雨のバス停留所で

増田朋美

雨のバス停留所で

その日も、午前中こそ晴れていたのであるが、午後になると曇ってきて、やっぱりこれは降るかなあと思われる天気になった。まあこの時期、梅雨の季節と言われる時期でもあるので、ある意味ではこれで当然なのであるが、まあ、たしかに、土砂災害というものは困るなという季節でもあった。ある意味正常に季節が巡ってくれるのは嬉しいことでもあるのだが、、、最近は、それが、ちょっと度が過ぎている気がする。別に季節がどうのというばかりではない。人間には、ちょっと考えすぎではないかと思われる事は、いくらでもある。

杉ちゃんと、水穂さんは、製鉄所の近所にある布団屋さんに、布団の注文をしに行った。布団屋は、歩いていくにはちょっと遠いので、バスかタクシーでいく必要があった。そこで、行くときは、製鉄所の中で予約をしたタクシーに乗って布団屋へ向かった。その日は、雨が降っているとかで、タクシーの予約が非常に多く、なかなかお客さんの元へたどり着けないと運転手が言っていた。杉ちゃん一行は、帰りも乗せてくれるかいと頼んだが、今日は雨が降っているので、すぐにタクシーをよこせないかもしれないと運転手が言った。その時は、何も気にしないで、布団屋の前でおろしてもらったのだった。そして、布団屋に入って、目的の真綿布団の注文はちゃんとできて、さあ帰るかということになり、杉ちゃんたちは、帰りのタクシー会社へ電話したが、そのタクシー会社では、今から、そちらに行くとなると、30分近くかかってしまうので、行けないと断られてしまった。杉ちゃんたちが呼べるタクシー会社はワゴンタイプのタクシーを呼べる会社に限定されるので、使用できる会社が限られていた。それが杉ちゃんのせいというわけでは無いけれど、でも、もうちょっと、タクシーが増えてほしいと思う気がしてしまう。

別のタクシー会社に電話してみたが、このタクシー会社も同じ答えだった。なんでも、富士宮駅のほうで大雨が降っているようで、身延線が止まってしまっており、それでタクシーを頼む人が多すぎるという。杉ちゃんが、それでどうやって帰ればいいのかと言うと、タクシー会社の人は、布団屋から歩いて五分もかからないところに、鮫島東というバス停留所があるから、そこでバスに乗って帰ったらどうかと提案した。それは、一般的な人であれば、全く問題の無いことだった。問題ないことだったのだが。

杉ちゃんたちが、そのとおりに、バス停留所に向かって移動していくと、雨が降ってきた。多分、富士宮市で降っていた雨がこちらに南下してきたのか、それとも、広がったのかもしれない。大した雨では無いだろうと思っていたら、みるみるうちに大雨になり、車軸を流すような大雨になった。それでも、杉ちゃん一行は、バス停に向かって移動を続けた。五分くらいで行けると、タクシー会社の人は言っていたが、水穂さんと杉ちゃんの足では、かなりかかった。それに、雨の日には、湿気と言うものがあった。呼吸器を病んでいる人は、湿気に弱いという。水穂さんもそうだった。水穂さんは咳き込んで、座り込んでしまった。杉ちゃんが思わず、

「馬鹿、何をするんだ!」

と、急いで言ったのであるが、水穂さんは咳き込んで座ったままだった。

「おい!なんでそうなるの、頼むから立ってよ!」

杉ちゃんに言われて、水穂さんは咳き込みながらたった。杉ちゃんに頑張れ頑張れと尻を叩かれながらやっと、歩いてくれた。頑張れと言われながら、一生懸命歩いて、やっと鮫島東というバス停に来た。と言っても、バスは一時間に一本しか走っていないようで、しばらくバスを待っていなければならなかった。せめて、バス停に椅子でもあればよかったのであるが、それすらなかった。

「まあ頑張って、バスが来るのを待ってくれよ。雷が鳴ってないのが、救いかな。もうちょっとすれば、バスが来てくれるからな。」

杉ちゃんは明るく言うが、水穂さんは、また座り込んでしまうのだった。こればかりは、杉ちゃんも立てということはできず、

「もうすぐだから頑張りな!」

というだけしかできなかった。

すると、向こうから、一人の女性がやってきた。彼女は傘を持っていた。多分今日雨が降るからとか家族に言われて、それで持っていったのだろうと思われた。別に歩けない女性とか、そういう目に見える障害を持っている女性ではない。でも、彼女のカバンには、白い子猫のキーボルダーと一緒に、ヘルプカードが入れられていた。その中には、彼女が抱えている、精神疾患の名称と、感情のコントロールが上手くできないので、いざと言うときには介助が必要ということが書かれていた。

相変わらず、雨がザーッと降っていて、周りは雨の音で充満していた。だけど、彼女は、雨の中に、別の音が聞こえてきたのがわかった。声の主は男性であって、それにしてはキーが少し高い声である。それと同時に、

「おい、ここで座り込んでないで、頼むから立ってくれないかな!」

と、でかい声で言っているのも聞こえてきた。彼女は、バス停に向かって歩いていった。彼女もバスに乗って帰る必要があった。彼女にとって、バスは、大事な交通手段でもあった。彼女は、車の運転免許を撮ることを、家族から認められていなかった。まあ確かに、精神系の薬を飲んでいると、免許をとるのは無理と言われてしまうことはよくあることでもあった。

「もうちょっとでバスが来るよ。それとも、ブッチャーに頼んで迎えに来てもらう?」

と、杉ちゃんが言うと、水穂さんは、一度頷いた。杉ちゃんは、急いでブッチャーのスマートフォンに電話をかけ、今鮫島東のバス停にいるが迎えに来てもらえないかと頼んだが、ブッチャーは製鉄所でも不安定になっている人物がいるので出ていけないといった。確かにそうかも知れなかった。こんな大雨では土砂災害が起きるとか言って、泣いたり喚いたりする利用者もいるかも知れない。それなら出かけなければいいのにと思ったのであるが、杉ちゃんたちがきたときは、そんな雨なぞまるで降らないと予測できるほど、晴れていたのである。仕方なくバスが来るのを待つことにしたが、水穂さんは、疲れた顔をして座り込んだままだった。

彼女は、その風景をすべて見てしまった。いつもなら、他人なんて、冷たい人で、自分のような人間には、大したこともしてくれないと心を閉ざしていたが、このときは、なにかしてあげなければと思った。彼女は、仕方ないと言うか、必然的というか、よくわからなかったけれど、水穂さんの頭の上に自分の傘をかけた。

「あの。」

水穂さんがびしょ濡れのまま、その女性に言うと、彼女は、水穂さんの着物を見て、何を感じたのか不詳であるが、それでも、

「これ持っていってください。」

と言ったのであった。

「どちらのバスにご乗車されますか?」

「ああ、えーとねえ。僕らは、大渕の富士山エコトピア行にのりたいのだが?」

杉ちゃんが答えると彼女はすぐスマートフォンを出して、

「それなら、大丈夫です。あと、五分もしないうちに来てくれます。私が乗りたい富士急大渕団地行は、もう少し待ってからですが、そちらの富士山エコトピア行は、需要が多くて、本数も増えているんです。少なくとも、20分に一本は走っているはずですよ。富士急静岡バスのホームページを見ればわかります。」

と、インターネットの画面を見せてくれた。

「はあ、ありがとうね。助かったよ。しっかしお前さんは、馬鹿にバスに詳しいんだねえ。かなりバスを使いこなしているみたいだけど、僕達みたいに足が悪いとか、そういうわけでもなさそうじゃないか。なんで、そんなに詳しいのか、教えてもらえないかな?」

と、杉ちゃんが聞くと、やっと咳き込むのが止まってくれた水穂さんが、

「もういいじゃないですか。バスの時間を教えてくれただけでも。」

と言ってくれたので、はあそうかと言って、杉ちゃんはそれ以上聞かなかった。それと同時に、後方から、車のライトと思われる明かりが見えた。

「ほら、来ましたよ。あれですよ。あれであれば、エコトピアまで乗せていってくれます。良かったですね。この傘、差し上げますから、お気をつけてお乗りください。」

と、彼女が指さしてくれたところには、大型バスがやってきて、ちゃんと行き先には、「富士かぐやの湯行」と書いてあり、経由地には富士山エコトピアとちゃんと書いてくれてあった。女性は、大型バスの運転手に、

「この二人をエコトピアまで乗せてやってください。」

というのだった。運転手も彼女とは顔なじみになっているのか、

「はいわかったよ。カツ代ちゃん。」

と言う。ということで、この人は、カツ代という名前の女性であることがわかった。

「その傘は持っていっていいですから、お気をつけて帰ってくださいね。」

「ああ、ああ、ありがとう。でもかわいい傘じゃないか。持っていってしまうのはちょっと。」

杉ちゃんがそう言うと、

「いえ、大丈夫ですよ。お気をつけてお帰りください。」

と、彼女は明るく言った。杉ちゃんたちは、運転手に促されてバスに乗った。今度はカツ代さんと言われた女性が、ずぶ濡れになってしまったが、バスは、定刻時間になって、発車していった。水穂さんと杉ちゃんは、バスに設置されている車椅子スペースに座らせてもらって、

「変な人だなあ。わざわざ傘をくれるなんてさ。」

「親切な人にしては度が過ぎていますね。」

なんていい合っていた。バスの中に乗客は、一人か二人くらいしかいなかった。タクシーは、稼働しきれないほど人気なのに、バスはなんでこんなに、人がいないんだろうというくらい人がいなかった。

「まあどう見てもあれは訳ありだな。なにか特殊な事情がある人だろう。そうでもしなきゃ、あんな親切にしてくれるはず無いよ。なんか、お礼をしなきゃいかんな。」

と、杉ちゃんが言った。

「それに、この傘はどう見ても女ものだし、もらってもしょうがないというところはあるな。」

確かに、その傘は、明らかに女性用の傘だった。色は朱で、大きな水玉模様が描かれている。こんなものを男性が持ったら、おかしいだろう。

「あれ、こんなところに文字が書いてあるよ。これなんて読む?」

読み書きができない杉ちゃんが、水穂さんに、急いで傘を渡した。それを読むと、丁寧な字で、名前と郵便番号、住所が描かれていた。しばらくバスは走って、富士山エコトピアとアナウンスが聞こえてきたとき、先程の車軸を流すような大雨はどこかへ行ってしまったようで、静かになっていた。杉ちゃんたちは、またバスをおろしてもらって、無事に富士山エコトピア近くにある、製鉄所にたどり着いた。

ただいまあと言って製鉄所に入ると、ブッチャーや他の利用者たちが待っていた。ブッチャーの話によると、静岡県では無いけれどどこかで土砂災害警戒情報が発表されたようで、そのニュースを聞いて、パニックになってしまったものが出たらしい。確かに非常時にはテレビでは盛んにそのことを報道するが、こういう精神障害のある人にとっては、有害というか、何回も同じことを報道するというのは、恐怖を与えるだけに過ぎないことも知ってほしいなと思うのだった。

二人は、ビショビショになった着物を脱いで、別の着物に着替えた。着物はとても貴重なものとか、そういうことは関係ない。杉ちゃんや水穂さんのような人には日常着であり、こうなることはよくあることだと思ってまた着ればいいのである。着替えると、水穂さんはすぐに布団に入ってしばらく眠った。ブッチャーが、しかしタクシーもすごい待ったのではと聞いたので、杉ちゃんは、親切な人がバスの乗り方を教えてくれたのだと説明した。まあ、ラッキーだったとしか言いようが無いのだった。

一方、あのときバス停に傘を水穂さんにあげた女性は、それから、20分くらい後でやってきた富士急大渕団地行のバスに乗って自宅マンションへ帰った。なんで、傘を忘れたの?と彼女と部屋を共有している友人は疑問に思っているようであったが、彼女、雨宮カツ代さんは、傘を単に、雨の降る前に買い物を終えてしまって、スーパーマーケットに忘れてしまったとだけしか言わなかった。友人も、それ以上聞かなかった。なので、また新しい傘を買えばいい、前の傘は、鉄道忘れ物市などに出してくれればいい、なんて、カツ代さんは言っていた。彼女も、びしょ濡れになった洋服を着替えて、いつもと同じ様に、やることのない日々を過ごした。どうせ、自分の日常なんてそんなものだ。ただ、食品は必要だから買ってくるけど、それ以外、何もない。仕事も社会参加も何もできない。一緒に住んでいる友人は、ただ家賃を滞納しないためにいるようなもので、深い付き合いは無い。何もない。つまらない毎日。でも、生きていなければならない。そんな日は、少々カツ代さんにとってはつらい日々もあった。偉い人は、自殺してはいけないと言うけれど、カツ代さんにとっては、生きているほど苦痛な日々はない。国のお金で面倒見てもらって、働かなくていいなんて、なんてずるい女だと、何度言われたことか。それなら、死んだほうがよほどいい。車にも乗れないし、洋服も店の残り物でやすいものしか買えない。食べ物は安いレトルト食品ばかりでつまらない。こんな人生、何になるのだろう?本当に生きていたって仕方ないと思う。生きているだけで丸儲けとか、生きているだけで価値があるとか、そういう言葉はまるで大嘘である。それはきっと、働けてお金を作れる人にしか言えないのだと思う。

その日は、雨が止んで、梅雨の中休みかと思われる、よく晴れた日だった。なんでこんなに、晴れているのか疑問に思われる日だった。カツ代は、いつもどおり、同居している友人と、くだらない世間話をしていると、突然、インターフォンがなるので、びっくりする。友人が、もしかしたら、あっ急便でも届いたのかと思って、急いで出てみると、一人の男性がそこに立っていた。顔は紙みたいに真っ白くて、げっそりと痩せた人物であったけど、すごくきれいな人でもあった。思わず、わあと言ってしまいそうになるほどその人は、すごくきれいな人だった。

「あの、雨宮カツ代さんという方は、ご在宅でしょうか?」

と、その人は言った。友人は、その人の着ているものが、今流行りの洋服ではなくて、銘仙の着物であることをみて余計に面食らった。

「ええ、いますけど?」

と、つっけんどんに言ってみる。

「あの、この傘、先日、雨宮カツ代さんから貸していただいたんです。」

と、彼は言って、朱い水玉模様の傘を見せた。確かに、カツ代さんが持っていた、傘そのものである。

「確かにカツ代のだけど、どうしてここがわかったんですか?」

「はい。傘に、名前と住所が書いてあったんで、調べていただきました。ご迷惑でしたら、申し訳ないんですが、やっぱり、借りたものはちゃんとお返ししなければならないと思ったんです。」

という彼に、友人は、はあ、、、と開いた口が塞がらなかった。カツ代がこんなきれいな男性と、知り合っていたとは、びっくりしてしまう以上に、びっくりしてしまった。な、な、な、なんでこんなに。

「これ、ほんのお礼ですけど、どうぞ持っていってください。」

そう言われて、もらった和菓子は、天からのパンに見えるほどであった。

「あの、ちょっとまってください。一体どこのどなたなのかだけでも教えてもらえませんか?」

友人がそう言うと、

「磯野水穂と申します。同じく、富士市内に居住しています。」

と、水穂さんはそう答えた。

「本当にありがとうございました。あのときはお礼も何もできなくてすみませんでした。カツ代さんにどうぞよろしくお伝えください。」

と一礼し、銘仙の着物で歩いていく水穂さんを友人ははあという顔で眺めていた。水穂さんの姿を見て、友人は傘を傘立てに戻し、

「カツ代ちゃん。あんたもすごいねえ。あんなきれいな男に傘を貸すなんてさ。あたし、びっくりしちゃった。」

と、カツ代さんをからかうように言った。

でも、カツ代さんは、その顔を見て、友人が自分のことを馬鹿にしているのかなと言うことを知った。褒めているのではなく、馬鹿にしているのだ。決して、自分がしたことは、社会的に良いことではないことが知られてしまったということを、カツ代さんは、友人の表情を見て知った。その理由は言わなくても良かったが、

「その人、ちゃんと傘を持ってきてくれたわよ。まあ、カツ代ちゃんにはお似合いかな。あの人、きれいな人だけど、立入禁止区域から来た人でしょ。着てるもの見てわかったわよ。」

と、友人が言った。カツ代さんは、

「そうね。確かにそうかも知れないわね。あたしのしたことは、間違いかもしれないけど、でも、悪いことではないと思うわよ。」

と、言って対抗した。友人は、カツ代ちゃんってやっぱり変わってる、みたいな顔をしたが、カツ代さんは自分のことを、悪人だと思わなかった。水穂さんにあのとき傘を貸したのは、悪いことでは無いと思う。世の中には、悪いことではないけれど、間違っていることがあるということは、よく知っていたが、それでも、良いことはしてあげたいと思う。

「でさ、あのきれいな人と、どうして知り合うことになったのよ。差し支えなければ教えてよ。あんなきれいな人、まるで映画俳優とか、そういう人みたいじゃないの。」

今どきの女性は、そっちの方に気持ちが向いてしまうようだが、カツ代さんは、それは言わないほうがいいような気がした。あの人は、立入禁止区域から来たからこそ、そっとしておいてやったほうがいいと思うのだ。それは、自分と一般の人が接しないほうが良いと言うのにどこかにている。円滑で幸せな生活ができる人は、それができない人と接しないで生活することが一番幸せになれる方法だと言うことは、意外に知られているようで知られていないことでもある。それは、昔から日本社会では根付いている、幸せの定義のようなものである。

「さあねえ。単に、雨のバス停留所で傘を貸しただけよ。」

カツ代さんはそれだけ言った。

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雨のバス停留所で 増田朋美 @masubuchi4996

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