生意気な拾い者⑥
否。
飛び出そうとした。
「──見つけたぞ」
ドズン、と腹に衝撃が来た。
何が起こったのか分からないでいる内に、世界が物凄い勢いで離れて行く。そうかと思えば次の瞬間、背中に何かが物凄い勢いで叩き付けられ、その弾みで身体の中の空気が身体の中から出て行ってしまう。
「……ッ、は、っ……!?」
声が出ない。息が出来ない。
吹っ飛ばされ、叩き付けられた壁をズルズルと滑り落ち、汚い石の地面の上に俯せに倒れ込んだ辺りで、漸く殴られた腹の辺りがジワジワと燃え上がり始めた。
痛い。というか、苦しい。
立ち上がって直ぐに走り出すとか、それが出来なくともせめて顔だけでも上げて何が起こったのか確かめるとか、しなくちゃいけない事は頭の中にいっぱい浮かんで来るのに、身体がまるで言う事を聞かない。
痛い、痛い、痛い、痛い、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい──!
「はふっ、ぐ、ぎ……ッ」
「ふふん、どうよ?」
この声。
間違いない、確かに聞き覚えがある。
「この俺様が本気を出せば、ザッとこんなもんよ」
でも、どうして。
コイツは、コイツらは、姉が戦って引き付けてくれていた筈なのに──!
「とは言え、貴様も予想以上に手こずらせてくれたな。なるほど、見た目は子供でも流石は“真祖”といった所か……」
倒れたまま、顔だけを上げる。視線の先には、口の端を吊り上げてニタニタと嗤っている黒いコートの人影が一人。さっきの奴とはきっと別人なのだろう。コートの所為で分かりにくいが、さっきの奴より身体回りがかなり太いし、聞いた声もちょっと甲高い。
何より、そいつには見覚えがあった。
自分と姉に突然襲って来て、しつこく追い回して来たニンゲン達の内の一人だ。確か、“黒鎧”の傍にいつもぴったりくっついて、他のニンゲンに偉そうに指示を出していた奴だったと思う。
「うふ、うふふふ。いいね、流石は吸血鬼。この俺に相応しい、強敵」
見えない誰かに話し掛けているような大仰さで、ついでに独り言にしてはヤケに大きな声量で喋りながら、相手はゆっくり、ゆっくり近付いてくる。普段であればあんなノロマ、正面からすり抜けて逃げ切る事も簡単だろうが、如何せん今は身体に力が入らず、走るどころか歩く事もマトモに出来そうになかった。
「……ッッ!」
お姉ちゃん。今何処に居るの。どうして迎えに来てくれないの。
お姉ちゃんの代わりにコイツが居るって事は、嗚呼、嗚呼、まさか、そんな。
あの姉に限って、負けただなんて思えない。絶対無敵、世界最強の姉だ。あの人数が相手でも、正面から戦って彼女が負けるとは思えない。
何か、何かがあったのだ。卑怯な手を使われたのかもしれない。何かの罠に嵌められたのかもしれない。どうあれ、彼女は今此処には居らず、代わりにニンゲンがやって来た。ならばエレンはこんな所で捕まる訳にはいかない。姉がどうなったか真相を調べ、場合によっては姉を助けなくてはならない。
兎にも角にも、先ずは立ち上がらないと話にならなかった。
両腕に力を込めて上体を起こし、改めて相手と対峙するべく立ち上がろうとして──
「ふんっ!!」
「────ッ!?」
ドズン、という衝撃が、上から物凄い勢いで落ちて来た。体重を支え始めて両腕は呆気なく崩れ落ち、折角立ち上がろうとしていた身体は成す術も無く押し潰されてしまう。
「……ぁ……ッ!?」
もしかして、自分は踏み潰されているのだろうか。最低で最悪なニンゲンに、虫か何かのように踏んづけられているのだろうか。
必死に相手の足を退かそうとし、それでもまるでビクともしない力の差に憤慨しながら、エレンは唇を噛み締める。
「観念しろ。貴様はどう足掻いてもこの俺からは逃げられん。このパウロ様からはな」
まるで周囲に言い聞かせているかのような大声で、相手がそんな風に言うのが聞こえた。
グリグリと背骨が軋む程に圧迫され、意識が遠退きそうになる。息が出来ず、段々と目の前が暗くなってきているように思えるのは、きっと気の所為じゃないだろう。
「……ぅ、あ……!」
ダメだ。気を失っては。気を失ったら、それこそ何をされるか分からない。もしかしたらそのまま、二度と目覚めない可能性だって有り得る。
自身にそう言い聞かせ、必死に抵抗しようとする。にも関わらず、視界はどんどん暗くなっていく。感覚はどんどん鈍くなっていく。
「──貴様を捕まえたこの俺様の名は、パウロ。畏れを以てその心に刻め。俺様の名は──!」
上で、黒コートが何か言っている。何を言っているのかは、ちょっとよく分からない。
フワフワした意識で思考するのも、その辺が限界だった。視界がいよいよ真っ暗になり、指先が感覚が消え失せる。
ああダメだ。気絶する。半ば諦め、何処か他人事のように考えながら、一秒、二秒──
………………。
………。
……あれ?
「………………?」
おかしい。何時まで経っても気絶しない。というか、あれ? 何だか、踏み付けられている身体が凄く楽になったような……?
「……?」
恐る恐る、目を開けてみる。
先ず真っ先に目に入って来たのは、黒いコートの裾を履いた足だった。
「……立て込んでいる所、悪いが──」
この声。
これも何処かで、なんならついさっき聞いた事があるような気がして、エレンは反射的に視線を上に上げた。
“ソイツ”はさっきと同じように、何時の間にかエレンや太った黒コートの直ぐ近くに立っていた。気を失い掛けていた所為で気付かなかったのだろうか。でもそれなら、太ったニンゲンはどうして彼に気付かなかったのだろう。
「──ちょっと、やり過ぎじゃないか? 死んじまうぞ」
長い黒髪。今にも舌打ちしそうなくらいに不機嫌な表情。そして何より、薄闇の中では仄かに光っているように見える、凶悪そうな火色の双眸。
間違い無い。さっき道を尋ねるフリをしてエレンに近付いて来た黒コートの男である。仲間である太った男を助ける為に、遅れてこの場にやって来たのだろうか。
でも、それならどうして太った男を止めるような事を言うんだろう。彼が太った男の仲間なら、そんな事する必要なんて無い筈なのに。
「……何だ、貴様は?」
太った男が低く、抑えつけたような声で尋ねる。エレンの位置からその表情は見えなかったが、声から察するにきっと怒ったような顔をしていたのだろう。
尤も、不機嫌そうな顔付きなら火色の目の男の方も負けてはいなかったが。
「止めてやれよ。子供ってのは脆いんだぞ」
「黙れ! 事情も知らないクセに知ったような口を叩くな!!」
「……はぁ?」
辺り一帯に響き渡るかのような大声で怒鳴り付けられたのに対し、“火色目”は若干困惑したようだった。
それから何か問い掛けるような視線を此方に向けて来るが、残念ながらエレンには相手が何を思っているのかさっぱり分からない。
このニンゲンは、もしかして太った黒コートの仲間ではないのだろうか?
そんな事を考え始めた矢先、火色目は不意にエレンから視線を外し、改めて太った黒コートに向けて口を開いた。
「取り敢えず、その足を退けてやれよ。アンタの行動、端から見るとハッキリ言って異常に見えるぞ──」
「やかましい!」
ガチリ、と硬質な金属の音が聞こえた。何が起こったのかエレンの位置からは良く見えなかったが、火色目はピタリと言葉を止める。
「何も知らないくせに、正しいような事を言って悦に浸るな!! 鬱陶しいんだよ、見掛けに騙されて真実も見抜けない愚物めが!!」
「……」
あの音の正体は、何となくだが知っている。長かったり大人の掌に丁度良いくらいのだったり、大きさは様々だが、先端に空いた穴から煙や轟音と共に小さな鉄の蟲が勢い良く飛んで来て、此方の身体を貫くのだ。ニンゲンが好んで良く使うこの武器を、姉は銃と呼んでいた。エレンの目にも捉えきれない速度で次から次へと飛んで来る鉄の蟲は、認めなくないが強力な武器だと思う。
「……ま、俺様は弱い者虐めはしない主義だ」
どうやら火色目は、同じニンゲンの仲間である太った男から、銃を向けられているらしかった。
強力な武器を突き付けているから、ちょっと余裕が出たのだろうか。太った男の声には、何処かせせら笑うような響きが滲んでいるように思えた。
「さっさと失せろ。此処から先は、限られた者しか入れない暗黒の世界だ。優しい光の世界に居られるなら、それに越した事は無いのだよ」
最後の方は、何だかちょっと変な感じだった。優しげというか、寂しげというか。本当は全くそんな事思ってないのに、わざとそんな感じを出そうとしたような、変な声。火色目もエレンと同じ事を思ったらしく、只でさえ悪い目付きを更に細く鋭くし、「コイツは一体何を言ってるんだ?」みたいな顔を見せていた。
そしてどうやら、太った男はそんな火色目の態度が気に入らなかったらしい。あからさまに不機嫌な様子になって、捲し立てるように次の言葉を重ね始めた。
「いいから早く行け。貴様には出来る事なんて無いんだよ。これ見よがしに倭刀なんて持ち歩いて、何のつもりだ? どうせ模造品だろう?」
何だか、あからさまに火色目の事を馬鹿にし始めた。エレンの身体を踏みつける足はもう全然重くなくなっていて、その気になれば抜け出す事も難しくないように思える。
でも、実際には出来なかった。少し離れた所に立つ、火色目の気配。何だかそれが物凄く重く、大きく感じてしまって、動く事が出来なかったのだ。
「ハッ、確かに倭刀は格好良いな? 持ち歩くだけじゃなくて振り回してみるか? ははっ、剣が銃に勝てる訳が無いだ」
チン、と金属が鳴り響く涼やかな音がしたのはその時だった。
余りに唐突な音だったので、エレンも何が起こったのか良く分からなかった。
「……良く分からんが、お前が俺に向けて話す気が無いのは良く分かった」
何かが、エレンの頭上から落ちて来る。それは斜めに斬り落とされたような断面を持つ小さな鉄の塊で、先端には黒々とした小さな穴が空いていた。
ひょっとしてコレ、太った男が持っていた銃とやらの一部じゃないだろうか?
銃というものを間近で見た事が無いので、エレンにはハッキリと断定出来ない。その内に、事態は更に進行しようとしているみたいだった。
「あ……?」
どす、とくぐもったような音を聞いたような気がした。間の抜けた太った男の声がしたかと思えば、次の瞬間、背中が一気に軽くなる。
「確かに
驚く程近くで聞こえた、火色目の声。吃驚して反射的に視線を巡らせると、一体いつの間に其処に移動していたのか、エレンの直ぐ目の前に火色目のゴツくて重そうなブーツがあった。
「――まぁ言っても仕方無いか。取り敢えず寝てろ」
ドサリと、誰かが倒れる音。恐らくは太った男だろう。背中の上の、太った男の靴底の気配が、完全に消えていたから。
けれど、だからと言って自由になった訳ではない。何しろ、もう一人のニンゲン──太った男をやっつけた火色目が、エレンの目の前に立っているのだから。この場を無事に切り抜ける為には、コイツをどうにかしないといけない。
「……大丈夫か?」
頭上から火色目の声は、何処か怒ってるようにも聞こえた。目の前にある相手の足は何故か物凄く重そうで、多分いきなり襲い掛かって組み付いたとしても引き倒すのは容易ではないだろう。
でも、やらない訳にはいかない。自分はまだ、こんな所でニンゲンに捕まる訳にはいかないのだから。
「……おねえ、ちゃ……」
「……」
姉の無事を確かめなくては。場合によっては、助けなくては。姉は「どうして戻ってきた」とか言って怒りそうな気もするが、こればかりはエレンだって譲れない。
「──お……ほんと……、大……夫か?」
何処か遠くの方から、火色目の声が聞こえてくる。
いや、火色目の声だけじゃない。ありとあらゆる音が、遠くの方から聞こえてくるような感じがする。音だけじゃなくて、指先の感覚が何だかとてもフワフワしているし、意識も何だかボーッとしている。まるで、寝てしまう直前の感覚だ。
でも、寝てる場合なんかじゃない。疲れたなんて言ってられない。
早くあの場所に戻らなくては。早く姉を迎えに行かなくては。
(行……かな……きゃ……)
そう思ったのを、最後に。
けれどエレンの意識は、真っ暗な闇の中に真っ逆さまに落ちていった。
○ ◎ ●
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