01.「生意気な拾い者」

生意気な拾い者①

 夜空を覆い隠す木々の枝葉の隙間から、月の光が漏れていた。自分が“精霊の梯子”と呼んでいるその光のお陰で、奈落の淵のように真っ黒な地面の様子も、どうにかこうにか把握出来ている。


 とは言え、何度も転び掛けたし、二回くらいは本格的に転んでしまった。


 一緒に逃げてくれている姉が手を引いてくれなければ、自分はとっくに駄目になっていただろう。


「──拙いな」


 唐突だった。


 手を引いてくれていた姉がいきなり足を止め、普段なら絶対に言わないような事を呟いた。


 気の所為だろうか。絶対無敵の姉が、あんな声を出すなんて。どうしようも無い不安に駆られて反射的に聞き返そうとしたが、新鮮な酸素を求める身体はハァハァと荒い息を繰り返すばかりで、言葉なんかマトモに紡ぐ事も出来なかった。


「……! おい、大丈夫か? このくらいでへこたれてんじゃねぇよ。オレの妹だろ?」


「ぅ……」


 此方の様子に気付いた姉が、サッと自分の脇にしゃがみ込んで目線を会わせ、此方の顔を覗き込もうとして来る。


 大丈夫だと、自分はまだ走れるんだと言いたかったのに、姉に比べれば強くない身体は、全然言う事を聞いてくれない。結果的に、自分は目を合わせる事も出来なかった。


「……クソ、コイツももう限界か……!」


 吸い込む酸素は、噎せ返るような緑の匂いがしていた。普段から此処と似たような森の中を歩き回っている自分からすれば、こんなのは大した問題じゃない。


 が、今は気が昂っている所為だろうか。


 酸素は冷たく喉に絡み付いて来るし、緑の匂いは鼻や喉の奥をジワジワと刺激して酷い吐き気を誘ってくる。脇腹は引き攣ったように痛いし、心臓はその音が自分の身体の外に洩れてるんじゃないかと思えるくらいにバクバク、バクバクと鳴っている。


 こんなに走り回ったのは、一体何時以来だろう。


 霞み、纏まりが無くなりつつある思考で、ふとそんな事を考える。


 そもそも走る事はそんなに苦手な事でもない。上手に身を隠す“かくれんぼ”と同じくらい、敵から逃げ切る“鬼ごっこ”は、姉から徹底的に鍛えて貰っている。森の中を走り回るなんて事はそれこそ毎日やってるし、今夜走った距離だって、精々いつもと同じくらいだ。本当だったら、自分が今こんなにもへばっている事は、とてもおかしい事なのだ。


 でも実際、自分は今とてもへばっている。息は上手く出来ない。思考は全然回らない。喉の奥からは灼け付くような酸っぱい味が競り上がって来てるし、お尻の足の付け根の辺りは痺れて感覚が鈍くなっている。夜風に冷えた汗は吃驚する程冷たくて、身体が全体的に重かった。


「……!?」


 どうしてだろう。いつもと何が違うんだろう。


「危ねぇッ!!」


 いきなり血相を変えた姉に明後日の方向に突き飛ばされながら、ボンヤリとそんな事を考える。でも本当は、わざわざ考える必要なんて無い。何しろ、答えなんてとっくの昔に分かっているのだ。身体が痛い程に感じているのだ、と言い換えても良いだろう。


 確かに身体は重い。それは間違い無い。


 けれどそれ以前に、先ず空気が重いのだ。



「──WOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO……!!!!」



 夜の静寂が叩き割られる。


 自分を突き飛ばして来た姉の向こうで、何かが勢い良く跳び上がるのが見えた。闇の切れ端を身に纏ったその人影は、空中で身体を縦回転させながら、自分と同じくらいの大きさの巨大な“剣”を振りかぶっていた。恐らく、それを落下すると同時に姉の背中に向けて降り下ろすつもりなのだろう。


「! お姉ちゃん──!!」


「分かってる……ッ!!」


 必死で飛ばした警告に対し、姉は怒ってるような声で言いながら此方に向かって飛んで来る。飛んで来て、そのまま尻餅をついているような格好だった自分の上に覆い被さって来る。


 直後、影が着地した。大剣が物凄い勢いで地面に叩き付けられ、爆発するような音と共に地面が粉々になったのが一瞬見えた。飛び掛かってくるような形になった姉に強引に引き倒され、それ以降は何が何だか良く分からなくなったが、取り敢えず事態だけはしっかり呑み込めた。


 ニンゲンだ。


 ニンゲンが、もう追い付いて来たのだ──!


「クソッタレが……!」


 姉が自分の上に覆い被さっていたのはほんの一瞬だった。


 いつもの荒々しい言葉と共にサッと立ち上がり、大剣を降り下ろしてきた相手に向き直る。


 嗚呼、やる気だ。姉は、此処でアイツと決着を付ける気だ。


 だったら自分だって黙って見ている訳にはいかない。出来る事は少ないかもしれないが、姉が戦うと言うならそれを少しでも手伝わなくては。


 頭を振ってハッキリしない思考に喝を入れ、萎え掛けた手足に無理矢理力を入れて立ち上がる。


 そう、自分は姉の妹だ。さっきは上手く答える事が出来なかったけれど、自分は確かに姉の妹なのだ。馬鹿みたいに強くてカッコいい姉の妹で居る為には、自分だって強くてカッコ良くなければならないのだ。


 けれど──


「エレン」


 ふと、聞こえた姉の声。此方の方を振り向きもせず、まるで譫言か何かのように紡がれたその声は、まるで自分の知らない赤の他人のもののように聞こえた。


「先に行け。オレも後から追い掛けるから」


「ぇ……」


 声だけじゃない。言葉の内容そのものもだ。言われた事が信じられなくて、ついつい姉の背中を食い入るように見つめてしまう。


 途中で物事を諦めたり、何かに背中を向けて逃げると言う行為を物凄く嫌うのが自分の知ってる姉の姿だ。仮に自分がそんな事をしようものなら、ご飯抜きじゃ済まないような仕置きをされるくらいである。


 そんな彼女が、逃げろと自分に向かって言ってくる。何だか得体の知れない不安を感じて、気が付けば必死に叫んでいた。


「ヤだ!!」


 思えば、姉の言う事に自分が反抗したのはこれが初めてかもしれない。


 頭の隅でそんな呑気な事を考えながら、自分は更に言葉を重ねる。


「お姉ちゃんが戦うなら私も戦う!! 何処にも行かない!! 逃げたりしない──!!」


 必死だった。


 とにかく必死だった。


 姉は自分にとってとても恐ろしい存在だ。少なくとも、口答えなんて絶対有り得ない。


 初めてだったのだ。


 初めて自分は、姉に向かって自分の希望を言ったのだ。


 けれど姉は、そんな自分の精一杯の勇気を容赦無く一蹴した。


「ガタガタ抜かしてんじゃねぇ!!!!」


「!?」


 普段から姉への恐怖が染み付いている身体は、いつもより遥かに怖い彼女の怒声に悲しいほど萎縮してしまった。


「さっさと行け!! 今のお前じゃ足手纏いなんだよ!!」


「──!!」


 足手纏い。多分自分が、最も姉の口から聞かされたくない言葉だった。


 雷に打たれたような、衝撃。折角再び動き出そうとしていた思考は、完全に打ちのめされて真っ白になってしまっていた。


「……っ……!!」


 気が付けば踵を返し、昏い森の中を全力で走っている最中だった。


 足手纏いだと言われた今、自分に出来るのは素直に言う事を聞く事だけだ。どんなに行きたくなくても、逃げたくなくても、そう言われたんならそうするより仕方が無い。だってそうしないと、姉に嫌われてしまうから。


「──お、ねえ、ちゃ……!!」


 背後から凄まじい音が追い掛けて来る。地面を破壊する音に、此方の動きを縛り付けて来る敵の大声。姉の発する怒ったような叫び声に、木々が折れて倒れる音。


 どんどん、どんどん遠ざかっていく。敵の立てる音に比べれば余りに小さい姉の声は、もうとっくに聞こえない。


「お姉ちゃん……っ」


 どうして自分は、一人で逃げているのか。どうして自分は、姉から足手纏いだと宣告されたのか。


 そんなの決まっている。自分が弱いからだ。自分に力が無いからだ。


 自分が強ければ、自分にもっともっと力さえあれば、きっと、きっと、こんな事にはならなかった──!


「あぁ、あ……ッ!!」


 恨めしい。


 力の無い自分自身が。そして何より、襲って来たニンゲン共が。


「あぁああ、あ、あああ……!!」


 アイツらさえ。


 アイツらさえ居なければ。


 自分は姉から邪魔者扱いされずに済んだ。そもそも最初から、自分は一番目の家族を失わずに済んだのに。


 最初の家族をアイツらによって皆殺しにされた自分は、アイツらによって次の家族を失いそうになっている。


「──あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……ッ!!」


 ニンゲンへの呪詛を声にして叫びながら、夜の森の中をただただひたすらに駆け抜けていく。


 月は見えず、道も見えない。


 自身が目指すべき場所なんて、自分にはまるで分からなかった。



 ○ ◎ ●

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る