第4話

 

「あああ暑い〜」

「魔界の人も暑さ感じるんだね」

 そりゃそうだ。気持ち程度につけたエアコンと空気循環のために回されている扇風機の風がちょうど当たる位置に倒れ込むと、俺専用の小さな入れ物に冷えた茶が注がれる。あ、ちょっとこぼした。

「小さいから入れにくいんだよ〜笑わないで」

 俺は笑っていたのか。

「でも、こう暑いと出かける気分にもならないねえ」

「日本の夏は湿気と暑さで死人が出そうっすね」

 外で契約者を探しに行くのも暑さで倒れそうだ。今日は猛暑らしいし、エアコンのきいた部屋に居るべきだろう。

 そこで、俺はピンときた。暇つぶし、目の前にいるじゃないか。ニヤリと笑って、冷えた牛乳を飲む少女を見た。

「お嬢さん、お嬢さん」

「はあい?」

 間延びした返事に気が抜けたが、好奇心が勝ち、会話を進める。

「何か、契約しないっすか?」

「契約?」

 白い液体の入ったグラスを片手に、うーん、とあからさまに迷っている。時計の秒針が聞こえてきそうなくらい、静かな時間が流れた。

「うん、ない!」

「は……」

 これだけ待たせといて何も無しか。思わずぽかんとしてしまう俺に、少女はやけに大人びた表情で「でも、」と続けた。

「契約したかった日はあったよ」

 過去形。思いを馳せているのだろう。俺の背後にある窓から広がる空に混ぜるように、少女は唇を動かした。

「昔話なら暇つぶしにあるけど、どうかな?」

 一転してはにかんでそう言う少女に、暇つぶしだとバレていたことにほんの少し冷や汗をかく。

「昔話、いいっすね。聞かせてください」

「ありがとう」

 少女はにっこりと笑ってから、だいぶ前の話なんだけどね、と遠く切ない瞳で語りはじめた。

 

 少女は昔、体が弱く学校より病院にいる時間の方が遥かに長かったらしい。中学校も入学式の時に学校へ行ったきり、それから夏休みになるまで学校へ行ったのは両手の指で数え切れるくらいだったそうだ。夏休みに入ると、待ってましたかと言わんばかりに入院。そんな日々が当たり前だった。

 八月に入ったばかりの早朝。ふと少女は思った。「よし、暇だし抜け出してみよう」。朝食が終わり、朝の検温等が終わったところで、ベッドから這い出て薄手の入院着の上にカーディガンを羽織って病室の重たいドアを薄く開けた。人は居ない。よし、行こう。その時は神がかっているかのようにすんなり外へ抜け出せた。しかし、まず少女に降りかかるは強い日差しであった。ずっとエアコンのきいた室内で過ごしていたため、朝とはいえ、真夏の空気は少女のやる気を削ぐようにまとわりついてきた。そんな時、少し嗄れた声が横から聞こえてきた。

「お姉さん、暑くないかい?日傘、使うかい?」

 バス停の日陰にあるベンチから腰の曲がった老婆がにこにこしながら高価そうな傘を手にしていた。

「え、あ、あの……」

「そんな白い肌じゃあすぐ日に焼けちゃうよ。年寄りのお願いだと思って使っておくれ」

 どうしてそこまでゴリ押ししてくるのかはわからなかったが、老婆は日傘を受け取ると至極嬉しそうにバスに乗って去った。今でも不思議だ、と少女はくすぐったそうに笑った。その後、少し息を吐いてとめてから、少女はまた語りはじめた。

 当時入院していた病院は海の近くにあったらしく、少女は海へ向かったという。世間は夏休みの朝の海。辿り着いた海岸線では思ったより人はいなくて、思ったより磯臭い。ところどころにサーファーが流れるように波を縫っていた。しかし暑い、それに歩き疲れた少女は影になっているテトラポットに腰を下ろした。少しだけひんやりしていて、立っているよりよっぽどマシだ。と、海岸を眺めていたその時、再び見えない場所から声をかけられた。

「君、暑くない?大丈夫?」

 思わず肩を揺らして恐る恐る振り向くと、格好からしてサーファーのようだったが、顔は女の子のように整った顔立ちをしており、大人と子供の間、のような雰囲気をしていた。

「あれ、その服、もしかして……」

「か!帰ります!大丈夫です!」

 慌てて飛ぶように立ち上がると立ちくらみがして、視界が揺らぐ。

「おっと!大丈夫?慌てなくていいよ、別に追い返すつもりなんてないからさ!」

 青年はふらついた少女を片腕で支え、またテトラポットに座らせた。

「あ、ありがとうございます……」

 やけに口が乾いて仕方なかったそうだ。青年はにっこりと音がつくくらいの輝かしい笑顔を見せたあと、何故か隣に座ってきた。

「君の名前を教えてよ!」

 昔は今よりずっと人見知りが激しかったらしく、あわあわとしどろもどろになっている少女を優しく見つめ、青年は微笑んだ。

「俺は類。君のことが知りたいな」

 それから語る物語は普遍的であり、とても暖かい日常だった。

 

「あ!司ちゃーん!」

 少し離れた場所から己の名前が飛んでくる。目線を横に向けると、並んだテトラポットの上を器用に飛んで走ってくる青年が見えた。

「今日も来てたんだね。おはよ!」

「おはようございます。お兄さんも連日来てるんですね」

 やっと目を見て話せるようになった少女に、青年はブー!とまるで不正解のように手でバッテンを作って見せた。

「る!い!類だよ!」

「お兄さんはお兄さんですから」

「もう!司ちゃん!」

 むくれた顔をしていたが、次の瞬間にはにっこり太陽のように笑ってくれる。そんな空間がとても好きだったそうだ。

 青年は近くに住む高校生らしい。進路が未だ決まらず、気晴らしに海へ来ているそうで、時々波に乗っている姿を見せてくれる。どうして少女に構うのかは未だに謎で、今でも不思議な人と語った。

「司ちゃんはもう課題終わった?」

「七月のうちに終わりました」

 そう言うと、えー!と大袈裟に驚いて見せる青年に、少女は苦笑いをした。そろそろ、別れが近付いているからだ。今回の入院は検査入院。検査は終わり、あとは明日結果を待つだけだ。家はここから近いわけじゃない。たぶん、ここでさよならだ。でも、少女はそのことを青年に言えずにいた。

「あ〜!夏休み明けてもずっとこのままがいいのになあ」

 少女はドキリと胸が鳴った。同じことを、考えていたからだ。青年の明るく快活な話し声と身振り手振りでたくさんの話をしてくれた。ほんの十分程度のお喋りが何よりも楽しくて、新しい世界を教えてくれるのが嬉しかった。

「……」

 でも、言ってはならない。自分が寂しくなるだけでなく、青年を悲しくさせてしまうかもしれない。少女はあの日ここへ来た自分が恨めしく思った。青年からしたら大勢の中の一人かもしれないけれど、少女の中では違う。手で触れては崩れそうなものが少女の中には芽生えていた。

「今何思ってるか当てようか」

「えっ」

 静かな砂浜に穏やかな声が響くように広がった。自分の膝に肘を置き、少女の顔を覗くように上目使いで青年は言った。

「ここで終わりたくないよ」

「……」

 動悸のように胸が鳴る。答えちゃいけない。応えたい。口を開けては閉めを幾度か繰り返し、ようやく出たのは、

「……もう、帰りますね」

 頬につたう生温い液体は頬を滑り冷たくなって、熱を帯びたテトラポットへと落ちた。

 青年は何かを飲み込んだように小さく笑った。

「うん、またね」

 それが最後の言葉だった。

 翌日退院して、車で海岸線を通る時、目を逸らしてしまった。今までを封じ込めるように。

 

「あの時何か言いたかったのに、言えなかったから」

 半分ほど白い液体が入ったグラスを両手で包みながら長いまつ毛を伏せて語りは終わった。これ以上は言わない、と線引きしたように。

「あの頃に戻りたいっすか?」

「あはは、取引?」

「いや、」

 そうじゃなくて、俺が言いたいのは……。話にでてきた青年に、何故かモヤモヤとしてしまう。どこからか聞こえる蝉の声が俺の気持ちに蓋をするように喧しく耳に入る。

「……会いたいっすか?」

 少女は一瞬ぽかんとしてから小さく笑って、

「わからないなあ」

 と楽しそうに言った。

 人間の心は魔界人より繊細だと聞いたことがある。否、繊細と言うより、何を考えているのかわからない。どうして少女は笑っているのかわからない。蝉の声と扇風機の音がハーモニーを奏でて、あの日を思い出したように少女は眩しそうに目を細めた。

 この気持ちは誰にも見せない、といったように。

 ズキン、と内臓が締め付けられるような感覚がした。

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