プロローグ『とある魔術学生の日常』


――ずっと、頭から離れない記憶がある。



『ふふん、またあたしの勝ちだね』



 その中では自分はひどく傷だらけで倒れ込んで、誇らしげに胸を張る一人の少女を見上げている。彼女の体には傷一つなくて、自分が完敗しているのだということをひどく痛感させられた。



 だが、不思議とそこに不快感はない。あるのは『今日も届かなかった』という悔しさと、『やっぱりこの子は強い』という憧憬のみ。……自分にない圧倒的な強さに、憧れていた。



『だけど、ユウヤもどんどん強くなってるね。いろんな手を使うようになってるから、いつかあたしも勝てなくなっちゃうかも』



 だからこそ、少女がかけてくれる言葉が嬉しかった。自分は進んでいるのだと、ユウヤはそう自覚できた。



「……いつか、……いつかきみを、超えて見せるから」



 傷だらけの体で、しかしユウヤはしっかりと誓う。それは自分に向けての鼓舞であり、目の前の少女―—憧れの存在への宣言でもあった。それに少女はにっこりと笑って、ユウヤの方に一歩歩み寄る。



『……うん。あたし、待ってるね。それでいつか、あたしを超えてくれたら――』



――今度は、ユウヤがあたしを守る番だよ。



 それは、何度思い出したかもわからない幼いころからの記憶。……長い年月が経った今でも、それはユウヤの心の中に、強く刻まれている。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



――松原裕哉には、納得のいかないことがあった。どうしようもない事であると分かりながらも、それをどうしたらよいかはいまいち検討が付かない。それは日常のことであり、これからのことであり、この社会全体に関することでもあった。



 だけど、そんな大きな話はもはや裕哉の手のひらに収まる話ではないわけで――



「……裕哉、また考え事してるでしょ。あたしが隣にいるのに、それ以上に大切なことがあるの?」



 だんだんと途方もない話になっていく思考を、隣から聞こえる凛とした声が引き留める。それは裕哉にとって一番愛しい存在の声であり、目下のところ一番納得がいかないことの渦中にいる存在の声でもあった。



「わり、つい癖でな。何かしら考えてないと落ち着かないの、分かるだろ?」



「分からないわよ……ボケーッとするのだってたまにはいいわよ?」



「そりゃたまにはな。……だけど、生憎それを許してくれる奴はそう多くないんだわ。俺の周りだと、それこそ梓くらいしか」



 朝の光を浴びて伸びをする梓に視線を向けつつ、裕哉は軽くため息を一つ。伸びをした際に見えたつややかな肌に目線が思わず吸い寄せられそうになったが、それを伝えるのは流石に変態の所業なのでやめておいた。



「じゃ、今はボケッとしてなさいよ。彼女と歩く通学路ぐらい、何も考えずにのんびりしていたらいいんじゃない?」



「……ま、それもそうだな」



 多忙な高校生活の中で、裕哉が心からのんびりできるのは登校の時だけだと言ってもいいだろう。それに関する梓の指摘はあまりにも正論だった。



 須藤梓―—今裕哉の隣でのんびりと歩く小柄な女子高生こそが裕哉の彼女であり、裕哉が何に代えてでも守らなくてはいけない存在だ。何とも替えが利かないくらいに大事な存在だからこそ、それにまつわる悩みの種は多いのだが――



「……今は、彼女の厚意に甘えることにするよ」



「よろしい。申し訳ない話だけど、学校に着いたらこうはいかないんだからね?」



「そうだな。……本当に、申し訳ない話だ」



 裕哉にとって学校とは遠距離恋愛の舞台のようなものだ。同じ学校に通っているのに大げさな話にも思えるが、そうでもないのが悲しい事実だった。



 また考えがあらぬ方向にそれていこうとするが、それを裕哉は慌てて自制する。ここまで気遣われてなおそんなことをしてしまえば、今度こそ制裁が飛んできてもおかしくなかった。



「……霧島さん、相変わらず厳しい?」



「もちろん。……ま、芯は通ってる奴だから嫌いとかってわけではないけど」



 その質問に答えると同時、脳内に薄青髪の少女の姿が思い浮かぶ。怜悧さを感じさせるその容姿は美人と呼んで差し支えなかったが、今隣にいる黒い長髪の少女の方がよっぽど裕哉にとっては愛しかった。



「……どうしたの、いきなりジロジロ見つめて」



「……いや、俺の彼女はかわいいなと思ってさ。学校ではめったに見られないんだから、今のうちに堪能しとくのがいいだろうと思ったんだ」



「かわいいって……そりゃ、気合い入れて髪とか作ってはいるけど、生徒会の人とかもっときれいな人はたくさんいるでしょ?目の肥えたあんたからしたら、あたしなんてそこら辺にいるレベルの見てくれでもおかしくないと思うんだけど」



「いや、それはないな。ミスコンをやったら間違いなく梓が優勝する。……まあ、出させねえけど」



「うん、えと、その……ありがと……?」



 学校全体に梓の可愛さが知れたらとんでもない事態になる。そんなことを思っての言葉だったのだが、思わぬカウンターを食らった形になった梓の顔は真っ赤に茹で上がっていた。



 そんな風にのんびりと会話をしていると、目的地までの時間というのは一瞬で過ぎていく。本当ならばこの時間が永遠に続けばいいのだが、そうもいかないのが現実だった。



「……それじゃ、俺はこっちだから」



「……うん。それじゃ、頑張ってきてね」



 とある交差点に行き当たって、二人は手を振りあってそれぞれの方向へと歩みを進めていく。裕哉は高層ビルのような建物が立ち並ぶ方向へ、梓は平屋建ての建物が並ぶ方向へ。まるで対照的な建物同士だが、それが一つの学校の持ち物だというのだから驚きの話だ。



「いくら競争心を煽るためとはいえ、ここまで極端にやる必要はないと思うんだけどな……」



 いまにも虫が飛び出してきそうな藪の中を歩いていく梓の姿を見つめながら、裕哉は校門の前に設置された端末に手を当てる。その瞬間にしびれるような不快感が裕哉を襲い、思わず顔をしかめた。



 『魔力反応、登録生徒パターンと一致しました』という機械音が流れ、門が重々しい音を立てて開く。こんなもの生徒が来るたびにやっていたらキリがないが、そもそもこれは裕哉を含めた一部の生徒のみに与えられた特別待遇故のものだ。



「いくら成績優秀者とはいえ、ここまで金をかけてやることじゃないよな……」



 どちらかと言えば、不法侵入を防ぐ役割の方が大きいのだろうが。そのことを理解していながらも、裕哉は学校の経営方針に異を唱えたい気持ちであふれていた。



 同じ制服をまとった生徒たちが作り出す人の流れから外れ、裕哉は小さなビルのようなへと向かっていく。ひときわ大きな塔とは別に作られたそれは、小さいながらも異質な存在感を放っている。



「……松原裕哉だ」



『魔力パターンの一致を確認。おはようございます』



 名乗りながらセキュリティ端末に手を当てると、無機質な挨拶とともに自動ドアが開く。上機嫌な時はこんなあいさつにも軽く返してやるのだが、今日はそんな気分になれなかった。



「……ここまで上等な機械使ってんのに、なんでエレベーターの一つも付いてないのかね……」



 もっとも、高校生はエレベーターに乗れないのが普通らしい――前に親から聞いた話だから、いつの時代の『普通』かは分かったものではないが。裕哉の目的地が最上階にあることもあって、長い長い階段を上る時間は裕哉にとって苦痛でしかなかった。



 しかし、どんな長い階段にもいつかは終わりが来る。やっとのことで登り切った先にある扉の上には、『生徒会室』と書かれた札が取り付けられていた。



「……おはよう。今日もずいぶんと滑り込みだな」



「間に合ってるんだからセーフだセーフ。……というか、お前が早すぎるんだよ」



 重たい扉を押し開けた先には、長机に座って作業する薄青髪の少女がいる。それは先ほど梓とも会話していた、おそらく裕哉に一番厳しい存在に他ならなかった。



「生徒会員たるもの、全ての学生の規範となるのは当然のことだろう。……まして、生徒会長たる裕哉ならその責任は確固たるものだ」



「相変わらず立派な理念だな……。そういうところは霧島に任せるよ」



 努力の結果つかみ取った生徒会長という立ち位置ではあるが、そこで偉ぶるために手に入れたものでもない。だからできればラフに生きたいのだが、それに厳しい視線を向けるのが目の前にいる少女だった。



「任せるという問題ではない。生徒会とは、生徒たちの向上心を促進するための機関でもあるのだからな。そこを失念してもらっては困る。……あと」



「……あと、なんだよ?」



 より一層身を乗り出してきたのに反応して、裕哉は身をのけぞらせる。……目の前の少女が何を言おうとしているのかは、大体想像がついていた。



「私のことは『早希』と呼べと前から言っているだろう。いくら言っても無視というのは、私とて流石に堪えるものがあるぞ?」



「……家名で呼ばれるのが嫌なんだっけ。確かにそりゃ悪いけど、こっちにも事情というものがだな……」



「それだけしか理由を想像できない時点で、裕哉にはやはり教育が必要だと言わざるを得ないようだな」



「なんで俺食い気味に罵倒されてるんだよ⁉」



 それ以外の理由と言っても、裕哉には特に思いつかないのだから仕方がない。というか、梓以外の女子を名字で呼んでいる裕哉からすればその要求は中々にハードルが高いものだった。



「まさかそこまで鈍いとはな……いいか、名前で人を呼ぶというのはそもそも――」



 深々とため息を吐きながら、早希が言葉を紡ぎ始める。これはかなり時間がかかるやつだ、と裕哉が正座の体勢に入ろうとした、その時だった。



「……お二人とも、出撃要請です!近郊区画に魔獣が出現、かなり大規模とのこと!」



 ドアをバンと押し開けて、胸元にノートを抱えた少年が生徒会室に飛び込んでくる。その報告を聞いた二人の表情は、まるで冷水を浴びたように急速に引き締まった。



「……規模は?」



「獅子型が二匹と、鷹型が遠巻きにわずかながらということです。おふたりならば問題なく殲滅できる規模かと」



「ああ、それくらいか。それなら問題はないな」



「そうだな。俺と霧島で、十分に相手ができる」



 決して油断はできないが、それでも無事に帰っては来られるだろう。少々イレギュラー気味ではあれ、これもまた裕哉の日常と言ってもいいのだから。



「それでは、お二人とも準備を。五分後に出撃します」



「ああ、分かった。報告ご苦労だったな」



 早希のその言葉に少年はお辞儀で応え、生徒会室を足早に去っていく。彼もまたこの部屋を拠点とする一人だが、大方まだやることがあるのだろう。その仕事熱心さは、裕哉も見習わなければならない事だった。



「……行けるよな?」



「愚問だろう。……裕哉こそ、油断して失敗することのないようにな」



「……んなことしねえよ。一応、生徒会長だからな」



 かっこ悪いところは見せらんねえよ、と。



 そう言って上着の内ポケットに手を突っ込むと、裕哉の全身を覆う制服が淡い光を放つ。早希の制服も同じような光を放ち、準備は万端と言った様子だった。



「その意気だ。……あああと、出撃前に一つ言わせてくれ」



「……『私のことは早希と呼べ』……だろ?」



「分かっているなら行動に移せ。私はずっと待っているぞ?」



「善処させてもらうよ。……俺なりのペースでな」



 軽いやり取りを交わしながら、二人は生徒会室についている大きな窓を勢い良く開ける。そしてそのヘリに足をかけると、臆する様子もなく二人は地上に向かって飛び降りていった。



――三十年前、地球は大きなターニングポイントを迎えた。異世界との混濁により今までオカルトの類だった魔力の存在が証明され、魔獣をはじめとした様々な超常現象が人類に牙をむいた。……それを乗り越えた先にあるのが、裕哉たちを取り巻く日常だ。



 昔より遥かに殺伐としながらも、この世界は魔術と科学が均衡を取るような形で平和が成り立っている。……だから、裕哉たちは今の日常を疑わない。昔の異常事態は、今の地球にとってあまりにも正常な現象だった。

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