレンは”火色目”と共に流れて行っている状況だ。当然、恐怖はあるし、普段であれば恐慌状態に陥っていたかもしれない。が、彼等は一人としてエレンに関心を向けなかったし、何よりエレンにとって、この光景は完全に情報過多キャパオーバーだった。つまり、一周回って落ち着き払ってしまったのである。


 パニックにならなければ、思考も問題無く回る。優先して考えるべきものを見失う事無く、エレンの思考は滞り無く巡る。


 姉は無事なのか。此処は何処だ。さっきの太った男はどうなって、今エレンを背負っているこの男や、その真横を歩いている二人の女の子は何者なのか。


「……ぅぁ……ッ!?」


 意識が覚醒するのと同時に、痛覚も機能し始めた。蹴られた腹が、身体が、ズキズキと痛い。


 どういう訳か、エレンを背負っている”火色目”は、エレンのそんな状態に気が付いたらしい。歯を食い縛ったエレンに言い聞かせるように、さっきよりも柔らかい声音で言葉を紡ぐ。


「あんまりムリすんな。内臓にダメージがいってるかもしれん。暫くは安静にしといた方がいい」


「……」


 この男は何者なんだろう。


 痛みに耐えているのを外に漏らさないよう、歯を喰い縛って耐えながら、エレンは考えを巡らせる。


 あの太った男の仲間、ではないような気がする。気を失った所為で最後まで見届ける事は出来なかったが、気を失う直前、太った男と火色目は敵対していたように見えた。


 実際、周囲を見回してもあの太った男は見当たらないし、も見当たらない。何よりコイツは、エレンに対しての雰囲気があの太った男やその仲間達とは違う。鼻に皺を寄せる事も無ければ、襲い掛かって来る事も無い。確かに黒いコートを纏っているが、同じ所と言えばそれだけだ。


 とは言え、この男に信頼を置く事だって出来ないのだ。所詮コイツもニンゲンだ。野蛮で残虐で最低である事には変わりない。今だって、エレンは何処に連れて行かれているのか分からないのだ。熊と狼は別々の生き物で、仲も悪いが、どちらも此方を獲物として見てくるのには変わりがないのである。


「……お前、だれだ……?」


「ん?」


「ニンゲンのくせに、私を殺そうとしない。あいつ等の仲間じゃないみたいだけど、だったら何が目的だ?」


「……」


 舐められないよう、姉の口調を意識して問いかけたつもりだったが、火色目はちっとも堪えなかったらしい。恐怖に身を跳ねさせる事も無いし、歩く速度を落とす事も無い。


「お前、名前は?」


「……」


 そもそも、此方の質問に答える気すら無いようだった。自分に姉のような威圧感があれば良かったのに、と内心で臍を噛みながら、エレンは彼に対抗するように口を噤む。そも、信頼の置けるモノ以外とは口を利いてはいけない。ましてや名前を教えるなんて以ての他である。姉の教えだ。


 けれど、どうやら"火色目"は、エレンが黙り込んだ理由を勘違いしたらしい。少し時間を置いた後、彼はふと思い出したように言葉を続ける。


「俺はシンだ。そっちの小さいのは白い方がヒナギク。黒い方がホタルだ」


「……ん」


「こんにちはっ」 


 ……。


 いや、別にお前等の名前が知りたかった訳じゃないんだけど。自分達から名前を教えたら、そのお礼としてエレンが名前を教えると思ったのだろうか。もしかしてこいつ等、エレンの事を馬鹿だと思っているんじゃないだろうか。


「……ニンゲンは嫌い」


 本当は、黙っているのが正しかったのだろう。そんな事は分かっていたし、実際エレンはそうするつもりだった。


 ニンゲンの巣窟のド真ん中で、ニンゲンと敵対するような発言をするのは危険だ。エレンだってそれくらいの事は分かっているし、状況がもう少しマシならそれを踏まえて口を閉ざすくらいの事はしただろう。


「オマエの事だって」


 けれど、何よりキライなモノをキライとはっきり言ってやるのには抗えない奇妙な爽快感があったのだ。自棄糞に近い心境だったのかもしれない。


 そもそもニンゲンが襲って来なければ、エレンはこんな男に助けられる必要なんて無かった。そもそもニンゲンが襲って来なければ、エレンは今日も何事も無く、いつも通りに一日を過ごせていた筈だった。


 オマエ逹さえ来なければ。


 オマエ逹さえ居なければ。


 エレンは怪我をする事も、そもそも姉や家族と引き離れるような事も無かったのだ。


「――ニンゲンなんて、大っ嫌いだ……!」


 多分その瞬間、周囲を歩くニンゲン達の目が一斉に此方を見たと思う。言葉自体を聞き咎めたのか、それとも言葉に込められた感情に反応したのかは分からないが、とにかく自分に複数の視線が突き刺さるのをエレンは感じた。


 嗚呼、殺されるのかな。


 歩くたびに尻尾のように揺れる火色目の黒髪。視線を其処に固定し、唇をキツく噛み締めながら、そんな事を考える。


 胸の内から衝き上げるように湧いてきた感情が抜けてしまえば、残った冷静な思考と恐怖が途端に強くなっていく。周りを見る事が出来ず、自身を守るように小さく丸まりながら、最期に考えるのはやっぱり姉の事だった。


 早々に諦めて生き残る努力を放棄した事を、姉は怒るだろうか。きっと怒るだろう。


 でも、出来るなら叱り来るのは勘弁して欲しい。わざわざに叱りに来たりしないで、で長く過ごして欲しい。エレンはもうダメだろうけど、姉は強くて賢いのだ。一人ならきっと出来る事も増えるだろうし、出来ない事も少なくなる。生き残るのが楽になる筈だ――


「ま、そんなに警戒すんな」


 完全に終わるつもりだったエレンの意識に、”火色目”の声が割り込んで来たのは直後の事だった。


「普通は、お前みたいなのは誰にも相手にされたりしない。”人間が嫌い”ってスタンスなんざ若ぇ奴らの専売特許みたいなモンだし、お前はだしな」


「……何の話?」


「枯尾花も幽霊と思われなければ、誰もビビらないって話だ」


「……??」


 意味が分からない。


 思わず考え込んでしまったエレンの袖を何かが掠め、エレンは慌てて其方に視線を向ける。どうやら歩いていたニンゲンの内の一人と擦れ違ったらしい。特に攻撃された訳ではないと分かってホッとして、そしてエレンはその場のニンゲンが誰も自分に興味を持っていない事に気が付いた。


「取り敢えず、俺達はお前をどうこうするつもりなんざ無いさ。大体、その気なら、お前が気絶している内にそうしてる」


「……だから信じろって?」


「好きにすればいい」


 火色目の声音は、まるで面倒臭いモノを投げ捨てるような感じだった。こっちは敵地のド真ん中に放り出される事まで覚悟していたのに、それをマトモに相手にされていない気がして、何だか物凄く腹が立つ。


 けれど相手はそんな此方の心境なんか知った事ではないとばかりに、さっさと話を続けるのだった。


「だがまぁ、こいつ等には感謝するこった。こいつ等がお前から同族の匂いを感じ取らなきゃ、俺がお前を助ける事なんざ無かったんだからな」


「……煩い。別に頼んでな──」


 言いながら、視線を彼女達に向けたのは自然な反応だったと思う。そして、そんなエレンの視線に、彼女達も気が付いたのだろう


 白黒の傘の縁が持ち上がり、二人の顔が露になる。吃驚する程整った顔立ちに、今まで見た事も無いような金と紅、或いは紅と銀の不思議な双眸。


その目を真正面からバッチリ見てしまうのと、火色目の言葉の中で気になる単語を見付けたのは、殆ど同時の事だった。


「……“どうぞく”?」


「おう」


 金髪白服。眠たげな半眼が特徴的な無表情で此方を見上げてくる大人しそうな少女。


 銀髪黒服。戸惑ったようにオロオロと、エレンと火色目を見比べている活発そうな少女。


 目を見て、分かった。根拠は無いけれど間違いないと、妙に確かな自信があった。もしかしたら、姉と同じ気配を二人の目の奥に感じ取ったのかもしれない。


「要するに、そういう事だ」


 ヒナギクと、ホタルだったか。


 彼女達は、吸血鬼だ。



○ ◎ ●

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