普通の使い魔が欲しかっただけなのに、出てきたのは最強最悪のケモ耳美女だったんですけど!?

わさび醤油

短編

 もしも時が戻せるのなら、今日という日をやり直したいと考えた事はないだろうか。

 

 転んでしまった、遅刻してしまった、テストで失敗してしまった。

 理由なんて様々。吹けば飛ぶくらい軽くても、人生の岐路ほど重たい選択だとしても、当人にとっては譲れないくらい重要なことだったりするものだ。


 そして制服に身を包んだ少年──クライにとってのその日は今日、もっと言えば今このとき。


「三千年の刻を越え、私を呼びだしたのはきみかな?」


 突如として目の前に現われた、悍ましくも美しい未知の存在に声を掛けられたこの瞬間だった。

 





 ──自分が情けないと、クライは今日ほど自分を嘆いた日はなかった。


「……はーあっ」


 ため息を漏らす。空を見て、そして目の前の紙切れに視線を戻す作業を繰り返す。

 誰もいない教室に響くのは、こつこつと指で机を叩く音と憂鬱な気持ちの吐露だけだ。

 

「決まんねえなぁ……」


 悩んでいることは単純明快、紙に記載されている進路についての質問のみ。

 あと一年でここを卒業するにあたり、自分がこれからどんな道を歩みたいのかを示すだけ。

 この学校──エーデア学園に通う者のほとんどは迷うことのないくだらない質問に、俺は何時間もかけ必死こいて頭を悩ませているのだ。


治癒職ジョブヒール……いや無理無理、資格取ってねえーし。でも安月給はなぁ……」

「……いつまで悩んでるのよ? そんなんだからモヤシなのよ」

「煩いなぁ、そんなの今関係……ん? うおっ、ルイア!? いつの間にっ!?」


 このままじゃいつまでも、空の茜が黒に変わっても尚、思考の渦に囚われそうなクライ。

 そんな彼を悩みを遮るのは、可愛らしくも強さに満ちた、華と棘を兼ね揃える聞き馴染んだ少女の声。

 クライがびくつきながら音の方を向けば、そこに立っていたのは、やはり予想通りの人物──長い赤の髪が特徴の美少女であった。

 

「びっくりしたぁ。……ったく、いつも言ってるだろ? 声を掛けるときは人の心臓を労れってよ」

「いやよ。私はすごく楽しいし、あんたは驚く顔も飽きないもの」

「なにその理屈。最早暴論なんだけど」


 からからと、鈴を鳴らすように笑いを見せる、そんな美少女の名はルイア・スカーレット。

 赤髪赤目と赤尽し。成りもそうだが、得意魔法も赤属性。

 誰が呼んだか紅の美才女レッドギフト。クライの学年で五指に入る成績上位者、そして学年一と噂される正真正銘の天才である。


「それで、まだ決まらないの? こんなのただの指針なんだし、適当に書いて出しなさいよ」

「そうは言ってもな。お前──」

「ルイア」

「……ルイアと違って、俺はやりたいことがないんだよ」


 いつもの如く名前を呼ぶように強制されながら、クライは頬杖を突いて言葉で悩み続ける。

 書きたいことなら確かにある。だがクライには、それを文字にする勇気も覚悟もない。

 何故なら、それは自分には向いていないと理解しているから。より正確に言えば、この二年間で嫌と言うほど理解わからされてしまったのだから。


「ま、確かにそんなモヤシじゃ冒険者は無理よね。良くて精々四つ星フォースターってところかしら」

「……相変わらず厳しいな」

「当然よ。私と違って弱いんだし、あんたに無茶されちゃ叶わないもの」


 ルイアはその可愛らしい顔のまま、歯に衣着せずにぐさぐさとクライの心をつついてくる。

 落ちた気分への容赦ない追撃。だが、彼女が言う歴然の事実を否定する材料はない。


 冒険者。それは字の如く、冒険を生業にする者達のことである。

 夢を追い、宝を見つけ、人の役に立ち、時には貴族の家よりも大きな魔獣を狩る勇士の集い。

 まさに夢を見る職業。もし腕に覚えがあるのなら、誰しもがこの職を考えるであろう自由と輝きに満ちた子供の夢こそが、冒険者という職なのだ。


 ──だからこそ。当然ながら力を、そしてより秀でた才と適性を求められる職。

 学園で鍛えようが思うように筋肉は付かず。かといって別に機転が利くわけでもなく。

 特別魔力も伸びなかった平均以下のモヤシが目指すには、あまりに遠すぎる夢だったのだ。


「ま、あんたも物好きよね。別に頭は悪くないんだし、を上手く使えば稼げると思うんだけど」

「……いいだろ別に。だってかっこいいじゃん。やりたくない仕事でお金が入るだけより、かっこいい仕事でうはうはしされながら、お金に埋もれて一生を終えたいじゃん」

「相変わらずべた塗りの欲望ね。優しさと強欲さ、どっちから捨てたら?」


 ルイアは煌めく赤目を細め、へこむクライに息を吐いて呆れを示しながら、隣の椅子を引いて腰を下ろす。

 

 もう慣れてしまったが、いつものことながら、何が楽しくて側に来てまで見つめてくるだろうか。

 顔に何か付いてるか、それともツボに入るくらい頓珍漢な顔なのか。

 別に整っているわけではないこの素顔。どうせどれだけ考えたって、成績優秀者の本心なんて自分には分からない。だからせめて機嫌を損ねないよう、クライは何も言わずに思考を再開する。


「……ねえ、本当に召喚士サモナーにならないの?」

「……ならない。前も言ったろ?」

「今からでもあんたが本気で統率したら、それこそ冒険者になっても引く手数多なのよ? なのにわざわざ戦士職に挑んで失敗して、それで向いてないから諦めるなんて馬鹿らしくないの?」


 その声はまるで惜しむよう、そして悪いことをした子供を咎めるよう。

 紅の少女はクライの想いも後悔もわかっていながら、それでもその才を捨てるにはもったいないと言っている。だから頭ごなしに怒鳴ることも出来ず、口を結ぶことしか出来ないのだ。


「ま、どう生きようがあんたの勝手よ。けど感謝して? 別に生活に困らなくとも、もしもの時は私の専属使用人にしてあげるわ」

「……そらどうも。ほんとに路頭に迷いそうだったらお願いするわ」

「ええ、ええっ! いついかなる時でも歓迎するから、その瞬間を是非楽しみにしておきなさい!」


 ルイアはそれはそれは嬉しそうに、まるで花が咲いたような笑顔で頷いた。

 随分と楽しそうに喜ぶ目の前の少女にクライは、思わず小さな苦笑いを零してしまう。

 

 どうせその場の冗談でしかないのに、そこまで喜ぶ必要があるのだろうか。

 自分には理解できないが、多分彼女にとってはあるのだろう。何せルイアの笑顔は美貌も相まって、まるで満開の花のように鮮やかで美しいのだから。


「ま、それでもいい加減、小型の獣魔じゅうまくらいは呼んどきなさい。戦闘関係なしに頼れる相棒が自分で呼べるのってのが、その才の強みでしょ?」

「……そうだなぁ、そろそろ切り替えないとなぁ」

「でしょ? じゃあ私、魔法部に顔出さないといけないから。そんなの今週までで良いんだし、とっとと帰って気分転換でもしなさいよ」


 ルイアは立ち上がり、丸まったクライの背を軽く叩いてから教室の戸を抜けていく。

 

 そういえば確か、彼女が所属する魔法部は来月に成果発表があるんだっけか。

 忙しい時期なはずなのに、わざわざこっちに来て大丈夫だったのか。

 ……まあ、休憩ついでに教室にいた俺をからかいに来ただけなのだろう。気がつけば窓から見える空色も茜色が終わる間際、今にも腹の虫が鳴りそうなくらいには時間が経過していることに気付いたのだから。


 側に置いていた皮鞄に荷物を纏め、早足で教室を離れていく。

 歩く最中、多少は進路のことを考えようとはする。

 だが、脳裏にちらつき続けるのは、先ほど出されてしまったルイアの提案が大半だった。


「召喚か。……でもなぁ」


 クライは鞄に付いた細長い三本線を撫でながら、召喚という手段に躊躇いを覚えてしまう。

 またあのときと同じ失敗を繰り返すのか。身を引き裂かれるような悲しみを背負いたいのか。

 

 否定はいくらで湧き出てくる。

 自らのために喚ぶ理由よりも、自らが召喚してはいけないと理性が縛り付けてくる。


 だがそれでも、過去はどう足掻こうとも過去。

 二度と届かぬ後悔に暮れ続けるよりも、生きなきゃいけない未来に目を向けるべきだと、そんな当たり前から目を背けちゃいけないのだと。未だに過去に囚われた自分に、友人は改めて言ったのだ。


「……よし、してみよう。今度はもう、戦闘なんてさせなくていいんだからな」


 一年越しについた決心。そうと決まればと、意志に呼応するよう歩きは早足に切り替わる。

 いつもは眺めてため息をつくだけの焔色の夕日。けれど今はそんなものには目もくれず、ただ夢中で走り続ける。

 こんなに全力で走るのはいつ以来か。気がつけばいつからか、実技授業でも手を抜くようになってしまっていた。それすらも見抜いているからこそ、ルイアは自分をモヤシと馬鹿にしてくるのだろう。

 

 気分を変えるにはちょうどいい、か。確かに彼女の言う通りだ。

 低位の使い魔はほとんどペットと同じ。日常を共にする癒やしが、今の俺には必要なのかもな。


 クライは息を乱しながら寮へと駆け込み、勢い任せに靴を仕舞い、階段を上がって自室の扉を開ける。

 三ヶ月前から一人になってしまった、そこそこの清潔感が自慢できる自室。

 クライは荷物を捨てるように床へ放り投げ、机の引き出しからいくつか物を取り出していく。


「えーっと、円を描いて術式刻むっと。そうだ、どうせならいろいろ付加しちゃおうっと」


 降ってきた閃きと染みこんだ知識のまま、床に巨大なキャンパスに腕を動かし続ける。

 どうせ今は一人だし、寮鑑にバレる前に片せば問題ない。

 作業を始めてしまえば後は流れるまま、陣は自らの想像のままに書き上がっていくのみ。


 黙々と、他のことには目もくれずに作業を進めていく。

 音も匂いも関係ない。クライは目の前の行程一つ一つに、全身全霊で向き合い続けた。


「──出来たっ!」


 最後の一なぞりを終えた後。クライは汗を拭いながら、完成した召喚陣を前に口笛を鳴らす。

 今までの全てを込め、自分の最高の力で描き上げた召喚陣。

 自称ではあるが、これは最早芸術の域。自画自賛ではあるが、同じ学年で召喚系の職に進む奴にだって負けていないだろうと確信できるほどの出来だ。


 最低位の生活同伴枠ペットには必要のない規模で描かれた召喚陣。

 されど召喚とはそれだけ全霊を込めるもの。

 少なくとも、仕事でない相棒を求めるのならばこれくらいすべきだと。この点だけは妥協できないのが、昔からの癖なのだ。


 さて、どれだけ没頭していたか。クライは達成感に浸りながら周囲を見て──思わず驚愕してしまう。

 空は黒く染まり、置いてある魔力時計は食堂終わりなどとうに越し、一日の終わり目前を示している。

 

 ……嗚呼しまった、また時間を忘れて作業に没頭してしまった。

 

 時間を確認したことで、忘れていた空腹が疲労と共にのし掛かってくる。

 やり始めたら止まれないのは昔から悪い癖だ。この癖で得したことは少なく、損してしまったことは指で数えられないくらいたくさんある。


 食堂はもう開いていない。手つかずの課題もあるし、出来るならこのまま目を瞑り、何も考えずに夢の中へと溶け込んでしまいたい気持ちもなくはない。

 

 けれど、今はそれよりもこの陣で求める召喚をしてみたい興奮が勝っている。

 昇りきった熱が正気シラフへ戻る前に、この最高の作品で使い魔を喚んでみたいと脳が訴えてしまっている。


 これで眠るなんて馬鹿な真似が出来ようか。

 いいや出来やしない。この欲求を抑えることなど、一創作者として皆目やってはいけないことだ。


 そうと決まれば即行動だと、クライは引き出しから必要な物を取り出していく。

 小型の動魔石を三つ、召喚者じぶんの髪の毛を一本、後は言語用に本でも置こうか。


「っごほん。……導きの風、祝福の息吹、幾重の輝きを包む廻りのことわりよ」

「求めるは永久とこしえ。生の尽きるそのこくまで、途切れることなき鎖が如きえにし

「我が因果に集いたまえ。白き勇者エインの光、七柱の神々セブンゴーズの祝福よ」


 湧き出る勢いに身を任せ、熱のままに魔力を陣に込めて詠唱を繋げていく。

 正しいやり方ではないのはわかっている。そもそもこんなノリだけの詠唱など必要ない。

 失敗すれば何も喚ばれず魔力は霧散し、苦労の全てが空に散るだけのでしかない。そんな無駄だらけの行動で喚ぼうとしているのは重々承知だ。


 けれど今は何故か、失敗なんて後ろ向きネガティブは微塵も考えられない。

 脳が焼かれている。思考はとうの昔に溶け落ち、本能に準ずるだけの肉塊と成り果てている。

 或いはそれを狂気と呼ぶのかもしれない。

 けれど、もしそうだとしても。この感覚のままに召喚を果たし、このやり遂げられるのなら、例えこのまま朽ちたって構わない。


 最早唱えるというより、無心と勢いで言葉を羅列するだけ。

 だが、そんなクライの内で暴れる熱に呼応するかのように、召喚陣は光を灯し始める。

 

「定めを超えた導きの糸、そして無限に伸びる関係の渦よ」

 

 内の臓物まで吸い取られそうな勢いで、体の魔力が召喚陣に吸われていく。

 そして光は想いに応えるように輝きを増す。

 部屋に満たす白い光。より強く、より濃く、そして魔力をはち切れんばかりに膨れあがらせて。

 

 いける、いけるいけるいけるぞぉっっ────!!

 


「我が名はクライ。声に応え運命さだめの隣へ、我が願いのままにいざ来たれっ──!!」



 死の一歩手前まで魔力を注ぎ込み、詠唱を完遂した瞬間、陣を覆う光が一気に弾け飛ぶ。

 全身の力が抜け、膝から崩れ落ちて尻餅をつきながら、それでも視線は動くことを許されない。


 凝視する、ただ一点を見つめ続ける。

 渦のように巻かれる白光しろひかり。その奔流の中、囲う表面を霞ませる程の魔力量。

 

 ──おかしい。これは本当に、俺が喚ぶはずだった低位の獣魔なのか?

 ……違う、絶対に違う。

 気配だけでわかってしまう。こんな推し量れないくらい桁違いの魔力量なんて、それこそ小さいときに見た最高位の魔物──伝説種レジェンダリーでしか感じたことがない。


 ようやく戻ってきた理性の切れ端が、かんかんと内側を警鐘を鳴らしてくる。

 今すぐにでも逃げ出せと。今目の前にいるのは、世界を揺るがすかもしれない化け物なのだと。

 

 だが足は動かない。疲労と緊張、恐怖に負けた体は、逃走の選択を許さない。

 煙が晴れる。光が塵となり、少しずつ、怪物の輪郭を露わにしていく。クライはそれを、眺めることしか出来なかった。


 ──そしてついに。その姿がはっきりと、後ろ窓から零れる月光にて晒された。


「──何かと思えば召喚とは。まさか、この私を喚べる大馬鹿者がいたとはね」


 口が開き、声が零れる。その音は鼓膜を揺らす度、脳を蕩かす甘美な音。

 

 一本一本が最上級な金の髪。

 美麗石のような艶やかな白肌を晒し、一糸まとわぬ美しく欲を掻き立てる体に、大きすぎず小さすぎず、手にすっぽり収まりそうな嫋やかで神秘的な胸部。


 そして何より目に入るのは、只人が持ち得ぬ、長く確かな一本尾と狐耳が二つ。

 白銀と黄金にて編まれたそれは、まるで月と太陽を身に宿したかのよう。


 ──美しい。まるで竜の心臓、この世で一番美しいとされる心臓宝石メジャーハートのよう。

 自分の中で最も可愛いと思っていた、同じクラスの紅髪の美少女。

 そんな彼女でようやく霞まない程度だと。知性の先にある本能がそう認識してしまうくらい、圧倒的な美の塊がそこにはいたのだから。






 

「で、喚んだのは……きみ? ふーん、成程ねぇ」


 クライは呼吸すら忘れ、こちらを向く宝石みたいな二つの瞳に体を硬直させる。

 

 眼を奪われたから、それとも純然たる恐怖のせいなのか。──或いはそのどちらもか。

 いずれにしても、彼が固まってしまった理由はどうでも良い。

 クライにとって大事なのは今。まるで大蜘蛛デカランチュアの巣の中に囚われてしまったかのような、埒外の怪物から逃走不可能であるという現状だけであった。


 ──美しい、実に美しい。語彙が跳んでしまうくらい、嗚呼、本当に綺麗な人だ。


 体は動かず、されど気持ちは弾けて止まらない。まるで魅了チャームにでも掛かってしまったよう。

 気持ちが昂れ、狂わんと内にて叫んでいるのがわかる。あれを我が手に収めたい欲と、誰にも触らせずいつまでも見ていたい欲がぶつかり合っている。


 何故全裸なのかとか、どうして人が召喚されたのか。

 まばらな思考です浮かんでしまう数多の疑問。けれど、今はそれを無視してでもこの誘惑に浸っていたいと、クライはそう思ってしまっていた。


「もしもーし、聞いてるー? 私のこと見えてますー?」

「──ああ、ああっ……」


 気がつけば、ずっと目で追っていたはずなのに、美女は目の前まで接近していた。

 咄嗟だったせいか、クライの喉からは上擦った呆け声しか出てこない。必死に思考をたぐり寄せようとするも、鼻腔を擽る甘く心地好い香りに意識を奪われてしまう。


 ──もしかしたら、フェロモンを嗅いだ獣はこんな気持ちを抱えて生きているのかもしれないと、クライはぼんやり他人事のようにそう思ってしまった。


「うん、返事は出来るね。けっこうけっこう! たった一度の契約の瞬間、いわば私ときみの結婚式ウェディングだからね。そんな門出に朦朧とでもされちゃあ、いくら気の長い私でも不機嫌になってしまうよ」


 女は口が付いてしまうと思えるくらいまでクライの顔を覗き込み、満足気に頷きながら言葉を紡いでいく。

 だが、クライにその言葉を聞き取る余裕はない。

 目、鼻、耳。五感を埋め尽くす圧倒的な存在感を前に、まともな思考など叶わなかった。


「あ、あの……んぐっ!?」


 せめて何か言わなきゃと、何も考えずに口を開こうとしたクライ。

 女はそんな彼へ愉しげに目を細め、次の瞬間には寸前で止まっていた唇を押しつける。


「んむ、んっ、ぇろ……。んっ? ふふっ。れぇろ、じゅる──」


 突如として重なる口。舌は口内で絡み合い、互いの唾液が混じり合う。

 クライには振り解くことも突き放すことも出来ない。例えるなら獣の捕食に近く、非力な人間が逃れる術など存在していなかった。

 

 制止の声の代わりに出てしまうのは、ピチャピチャ縺れる露の糸と二人の火照った息継ぎのみ。

 驚愕と恐怖は快楽に塗りつぶされる。

 凡庸な少年が感じるのは暴力的な快楽の嵐、そして満ちて失う不可思議な感覚だけ。

 

 貪り、交わり、混ざり合う。時間も忘れ、女が望む限りに永遠と。

 ただそれだけの退廃的な背徳行為インモラル

 ──時間にして十五秒。ようやく女は滑らかに口を放し、煌めく透明な糸が橋を形作った。

 

「──ぷはぁ! えへっ、ごちそうさま♡」


 金髪の女は口元を吹き、心の底から満足気に笑みを浮かべながら、クライへ礼を言う。

 クライは放心しながらも、息を整えながら口元を触り、先ほどまでの感覚を思い出してしまう。

 

 甘く、せつなく、気持ちいい。

 例えるなら濃淡な桃色の津波。一度だけ食べたことのある、上質な竜肉より遙かに暴力的な行為の名残。それは神経の中枢から末端まで掴み、どれだけ頭を振ろうと離れてはくれなかった。


「な、なにを……」

「うん、これで経路パスは繋がったね。つまり、無事に本契約できたってわけだね!」


 女は人の唇を奪ったとは思えないくらい清々しく、本契約を果たしたと告げてくる。

 

 まさかと思い、クライはすぐに魔力の流れを確認してみる。

 ……ある。召喚で使い切ったはずの魔力が、強固に結びつく魔力絡みと共に充ち満ちている。


 もしかしなくとも、以前よりも明らかに多い魔力の量。

 今までとは根本から異なる気がしてならない。

 まるで体の内にあった器が大きくなったような感じだと、クライは今まで感じた事のない充足に違和感を持ってしまっていた。


「……ほんとだ、経路パスがある。でもなんで──」

「今の口づけで魔力を通したんだ。きみ、このままだとからからで沈没しちゃいそうだったしね?」


 確かに魔力は枯渇していた。そのままだったら間違いなく、彼女と言葉を交わす間もなく意識を闇に落としていたし、魔力が満たす理由にはなっている。


 だが、経路パスが繋がっているのはどういうことなのだろうか。

 経路パスとは本契約を交わしたものの間に結ばれる絆のこと。簡易的に結ぶ仮契約ならばともかく、魂にまで刻まれる本契約には合意が必要不可欠のはずなのだ。


 ……いや、そういえば図書館の本で読んだことがある。

 あの本に書かれていた、本契約を強制的に結ぶ手段は確か二つ。

 遠き古代にて失われたとされる隷属魔法スレブラクト。そしてあと一つは最も楽で理不尽な手段──実力の差で魂を縛り付けるという、野蛮且つ手っ取り早い方法だけだった。


 魔法を掛けられた痕跡はない。ということはつまり、契約方法として考えられるのは一つだけ。

 つまり目の前で愉快そうに微笑むこの女は、あのキスの合間に俺の魂まで干渉できる──それほどまでに、俺とは格の違う存在だということになる。


 そこまで考えついて、ようやく寒気の誘う恐怖が溢れ出てくる。

 いつ命を奪われるか分からない。彼女が指を一つ動かせば、今すぐにでも自由はなくなってしまう。

 

 ──最早自分の自由はなく、契約破棄は恐らく不可能。

 つまりこの命が尽きるまで、目の前の美女から逃れられないのだ。


「そんなに怖がらなくてもいいんだけどなー。そんなきみも可愛しくていいんだけど、そこまで悲痛そうに歪められるとさすがのお姉さんもショックかなーって」

「…………」

「あれ、だんまり? うーん、流石に欲望に負け過ぎちゃったかなー」


 刺激しないための言葉を模索していると、何故か女は困ったように悩み始めてしまう。

 まずい。余計なことを言う前に、何か地雷を踏んでしまっただろうか。


「まあうん、これから親密になればいいかな! 時間なんて無限にあるっぽいしね?」

「……む、無限?」

「うん! ま、こればかりは理想召喚イデアサモンの影響かな。いやー、よくもこんなまあこんな高度な召喚を一人でやってのけたもんだよ」


 ……いであさもん? 何それ、新手の薬か魔物モンスターの名前かなにかですか?


「高度な召喚って……? 俺はただ、小型の使い魔を喚ぼうとしただけ……」

「んー? まさか偶然? ……え、ほんとに?」


 困惑していたクライを見て、呆気に取られたように首を傾げる美女。

 そんな表情しないでほしい。説明が欲しいほど困っているのは、俺だって同じなんだから。


「ふーん。……ま、運命ってことでいいや! その方がそれっぽくて縁起がいいし!」

「え、ええぇ……」

「そ・れ・よ・り♡ それじゃあ気持ちもほぐれたみたいだし、そろそろ自己紹介し合っか!」

 

 美女はぱちんと両手で音を出し、ごほんと喉を鳴らして姿勢を正す。


「では改めて……よくぞ喚んだね少年! 私はリア! 伝わっているかは知らないけど、勇者エールブって名乗った方がいいのかな?」


 にこやかに躊躇いなく、自らの名を語ったリア。

 だが、それを聞いたクライの脳裏に過ぎるのは、歴史で習ったある同名の存在だった。

  

 勇者エールブ。それはいにしえにて存在したとされる罪人の名だ。

 今より三千年前、前文明の要であった楽園都市シャンディア。

 永遠郷とまで謳われた幻の街を滅ぼし、その時代を終わらせたとされる災厄の化身。それこそが、裏切りの勇者エールブの犯した罪とされている。


 つまり、目の前にいるこの女の言うことが真実だとすれば、俺は世界を滅ぼした悪人を喚んでしまったということになる。

 ……やばくない? 場合によっちゃあ俺、これだけで死刑になったりしそうなんだけど。


「それできみの名は? 私が名乗ったんだから、あるじらしく堂々と紹介してほしいね」

「あ、はい。……クライです」

「クライ、クライ……ふーん? ……うん、きみっぽくて良い名前だね!」


 果たしてクライの何を見て、その名が似合うと思ったのか。

 ともあれリアは浮かべた笑みを崩すことなく、何度も何度もクライという単語を反芻していた。


「しかしクライくんは運が良い! 準備のない理想召喚イデアサモンなんて大博打に等しい愚行。それで私を引き当てるんだから、もう一生分の運を使い果たしたと言っていい!」

「……あの、さっきから言ってるイデアサモンってなん……ですか?」

「敬語はやめてリアって呼んで? 理想召喚イデアサモンは召喚術における最高位の一つ。波長の合う魂を招き、想像と術式で召喚者の好み通りに受肉させる方法だよ」


 ……何それ。そんな召喚術、今日初めて聞いたんですけど?


「召喚陣を見るに、すっごい複雑に書き殴っているね。詠唱は何重だった?」

「……えっと、多分四重……いや五重だった……気がする」

「え、よくそれで成功したね。さては小間使いに伝説の猛獣でも喚ぶ気だった?」


 遠回しに馬鹿だと言われている気がするが、実際その通りなので否定は出来ない。

 小型の使い魔を喚ぶのにこんな大仰な召喚は必要ないのは、それこそちょっと囓っただけの初心者でも知っていること。喚ぶ対象が決まっている以上、どれだけ精巧で規模を大きくしても意味なんて皆無でしかないのだ。


「しかしなるほどなるほど……。確かにそこまでやっちゃったなら、偶然にも同じような結果を招いても仕方ないのかも。ここまでぐちゃぐちゃな召喚陣は見たことないし、流石の私でも確証は持てないけどね」

「……その理想召喚イデアサモンじゃないって可能性はないです……ないのか?」

「ないね。並の召喚だったら私は拒否れるし、生前通りに喚んだらこんな耳と尻尾は付かないもん」


 リアは頭上に付いた耳を揺らしながら、綺麗な手で背にある大きな金色の尾を撫で回す。

 どうやら言い方からして、生来の物じゃないらしい。その割には違和感がないくらいには様になっているけど。


「んっ、ん……。気持ちいいねこれ、リビアもこうだったのかな?」

「……リビア?」

「昔の友人だよ。ま、今はそれより話の続きをしよう。とはいっても、今話さなきゃいけないことっなんだろう。……何か聞きたいことある?」


 首を軽く曲げ、目の前で露骨に悩み始めたリア。

 正直、こちらとしては聞きたいことが多すぎて逆に困っている。この人ならきっと、ほとんどの問いに答えてくれそうなので尚更聞くことに悩んでしまう。


「……とりあえず、服着ないの?」

「え、服ぅ~? あ、そうか。そういえば、受肉しただけだと裸体なんだっけ」


 リアは自分の体に視線をずらし、驚きを示しながら指を鳴らす。

 すると一変。目のやり場に困った美しい全裸だったはずなのに、その肌は一瞬上質な黒色の布にて覆い隠される。

 

 ……胸とか逆に強調されて逆に扇情的だが、今はそっちよりも服に目が入ってしまう。

 この辺りでは見たことのない服装。だが、審美眼のない俺ですらわかってしまう布の上質さ。

 きっと額を付けるのならば、俺の空財布では一生頑張っても買えないくらい高価な装いであると、それだけはわかってしまう。


「ん、なに? 友人の服装を模してみたんだけど、なにかおかしいかな?」

「……い、いや。見たことない服装だなって」

「見たことない……? ……そっか。いくら経ったか知らないけど、もう着物はないんだね」


 ふと言葉にしてしまったクライの疑問に、リアは少し差しげな声色で答える。

 昔はこんなのが流行っていたのか。

 匠が制作した芸術品みたいに綺麗な服ではあるが、正直普段着としては動きにくそうだけどな。


 着物と呼ばれた黒色の服、それを着こなしているリア。

 目の前の美に釘付けになっていると、リアは唐突に何かを思い出したように拳で掌を叩いた。

 

「あ、一番大事な話が残ってた。……いや、言ってみたけどそこまで大事じゃないかも?」

「……え、まだなにかあるの。もう許容量超えてるから明日にして欲しいんだけど」

「いんやー。多分明日は出てこれないから、心構え的に今教えちゃいたいなーって」


 リアが両手を合わせてくるので、掌で話すよう伝える。

 もういろいろ疲れたので、どっと湧き上がってくる眠気で今日を終わりにしたいんだけど。


「ありがとー。じゃあ言いまーす!」

「うん」

「なんとご主人様、半分人間辞めちゃってますー。はい拍手!」

「へー、……え、へっ!!??」


 ぱちぱちと手を叩きながら、とんでもないことを言ってきたリア。

 ……えー、父さん母さん。どうやら俺、人間を辞めちゃったらしいです。

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