生意気な拾い者⑤

○ ◎ ●



 第一印象は、物凄く“臭い”というものだった。


 地面には土や草が殆ど無く、異様な程に綺麗に切り取られた石が敷き詰められている。若しくは、一度液状化した意思をそのまま固めたような汚い”灰色”が――もしも彼女に知識があれば、それはコンクリートであると分かっただろう――そのまま地面になっている。日の当たらない隅っこの方には得体の知れないゴミが固まっている場所が幾つかあって、それが悪臭の一因となっているようである。


 土や草だけでなく、木も殆ど生えていない。代わりに木や地面で固まっている”灰色コンクリート”で出来た、見た事も無いような造りの建物が所狭しと密集している。頭上には、見た事も無い“鉄の箱”――もしも彼女に知識があれば、それは人を乗せて走る乗り物、”エア・ビークル”であると分かっただろう――が青い粒のような光を撒き散らしながらと浮いていて、滑るように何処かへと流れて行くのが見えた。


「……」


 此処は、何処だろう。


 初めて見る人間の街に圧倒され、半ば麻痺したようになっている思考の中で、エレンはボンヤリとそんな事を考える。一体どれくらいの間、逃げ続けていたのだろう。走って、走って、走って、走って、無我夢中で走り続けて、気が付けばこの場所に辿り着いていた。


 木々の緑の息遣いに欠け、代わりに臭くてドロリと濁った空気が渦巻いている、摩訶不思議な場所に。


「………………おぇ」


 姉と二人で森の奥深くで隠れ住んでいたエレンにとっては、もはや時代遅れになりつつある鉄とアスコンの”外層区ダスティ・エリア”の街並みですら、異次元の光景だった。もしも彼女がデルダンを横切る巨大な運河を渡って中洲に行けば、白銀の次世代合金スマート・マテリアルで構成された流線型の高層ビルが並んだ景色に目を回していたかもしれないし、更にその中心、フレイガルドを統べる王族達が住まう黒晶宮ブラック・パレスまで至れば、遂には現実を疑い始めていたかもしれない。ニンゲンを知らない彼女にとっては、ニンゲンの街は想像も付かないものをたくさん秘めた未知の場所だった。


 だがそれよりも何よりも、此処にはニンゲンがいっぱいだった。”外層区ダスティ・エリア”はデルダンの中でも人口が最も多く、雑然とした区画だから当然である。建物と建物の隙間を縫うように伸びている大小様々な通り道には、吃驚するくらいに沢山のニンゲン、ニンゲン、ニンゲン、ニンゲン──。


 無我夢中の状態から我に返ったのはこの光景に度肝を抜かれたからで、ついでに言えばその中に飛び込んで行くのが物凄く躊躇われたからだった。


 こんなニンゲンだらけの真っ只中に飛び出して行くなんて、ムリ。絶対にムリだ。キョウボーでヒレツ、ザンギャクでゴクアクヒドーなニンゲン達の中に飛び込んでいくくらいなら、狼の群れの中に飛び込んで行った方がまだマシというものだ。


「あれ、お嬢ちゃん。そんな所で何してるの?」


「────!?」


 目の前を通ったニンゲンの女が、此方に気付いて足を止めた。


 拙い! 見つかった!


 反射的に踵を返し、来た道を全力で駆け戻り始める。あんなにぷくぷく太った身体付きで、此方よりも速く走れるとは思えないが、だからと言って油断は出来ない。大体何だ”オジョウチャン”って。私には『エレン』というれっきとした名前があるのに。


「捕まって堪るか……!!」


 暗くて狭い建物と建物の間を抜けて、さっきまで見ていた通りより狭くて小さな道に入る。さっきまで見ていた道は太陽の光で明るかったけれど、こっちは影になっていて暗い。明るいのは眩しいから好きじゃないし、何よりこの道にはニンゲンの姿を殆ど見掛けなかった。逃げるにはもってこいの道である。


「捕まって堪るもんか……!」


 体力には、結構自信がある方だ。


 息が上がって立ち止まった時には、元々居た場所から随分と遠く離れた場所に居たと思う。


「……どうだ……!」


 勝ち誇って振り返ってみたその先には、当然ながら誰の姿も見当たらなかった。


 さっきのぷくぷく太ったニンゲンの女は勿論、エレンの事を殺そうと追い掛けて来る奴は一人も。


 いや、そもそも生き物の気配が殆ど見受けられない場所だった。


 振り返ったその先どころか、前に向き直ってみても、左右から道を挟んでいるボロボロの建物の方を見ても、生き物の姿なんて見当たらない。僅かな高低差を埋める程度の二、三段しかない階段の一番上。建物によって狭く切り取られた空は、残念ながら余り綺麗に見えない。この辺りの建物は鉄ではなく木で作られているものが多いみたいだが、みんなどことなくボロっちいように見えるのはエレンの気の所為だろうか。


「………………」


 逃げ切った、という高揚感。それが続いたのはほんの僅かな間だけだ。少し経った後には、そもそもそんなものがあったかどうかすらも、何だかちょっと分からなくなってきた。


 見知らぬ街。


 見知らぬ場所。


 煤けている上に切り取られている空はエレンの知っているそれとはまるで別物だし、何となく煙の匂いが混じったような空気はエレンの事なんか知らないとばかりにずっと素知らぬ顔をしている。


 やっぱり、ニンゲンの街なんてロクな場所じゃないのだ。臭くて、汚くて、重苦しい。


 そんな場所に自分がたった一人。傍に姉は居らず、代わりにニンゲン達があっちにもこっちにもウジャウジャしている。言ってしまえば、此処は蟻の巣だ。エレンは蟻の巣に飛び込んでしまった小さな虫みたいなものだろう。


「…………」


 きゅっ、と胸の奥が音を立てて沈んだような感じがした。


 心の奥底に封じていた気持ちが溢れ出しそうになって、慌てて唇をギュッと噛み締め、目からちょっとだけ漏れ出たそれを握った拳でゴシゴシと拭う。


 寂しくなんかない。心細くなんてない。帰りたいとは思っているけれど、泣きそうになんかはなってはいない。


 だって、姉はいつも言っているのだ。どんなに苦しくても、辛くても、絶対に泣いたりしてはいけないって。


 泣いたら弱くなる。そして、弱かったらこの世界で生きていけない。ぶっきらぼうだけれど優しい姉の、唯一と言っていい教えだ。だからエレンはその教えに背いた事は無いし、これからも破るつもりはない。


「……はー……」


 でも、ちょっとだけ疲れてしまったのかもしれない。考えてみれば、もうずっと長い事逃げ続けたような気がする。低い階段の一番上にそっと腰を下ろして、少しだけ休む事にした。


「……お姉ちゃん、大丈夫かなぁ……」


 どうやらこのニンゲンの巣は、とてつもなく大きなモノであるらしい。


 遠くの方、河を渡った大きな島の上には、この辺りのものとは全然違う街並みが見えていた。この辺りとは違って新しくできたばかりなのか、ギラギラ光っているのが目に痛い。真っ白で尖がった建物は珍しくてついつい眺めてしまったが、少し考えてみるとちょっと変だ。あんなに大きい家、一体どれだけ沢山のニンゲンが住んでいるのだろう。


「………………」


 沢山のニンゲン。


 想像しただけで、ぶるっとしてしまう。


 ニンゲンは怖い。ニンゲンは穢らわしい。ついこの間まではエレンは姉からそう聞かされていただけで、実際にそれを見た事は無かった。


 今は違う。最近になって、遂にエレンはニンゲンというものを目撃してしまった。怖くて醜くて穢らわしいと言ってのけた姉の言葉も、今ではちゃんと納得して理解している。


 奴らは、似たような黒い衣服を身に纏っていた。


 長いロングコートにフードを被り、手には大声で吼える長い棒——姉は“銃”と呼んでいた――を持っていた。エレン達は何もしていないのに、とんでもなく悪い奴を見るような目をして、口々によく分からない叫び声を上げながら何の躊躇いも無く襲い掛かって来たのだ。


 “アクマ”。“セイギノサバキ”。


 良く分からない。悪魔というのは確か悪い魔物の事で、それなら悪魔と呼ばれるのはあっちの方だろうに。


「………………」


 先に行け。俺も後から追い掛けるから。


 そんな姉の言葉を聞いてから、まだ一日も経っていない。あの姉があんな奴らに負ける訳無いから心配なんて全然していないけれど、それにしたって目印くらいは残しておいた方が良かったのかもしれない。


 姉は今頃、何処で何をしているのだろう。まだあの暗い森の中で、あのニンゲン達と戦っているのだろうか。それともエレンがどっちに逃げたのか見つけられないで、良く分からない所をウロウロしているのだろうか。


 月はとっくの昔にしずんでいて、太陽が顔を出してからも随分と時間が経っている。一日経ってないとは言え、姉とこんなに長い間離れていたのは初めての事だったから、エレンもどうすればいいのか良く分からない。


「お腹空いたな……」


 膝の上に肘を乗せて両腕を倒し、其処に額を預けるように蹲りながら、大きく溜め息を一つ。


 よくよく考えてみれば、昨日の夜から何も食べていない。勿論一晩くらい何も食べなくたって我慢出来るけれど、それでも空いてるものは空いてるんだから仕方が無い。お腹が空き過ぎると動けなくなるのは知っているし、そろそろ何か見つけて食べた方がいいかもしれない。


「……あれ?」


 でも。


 こんな臭くてゴツゴツしていてギラギラ光っている場所に、食べ物なんてあるんだろうか。草が無いから食べられる野草が見つかる筈も無いし、木が生えていないから木の実だって手に入らない。魚が居そうな小川だって流れていないし、仮に獣が居たとしてエレンはまだ狩りなんて出来ない。


 食べ物。


 食べ物?


 こんな所に居て、食べ物なんて手に入るのだろうか……?


「………………」


 そもそも此処はニンゲンの巣窟だ。ノンビリ座って休んでいる暇なんて、本当は無かったんじゃないだろうか。とにかく無我夢中でこんな場所にまでやって来てしまったが、本当は今すぐに此処から出る道を探さなくてはいけないのではないだろうか。


 もし今此処でニンゲンに襲われたとしても、姉は此処には居ないのだから。


「……!」


 ひゅう、と冷たい風が通り過ぎていった。


 疲れているのももう気にしてられずに、慌てて顔を上げ、辺りを見回す。


「!?」


 途端に、心臓が止まりそうになった。


 一体何時から其処に居たのだろう。前にも見たような黒いコートを着たニンゲンが、目の前に立ってエレンをからだ。


「……何してんだ、お前?」


 うなじの辺りで束ねている長い黒髪。黒いコートに黒い服は、エレンと姉を襲ってきた連中と同じものに違いない。


 片方の手にある小さな紙切れは良く分からないが、もう片方の手の中にある長い棒は、あれは恐らく”剣”だろう。物凄く長くて緩やかに湾曲している見慣れない形だが、似たようなものを絵本で見た事があるから間違いない。隙を見て、エレンに斬り掛かってくるつもりだろうか。


「まぁ、いいか。お前、ここら辺に住んでるのか?」


 何より、相手の目だ。仄かに光っているようにも見えるの目。それは、相手がニンゲンの中でも特に狂暴で凶悪な奴であるのを物語っている。


「もしそうならこの建物が何処にあるのか教えて欲しい。“昼寝する河馬ナッピング・ヒポ”とかいうらしいんだが」


 こっちが警戒しているのを知ってか知らずか、相手はそう言って、何か変なものが書かれた紙を差し出して来た。


 何か聞きたい事があるフリをしているようだったが、残念、エレンだって馬鹿じゃない。これは間違いなく、エレンを油断させる為の作戦だろう。下手くそな演技でエレンの油断を誘おうとしているみたいだが、お生憎様。そんな見え見えの作戦なんかに引っ掛かるものか。


「…………」


「分からないか? それなら別にいいんだが」


 油断無く相手の動きを注視しつつ、エレンはゆっくりと立ち上がった。相手は「何でコイツこんな顔してんだ?」みたいな顔をしていたが、それもどうせフリなのだ。気にする必要なんて全く無い。


「……引っ掛かるかバーカ!」


 目の前に差し出されていた紙を、真横から思い切り引っ叩いてやった。そのままクルリと素早く反転し、直ぐ近くにあった建物と建物の隙間──狭過ぎて子供にしか通れないような隙間だ──に転がるように飛び込み、一気に相手を引き離しに掛かる。


「あ、おい!?」


 ふふん。


 どうだ、参ったか。


 背後から追い掛けてくる間抜けな声に若干気を良くしながら、エレンは狭い道を壁に貼り付くような格好でヒョコヒョコと進んでいく。幾らもしない内に抜け出して、さっきと余り変わらないような風景の道を、何処へともなく駆け出した。


(危なかった……! 危なかった……!!)


 相手が馬鹿だったから助かったものの、目の前にまで近付かれたのに気付けなかったなんて。


 もしも、あの時顔を上げなかったら。もしも、あのまま襲われていたら。


 改めて考えると、ゾッとした。今になって心臓がバクバクと暴れ始め、背筋がすうっと冷たくなる。胸が締め上げられるように息苦しくなって、堪らなくなって、気が付けば口から声が漏れ出していた。


「お姉ちゃん……ッ!」


 姉は今どこで何をしているんだろう。どうしてエレンを迎えに来てくれないんだろう。


 後から追い付くと言っていたのに。あれから随分と経っているのに。


 姉は相変わらず姿を見せず、エレンは一人ぼっちで凶悪なニンゲンに追い掛けられている。


「……うぅ……ッ!」


 走る。走る。


 今日だけでどれくらい走っただろう。分からない。エレンはあとどれだけ走ればいいんだろう。分からない。


 小さな階段を飛び降りて、適当な角を右に曲がって、その次は左、右、左、左、右。


 自分が辿った道順なんてとっくに把握出来なくなっていた。自分が今何処に居るのかも分からないしまま、ただ走って、走って、走って、走って──




「──あ……ッ!?」



 突如として、目の前に大きな壁が立ち塞がった。危うくぶつかりそうになってしまい、慌てて踏ん張ってブレーキを掛ける。


「うわ、わ、わ……ッ!?」


 当たり前だが、そんないきなり止まろうとしても無理な話だ。意外と壁までの奥行きは結構あった為、ぶつかるような事にはならなかったが、代わりに勢いを抑えきれずにバランスを崩し、前のめりに転びそうになった。


 それでも何とかよろけるだけに抑え、改めて目の前に立ち塞がった壁を見上げる。絡み合った頑固な蔓や鬱蒼と茂みよりも遥かに手強そうな石造りの壁は、絶対に通してやるものかと言わんばかりに冷たくエレンを見下ろしていた。


(あっぶな……!?)


 清々しい程に分かり易い行き止まり。さっきの男が迫って来ている気配は無いが、此処でモタモタしていたら追い付かれるかもしれない。


「もう……!」


 考える間も無く踵を返す。角を曲がってちょっとだけ進んだ距離を引き返し、今まで走ってきた裏通りに改めて飛び出す。

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