第2話

 ②

 

 息苦しさで覚醒する。柔らかい毛布のようなモフモフとした何かが顔中、いや、体中に巻き付いて離れない。

 ここはどこだ。ああ、地上だ。すぐさま答えは出た。少しおかしいくらいに冷静な脳は今の息苦しさからの脱却を優先した。モフモフをかきわける。ムニムニしてほどよく暖かい。ようやく光が見えてきて飛び出すと、

「ねこ」

 俺に巻き付いて呼吸を妨げていたのは一匹の黒くて長毛の猫だった。認識した瞬間、鳥肌がざわざわと草むらを駆けるように立つ。同時に、気持ちよさそうに丸まって眠る猫から飛ぶように距離をとった。

 俺は猫は大嫌いなんだ。何もせず自由気ままに生きているくせに何故か愛され重宝されている。契約を商売に、ハイエナのように群がるように生きる俺にとってはいけ好かないそのものだった。

 ふう、と息を整えてから己の場所を見渡す。窓から入り込む朝日、やたら広いリビングにテーブル。テーブル横のチェストの上に俺は立っている。昨晩、少女がミニベッドを作ってくれたが、それは今や憎き猫の下敷きになってしまった。今度ははあ、とため息をつくと廊下の方から足音が聞こえてきた。

「あれっ、もう起きてたんだね。おはよう」

 まだ肌寒さの残る朝、リビングに顔を出したのは少女だった。

 この家はやたら広いようだが、住んでいるのは般若男とこの少女だけらしく、基本的に家事は般若男がやっているみたいだ。昨晩の様子を見ての見解だが。それなのに朝早く、しかも制服姿でリビングへ顔を出した少女に、疑問符が浮かび、首を傾げる。

「おはよっす。いつもこんな早いんすか?」

 ダイニングキッチンに向かう少女に問う。

「ううん、違うよ。もうすぐ体育祭があるから朝練で皆早く集まるの」

 あ、体育祭ってわかる?と冷蔵庫の扉を開けながら振り向く少女に「大丈夫っす」と答える。商売心がピンと来た。これは、チャンスだ。

 魔法を使ってキッチンまでふよふよと飛ぶと、少女の手元にとまる。

「あの〜、お願いがあるんっすけど」

「?なあに?」

 

 学生独特の賑やかで喧しい声があちこちからする。見方を変えれば、青春の匂いが満ちている。

「どうかな、いそう?」

 近距離で少女の声が聞こえる。「お願い」はいとも容易く承諾された。この少女は能天気なのか。うまいこと利用されていることも知らず、協力している気分なのだろう。少女に言った「お願い」は、「体育祭というイベントだと契約したがる人間が多いはず。探してみたい」。少女は少しぽかんとしてから、ふむ、と口元に手を当てて「そうだね」と返答した。やはりチョロい。姿を透明に変えて少女の肩に座ってキョロキョロと学生共の間を縫って歩きながら視線を動かす。「願い」がある奴には独特の匂いと雰囲気がある。ふと、嗅ぎなれた匂いが薄く鼻に届いた。

「右斜め前」

「え?」

 脳が仕事モードに変わる。

「右斜め前、丸っこいチビ。匂うっす。声かけてもらえないっすか?」

 そう静かに抑揚なく言うと少女は突然あわあわともたついた。

「えっ、えっ。知らない人だよ?む、むり……」

「嘘でしょ」

 思わず言葉が出た。ここに来て人見知り?コミュ障?はあ、とため息をついて少女を見上げた。

「体借りるっすよ」

 すん、と背筋を無理矢理伸ばされたように魂の一部を少女の中に流し込み、瞬きをする。少女の魂はまだあわあわと汗を飛ばしている。

 少女を放っておいて、歩みを進めた。

「あの、」

「は?」

 生意気そうな雰囲気。周りの男子より小さな体。トゲトゲのハリネズミみたいな少年だ。警戒心丸出しのハリネズミ少年に、元々柔らかい声を更に優しくして言葉を続ける。

「なんだか暗い顔をしているようだったので、気になって……」

「は?お前には関係ないだろ」

 はっ倒してやろうか。先行き面倒な気がするし何より学生共の中から早く抜け出したいので、もう魔法を使ってしまおう。少し上にある大きくつり上がった瞳をじっと見つめ、囁くように言霊を呼び寄せる。

「′君の役に立ちたいのです′」

「……あ……オレ、は……」

 ハリネズミ少年の瞳は薄ら赤みを帯びて催眠状態になった。時が二人だけのものになる。

「足が遅くて……でも最後の体育祭くらいいいとこ見せたくて……」

「足が早くなりたいんですか?」

「うん……」

 欲望や願い、些細な祈り。ちっぽけなものばかりだ。他人だからそう思うのかもしれないが。

「その願い、叶えるっすよ」

「えっ?」

 赤みを帯びていた瞳が正気に戻り、世界は喧騒に包まれる。

「′君は何を対価にしますか?′」

「対価?代わりに差し出すってことか……?」

 この世界は等価交換だと誰かが言っていた。迷い悩んだ表情を浮かべながら俯くハリネズミ少年に、助け舟という悪意のない邪気を送った。

「おまかせコースもあるっすよ」

「え、じゃあ、それで……」

「まいどあり!」

 困惑したようなハリネズミ少年の視界から消えるように横をすりぬける刹那に、ハリネズミ少年の肩に触れ魔法をかける。仮契約、完了だ。自身の顔に影が差すような感覚がする。しかし、こんなの当たり前じゃないか。目には目を、歯には歯を。じゃないが。

 少女から魂を取り戻すと、少女は「びっっっくりした」と驚き戸惑いながらも何処か楽しそうに笑った。それでいいのか君は。

「契約はうまくいったの?」

「俺にかかればチョロいっすよ」

 他人は他人、それだけだ。

 

 体育祭当日。今朝は体育祭に行きたがるが仕事で行けない叔父さんを慰めるのに必死だったが、あっという間に最後のクラス対抗リレーのターンが訪れた。少女の運動神経?聞かないであげてほしい。昨日の放課後まで大縄跳びを猛練習していただけ偉いと思う。結果がついていかなくとも。

 先の障害物競走にて派手に転んで半泣きで戻ってきてクラスメイトに慰められていた姿は今朝のデジャブだ。

 さて、そろそろハリネズミ少年の出番だ。

 職員席の真ん中に姿を消して陣取り、足を組んだその上に頬杖をつき見守る体制をとる。数十メートル先でクラスメイトと固まって座る少女と目が合うが思わず逸らしてしまった。これから起こること、純粋な少女には軽蔑されてしまうかもしれない。まあ、そうしたら別の人間に間借りすればいいだけの話だが、何故かそれはしたくない気持ちがほんのり浮かんで消えた。

 選手が位置につく。ハリネズミ少年は三番目のランナーだ。初めて見た生意気そうな雰囲気より遥かに緊張が上回っている。つついて茶化したくなる。

 そうこうしているうちに、リレーが始まった。まあ、人間にしては早い方の学生共に、角砂糖一つぶんくらい感心する。二番目のランナーで順位が下がる。近付くバトン。さあ、ショータイムだ、ハリネズミ少年。

 わあっと歓声があがる。それもそうだ、一気に二人抜きしたうえに、遠く離れていた一位のランナーに近付いたのだから。ハリネズミ少年本人も少し驚いたように、でも、至極嬉しそうに瞳を輝かせながら走る。一位のランナーにタッチの差で次のランナーにバトンを渡した。観客席から拍手が起こる。待機していたクラスメイトに肩を組まれて賞賛されるハリネズミ少年。ほら、君が望んでいた展開だよ。よかったね。夢が叶ったね。でも、契約はまだ終わっていない。対価を、いただくよ。

 結果、ハリネズミ少年のクラスはギリギリ二位でゴールした。あと少し、のところで惜しかったと肩をおろすハリネズミ少年達の場に突如突風が吹き荒れた。近くには救護テントがあり、誰かがあっと言う声が聞こえたような次の瞬間、ごおっと風の音の後に悲鳴があがった。

 一番に、ハリネズミ少年の名前を叫ぶ声が高らかに響き渡った。ハリネズミ少年は突風にあおられたテントの下敷きになったのだ。職員達の力によりすぐテントの足は退かされたが、ハリネズミ少年は足をおさえたまま小さく唸りながら地に這っている。保健医が駆けつけ、様子を見ると「折れているかもしれない」。そう呟いた。

 歓声から一気に変わった空気に、感受性豊かそうな少女は顔を青くしている。遠くからでもわかる。でも、これで契約完了だ。じわじわと魔力が湧いてくる感覚。あの日と同じく、ぼふっと煙に似た何かに包まれ、また視界が変わる。なるほど、契約を終える度に魔力が戻るのか……。

 遠くから救急車のサイレンの音が聞こえる。ふとハリネズミ少年と目が合った。痛みを堪えながらも口角を上げる少年に、少し目を見開いてから、

「……ご契約、ありがとうございました」

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