第50話 見えてきた明日

 グラーベン通りをゆっくりと腕を組んで歩くルイさんとレイさん。


 私は、その後を付いて歩くだけで精一杯だった。


 さっきの衝撃が、まだ耳に残っているからだ。


 チラッとレイさんが振り向いた。


「ふふふ。おクスリが効き過ぎちゃったかしら」

「それにしても、さすが先生だよな。よく、このチケットが手に入ったよ」


 ふたりの会話が聞こえるけど、今は、そんなの考えている余裕がなかった。


『すごい、すごい、すごい、すごい』


 それしか出てこない。


 連れてきてもらったのはペータース教会でのコンサート。パイプオルガンもすごかったけど、編成は弦楽四重奏と若手ソリスト4人のミニマムなもの。


 でも「荘厳な」という言葉しか思いつかない。バロック式の中世の教会だけに、コンサートホールの響きとはまた違って、何とも重厚な音に包み込んでくる。


 今、ウィーンで一番と言われるコンサートだ。さっきの「音楽」がまだ、私の胸の中で震えてる。


 ため息と一緒に漏れるのは、白くなる息と「素敵」という言葉だけだった。


 先生が日本から手を回して2枚だけ取れたチケットにレイさんと聴きに来た。さすが先生と言うべきか、それとも「先生をしてもペア分しか取れなかった」というべきなのか。


 おそらく、後者だ。


 このレベルの演奏者が目の前にいる距離感は日本では味わえない。その分、座席数が少なくて全てが埋まっていた。


 おかげで、ルイさんは、送りと迎えだけのために付き合わせてしまった。貴重なお休みなのに、申し訳なかった。


 でも、その申し訳ない気持ちをはるかに上回る興奮が、私を包んでくれている。


「シズちゃんがこっちにきたら、コンサートを聴くだけでも、充実していくと思うよ」


 ルイさんとレイさんがいつの間にか挟み込むように歩いてくれた。


 すっごく大切にされている感じだ。


「そうよ。今日のコンサートみたいにカルテットとソリストは相性が良いでしょ? ウチらと一緒にミニステージを、い~っぱいしても楽しいんじゃないかな」

「それ、いいね! オーティオススも、歌姫を迎えて、さらにレベルアップできるかもだぞ!」

「そんな。私なんて」

「何を言ってるのよ。先生から、技術は確実にアップしてるって聞いてるよ?」

「え! そうなんですか?」

 

 あれだけ、毎回、罵倒され、怒られているのに、認めてもらえてるなんて。


「そうよ。だから、後は楽しむだけなの。音なんですもの。演奏する自分が楽しくないのに、聞いている人に届けられるわけないでしょ」

「ああ、レイの言う通りさ。みんなで、いっぱい楽しいことをしようよ」

「そうよ。歌だけじゃないわ。今日みたいに演奏を聴くのも、美味しいものを食べるのも、美しいものを見るのも、のも、みーんな歌のためになるんだから、いっぱい楽しみましょ?」


 私の心が、ザワザワと音を立てているのが、自分でもわかった。


 楽しいこと…… 私、何が楽しいんだっけ?


 思い出せなかった。


 確かに、今日のコンサートは感動したのは確かなんだけど。


 ルイさんとレイさんは、私が日本に帰るその日まで、毎日、私につきっきりでいてくれた。


 心が軽くなったのは事実だと思う。


 飛行機に乗る直前まで、自分では気が付かないフリをしていたけど、日本は、もう3月3日になっているのを手帳で確かめてる。


『富山大? それとも徳島大を受けたのかな? 合格発表は6日と8日か』


 結果を聞くことなんてできないのはわかってる。


 でも、ゆーが受けたかもしれない大学の合格発表日。いつの間にか、いくつもいくつも手帳に書き込んでいる。


 飛行機のシートに包まれながら、私は、その日付を何度も指で辿っていた。


  


 ・・・・・・・・・・・




 たった十日ちょっとだったのに、東京の街並みがひどく懐かしい気がした。


「よー」


 近寄ってきた宗一郎を苦笑で迎えた。


 久しぶりに会ったら、伸ばした髪をオールバックにして、オマケに革ジャン、サングラスだ。


『あ~あ、広田さんも付き合わされちゃったのかな? それとも、元から、こんな趣味だったのか。考えてみれば、広田さんの私服って、初めて見たわけだけど』


 ちょっと恥ずかしそうにペコッとしてくれた広田さんは三メートル離れてる。


 ポニテにピンクのスカジャンである。どう考えてもフミ高生っぽくないファッションだった。


 二人揃って80年代から抜け出してきたツッパリ・ファッション。なまじ広田さんの可愛さが目立つから、時代を超えたヤンキーのアベックカップルみたいだった。


 国分寺駅前での待ち合わせで、この姿は目立つ。


 こころなしか、通り過ぎる人が遠回りしていくのに苦笑していると、気が付いたら、身体を傾けた宗一郎に見上げられていた。その姿は、ヤンキーが因縁を付ける姿そのものである。


「で、どうよ?」


 顔を近づけながら、ハスに構えて聞いてきたのは宗一郎なりの気遣いなんだろうが、交番のお巡りさんがチラチラこっちをうかがっている。


 おそらく、絡まれているのかと心配してくれているんだろうなぁ。


 そんな宗一郎の肩をガシッと掴んで言った。


「気を持たせて悪かったな。ちゃんと受かってた」

「おぉおおお! クソッ! 結果は会ってからだとか言いやがって! クソッ! クソッ! クソッ!」


 バシバシ、背中を叩かれた。お巡りさん、こっちに来なくて良いですよってことで、オレは、宗一郎に抱きついてみせる。


「ありがとう」

「良かった! 良かったな!」


 バシッ、バシッ、バシッ


 いや、それ、マジで痛いんだけど。手荒い祝福から逃れると、目の前には広田さん。


「古川ッチ。おめでとう!」

「ありがとう。ご心配をおかけしました」

「ううん。信じてたけど。でも、ほらご迷惑をおかけしちゃったから。ちゃんと聞くまでは脚が震えちゃってたよ~」


 オレを、広田さんごと抱きしめながら「な? 言った通りだろ? コイツに心配なんてする必要ないってな」とニッコニコ。


 しかし広田さんは、イタズラな目で「あ~ら」と言葉を返した。


「心配だぁ~ とか言って、朝から何も食べられなかったのだーれかなぁ」

「お前だって、そうだったじゃねぇかよ」

「いーんだもーん。女の子は気が小さいくらいが可愛いでしょ?」

「お前は元から可愛いから、いいんだよ。よし、古川、早速だが祝勝会だ」

「ははは。サンクス」


 サラッとノロケる宗一郎をスルーするオレ。うん、オレも大人になったな。


「徳島の話も聞かせてくれよな」

「あぁ、まだ、そこまで向こうのことを知らないけどな」


 オレ達は、駅から三分の焼き肉の店で、ウーロン茶の祝杯を挙げた。さすがに国分寺は「治外法権」ではないのである。


 さすがに東京の焼き肉は美味い。たぶん。


 さんざん徳島ネタと宗一郎の旅ネタを交換し合いながら満腹になった後「で、さ」と切り出された。


 半ば予想していたから「新井田さんのことだろ」と素直に答えられた。


 広田さんが居ずまいを正したのは、オレが名字呼びをしたせいなのは予想の範囲だ。

 

 宗一郎が、サングラスを外して話してきた。


「余計なお節介だってことは、よくわかってる」

「いや。お前が心配してくれたのはわかってるよ。入試のことも含めて、すっごく心配を掛けて悪かった。広田さんも、ありがとう」

「なによ。そんな。なんだか吹っ切れた顔しちゃって」


 ちょっとご機嫌斜めである。


「いや、吹っ切れたって言うか、いや…… ひょっとしたら吹っ切れたのかもしれないな。しょせん、オレにはもったいない人だって思い知ったからね」

「シズの気持ちは、考えてくれたんだよね? そりゃ留学を決めたのは本人だし、でも、でも古川ッチが後輩ちゃんとって、誤解していたわけで」

「いや、留学だって、佐藤さんのことだって結果に過ぎないんじゃないかな? 結果は変わらなかったと思うよ」


 とりあえず、新しい関係のことは、置いておこうっていうのは、さんざんにシュガーに言い聞かされてきたことだ。


「え? どういうこと?」

「たぶん、誠実にオレみたいなヤツのことを心配してくれる二人だから話しちゃうけど、もう、とっくに彼女の気持ちは離れてたよ? ただ、彼女がそばにいてくれたのは試験前のオレのことを気遣ってくれてただけだったんだ。そんな彼女の姿を見るのは、正直、痛々しかったからね」

「古川。あのさ……」


 目を丸くして、オレのことを見つめている広田さん。


『ん? 何を驚いている? あぁ、やっぱり知らなかったのか。あんまり、そういうことを彼女は話さないもんね』

  

「あの、私、あなたに返せないくらいの恩を感じてるんだ」

「え? あ、やめてよ。オレ何にもしてないから」

「ううん。どう思われようと勝手に恩を感じてるから、それは許して? でもね、恩を感じてるからこそ、私、正直に知ってることを話すんだけど」

「うん」

「シズは、やっぱりユーがいないとダメなんだと思う。たぶん、本人も、それを自覚してないと思うくらいなほど。ヘンな言い方になっちゃうのは承知してるけど。自覚できないくらい彼女は君を必要としているの」

「ありがとう。たぶん、必要としてくれる部分があったのはわかってるよ。さもないと、哀しすぎるからね。でも、さ」


 ゆっくりと息を二つしてから答えた。


「ウワサで聞いてるよ。もう、ウィーンに行ったんでしょ? 卒業式に合わせて、いったん帰って来てるみたいだけど」

「違うよ、違うの。向こうを見に行っただけなの。まだ留学してないよ!」

「でも、すぐに、また行くんだから同じだよ。卒コンが終わったら三日後に出発って聞いてるよ?」

「そ、そうだけど……」

「そう言えば、卒コンの翌日の件って知ってる? それがなければ、サッサと日本を離れて、早く向こうに馴染みたいって、翌日には発っていたらしいじゃん。だとしたらにとって、何が一番必要なのかわかるだろ? 少なくとも、それはオレじゃないんだよ」


 萩原さんは「早く先生と暮らしたがってる」って言ってた。まあ、そうなるよね。


「え? なに?」「何だよ、翌日って何の話だ?」

 

 二人がクイ気味に反応してきた。


「萩原さんから聞いたんだ。元々はウチワで送別会をやろうって話があってね。萩原さんが中心になって声を掛けてるから予定を調整してくれたんじゃないかな? とりあえず、早くあっちに行きたいのを、萩原さんが引き留めた形らしいよ。で、その会にオレも呼ばれてさ。行こうと思ってたんだけど、さすがに、ちょっと無理だった」

「え? お前が呼ばれてる? 萩原さんがお前を呼んだ?」


 宗一郎が天井を向いたのを無視して、オレは続けた。。


「あぁ。最初は行くって返事をしたんだけど、オレが顔を出したら、やっぱり、いろいろと周りが気を遣っちゃうだろうからね。あ、卒コンは聴きに行こうと思ってるよ?」


 何とも言えない沈黙がテーブルを支配した。


 それから長い、長い沈黙を破って広田さんが「ね?」と切り出してきた。


「ホントに、古川ッチは、それで良いの?」

「良いのって?」

「あんなに好き同士だったのに!」

「いや、好きだったよ。今でも、たぶん、彼女のことが好きだ。大好きだと思うよ」


 ふたりの目がジッとオレに注がれていた。


「だけどさ、こんだけ身分違いなんだよ? いくらオレが好きでも、彼女がオレのことを好きでいてくれるとは限らないじゃん」

「違うよ、違う! シズは古川ッチのことだけが好きなの! 今でも大好きなの!」

「ありがとう。そう言ってもらえるだけでも、少し救われるよ。たぶん、今でもオレのことは、少しは中にあると思う…… 思いたいよ? でもさ、実際にはオレなんかよりも遙かにすごい人のそばにいれば、そいつは彼女の進みたい道のはるか先にいる偉大な男だよ? 彼女が誰を選ぶのかなんて、最初から答がわかってるじゃん」


 たぶん、ふたりが真剣に心配してくれているおかげだったんだろう。自分でも思ってもみないほど淡々と、心の中につかえていたものを語れた気がした。


 そこから、ギュッと目をつぶってから広田さんは、決心したように言葉を出してきた。


「許してもらえないかな?」


 広田さんが、なぜか涙をこぼしてくれてる。


 オレに同情してくれてるのかな? でも、許すって言葉は、今のオレと結びつかないんだけど。


「許す? 何を?」


 チラッと宗一郎の方を見ると、ヤツがその目を見つめ返した。


 すごい、光通信じゃん。以心伝心ってやつだ。


 オレもしーとは簡単にできた時もあったっけ。

 

 涙を落ちるに任せて広田さんは真っ直ぐに見つめてきた。


「シズのしたことは許せないと思う。私があなたの立場だったら、許せるかどうかわからない。でもさ、私は許してもらえたの」

 

 涙をポロポロこぼしながら話す背中に宗一郎が、そっと手を差し伸べていた。


「私、ホントにバカだったよ? もっとバカだった。初めても、なにもかも全部渡しちゃって。あげくは妊娠だよ? 病気だって。最期は自分の命さえだもん。信じらんないほどの大バカ」


 宗一郎が背中をさする手に力が込められている。けれども、広田さんの言葉を止めようとはしなかった。


「シズも同じくらいにバカだと思う。でも、私は許してもらえたの。夢を見た…… 悪夢の中にいたことを、全部、ぜ~んぶ認めて許してもらった。私の言ってることが、どれだけ甘えているのかもわかっているつもりよ」


 だけど、と広田さんは言った。


「1回だけでいいの。チャンスをもらえないかな」

「チャンス?」

「私が愚かなコトを言っているのはわかってる。大きなお世話だし、バカにすんなよって怒るかもしれないけど。でも、私の大事な親友にもチャンスをあげてほしいの」

「いや、大きなお世話だなんて思ってないよ。でもさ、オレが許すって…… その辺はよくわからないけど、オレが許すとか許さないとかって問題じゃないと思うんだけど?」


 ふたりの優しさに本気で感謝しているからね。


「あのね…… 彼女のことを一番わかってるのはあなたかもしれない。でも、親友だからこそ、わかることもあるの。お願い、もう一度言うわ。あの子を許してあげてください」


 お願いしますと、テーブルにくっつけるようにして頭を下げる広田さんの横で、宗一郎までが同じマネをしている。


「ちょ、ちょっと! やめてよ。ふたりにそんなことされたら、立場ないじゃん。わかった、わかったから! で、オレは具体的に何をすれば良いの?」


 ゆっくりと頭を上げた広田さんは「お別れの手紙を書いてあげて」と言ったんだ。


 


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

作者より(今回はくどいです)


今話の日付は、一気に進んで卒業式前になりました。

宗一郎達は乾坤一擲の賭けに出ました。

広田さんのセリフにご注目ください。

コンセプトの一つである「you」と「she」を使いつつ

呼び方を微妙に分けています。この使い分けは、ほぼ全部、意図的です。

イッチーと佳奈が、じっくり何度も話し合った結果として

最終的なセリフを佳奈が引き受けてもらったというのも

唯一残された切り口がここしかなかったからです。

恋人の前で「自分のバカ」を話すというのは

そうとうな苦しみを持っているわけです。

そのため、イッチーは、佳奈を支えるため

ずっと背中をさすっています。

そして「祐太なら、その苦しさをわかる」と思えるからこそ

この作戦に出たわけです。

こうすれば祐太は絶対に話は聞くと信じていました。


というか、作者もここでかなり悩んだんですけど

今残されている打開策は、

ほとんど「クモの糸」のレベルでも

おそらく、これ以外にないのだろうと思いました。


日曜日にエンディングの予定です。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 



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