第47話 見えなかったもの

 ホテルの目の前にあるファミレスで待ち合わせたのは7時半。


 約束よりも10分早く出たのに、既にシュガーは座っていた。家出少女並みの大きな荷物だ。修学旅行で使った感じのスーツケースまで横に置いてあった。


「お待たせ」

「いえ。私も今来たところですから!」


 どう見ても、もっと前からいた雰囲気だけど、そこは突っ込むと逆に気を遣わせてしまう。


 サッサと注文して、話に入った。


 今日一日で大進展があったらしい。


「お父さまに、本当に感謝をしてます。あんなすごい弁護士さんが味方になってくれるなんて」

「役に立って良かったよ」

「それと」

「ん?」

「今日一日、連絡しなくてごめんなさい。中断させるのが嫌だったんです」

「あ、たぶん、そうかなって思ってたから」


 オレが弁護士事務所から引き上げて、その後、待ち合わせの時までメッセージが来なかった。忙しいのもあるんだろけど、おそらく、オレを気遣ってのことだってわかってた。弁護士さんと一緒なんだし、心配する必要は無い。


 その意味でも弁護士さんに頼んで良かったと心から思ったよ。


「弁護士さんが、すっごく頑張ってくださって。それにお昼もご馳走して頂いちゃったんですよ。裁判所の入ってる建物の食堂でカレーでした」

「ってことは、親権とかそっちの手続き?」

「はい。未成年後見人っていうのがあるんですね。すごいんですよ。動く順番を全部決めててくれてたから、すっごく効率的で。書類も、出せば良いだけにしてくれるんです。私なんて自分の名前を書くだけでした」


 この「未成年後見人」って言うのを教えてもらった。相続者が未成年者だと契約行為や財産管理ができないため、法的な代理人となる制度ということ。普通は有力な親族がなるんだけど、いないときは弁護士になってもらうことができる。


 シュガーはまだ17歳だから、それを使わないと、何もできないらしい。


「それで、申請だけして、あっちこっちを回ったんです」


 二人でチーズハンバーグセットを食べながら今日の話を順番に聞いていた。でも、さっきから言うに言われぬ「闇」をまとっている気配があるんだよね。


 それはオレから言うべきでは無いだろう。話したいときに話せるように、オレは待つだけだ。


 タイミングを合わせて、二人は食べ終わった。


 最初に弁護士さんはシュガーの母親の行方を探そうとした。なんと住民票がそのままになっていた。つまり、書類上は今でも家族三人で住んでることになってる。


 お母さんが男と逃げて離婚したのはシュガーが小学校に上がる前の話なのに。

 

 まず、この事実に驚いた。


 それを確認した弁護士さんが、次にしたのは、最初に教えてくれた「未成年後見人」の申請だった。ときは、弁護士になってもらうことができるのだから。 


 とは言え、選定まで時間が掛かるし、書類上は「母親」が残っているから余計に難しいらしい。


「下手をすると、選定されるよりも私が18歳になる方が早いくらいなんです。でも申請中ってことで、その後は、ごり押ししてました。すごかったですよぉ」


 クスクス笑うくらいだから、よほどだったんだろう。一緒に、ドリンクバーにお代わりを取りに行く。オレはブラックコーヒー。シュガーはアールグレイを選んだ。


「ホント、いくらクズでも、人間がひとりいなくなるって大変なんですよね~」


 しみじみ。


 法的な決裁事項はたくさんあった。それを進めるために、弁護士がコネと技を使ったらしい。父さんが探してくれた弁護士さんは、ものすごく親切な上に優秀で、しかも辣腕を発揮してくれたらしい。

 

「どうやら『家裁に申請中です』という事実が必要だったらしいですよ」


 あんまり敵に回したくない弁護さんだよなぁ。法のスレスレって言うか、微妙にアウトに踏み込んでいる気がするんだけど。


「あ、それは言ってました。でも、こんな可愛い女子高生を不幸から救うんだから、何をやっても、たいていのことは正義ですよって言ってました」


 真面目な顔をして断言したらしい。


 う~ん、その人、親切なんだろうけど、なんだろうか?


 それから弁護士さんと、一度家に入った。残された通帳類とか保険関係の類いを片っ端から確かめる必要があったらしい。


「そうしたらすごいことがわかっちゃったんです」


 紅茶を持ってツッとオレの横に並んできた。


 近い。


 何とも言えない視線で、オレを見つめてきたんだ。さっきの「闇」が濃くなった。


 ん? なんだ、これ?


「これからは、私を一億の女って呼んでください」

「ん? 一億? そんな安いの? もっともっと価値があるよ」

「え? え? え? やだ、そんな、おだてても、あの、その…… あの、それなら、今日あたり処女いりま ギャン! いったーいですぅ」


 おでこをさするシュガーに、オレは解説する。


「だって、普通、オレ達が交通事故にでも遭って死ぬと、生涯賃金の計算は2億は行くぜ?」

「あ~ そっち。っていうか、おでこ、まだ痛いですぅ。慰めて」


 おでこを出してきたから、今度はデコピンのマネをしたら、慌てて顔を引っ込めた。


「あのぉ、違うんですよぉ。私に生命保険が掛かってたんです。それも三千万円が3つも。他の小さな契約も合わせると約一億です」

「え?」

「全部、3年以内の病死が含まれないタイプだから健康診断がいらなくて、事前告知だけで良い契約ですね。普通なら高校生に、こんな高額な契約なんて掛けないし、保険会社の方でも引き受けないそうです」


 黙って、頭を撫でてあげることしかできなかった。


「それと借金もあることがわかりました。全部足すとお金が5百万くらいですね。弁護士さんに言わせると筋の悪いところからで、でも、利息を入れると一千万円を超えるらしいです」

「えー」

「ホント、危ないところだったんでしょうね。契約は去年の暮れです。掛け金なんて払うお金ないのに、どうしてたんでしょうねっていうか、そのお金の話は、また出てくるんですけど」

 

 言葉が無かった。マジモンのクズだった。


「だから、矢野さんには感謝しなくちゃ。命の恩人ですよ、マジで」


 目の前の冷めかけた紅茶を一口飲んだ後、身体を寄せてきた。オレはその手を握るだけだ。震えてる。そりゃ当然だ。


「もちろん、貯金はゼロでした。むしろ、お給料の前借りが半年分くらいあるとかで、それ以上は、が守られないと出さないって言われてたらしいです」


 つまり、掛け金が払えなくなるってことだ。


「ギリギリだったか」


 実行寸前の可能性が高いよな?


「えぇ。弁護士さんの予想では、給料の前借りをして保険料を払っていたんだろうって。それから、クソの働き先の親方が言ったらしいんですけど」

「まさか、娘はいつ紹介するんだ、とか?」


 それが、さっきの「交換条件」ってやつだろう。


「え! なんでわかるんですか」

「当たった?」

「もっと露骨な言葉だったらしいですけどね。弁護士さんが『さすがにフィルターを掛けさせていただきます』って言った感じの話らしいです」


 二人揃って、ため息しか出なかった。 


「というわけで、相続放棄の手続きを取ってもらうことになりました。弁護士さんがいなかったら、もう、たぶん、何から手を付けて良いか、どうしていいかも分からなかったと思います。本当に感謝です。お父さまに、くれぐれも、ありがとうございますと」

「わかった」

「それで」

「まだあるんだ?」

「この分だと、あの家のカギも誰に渡しているか怪しいので、あそこに戻るのはやめるべきだと言われました。先輩のおかげです。もし、あのままあそこにいたら、私、ホントにどうなっていたか」

 

 ハラハラと涙がこぼれてきた。そりゃ、自分の命が危なかったとか、保険の掛け金のために男に差し出されていたかもしれないなんてことを知ったら、そりゃ、怖いにきまってる。


 ひとしきり涙が落ちきるまで、オレは肩を抱いていた。だって、それくらいしかできないじゃん。


「とりあえず、東京都にはDVで身の危険を感じた女性用のシェルターがあるんで、そっちに入れるように明日交渉してくれるそうです」


 はぁ~ 弁護士さん、マジで優秀すぎるほど優秀だった。


「このままだと、この先、何があるかわからないので名字も変えた方が良いって教えてもらいました」

「そんな簡単にできるの?」

「手続きに時間が掛かるそうですけど、の母の旧姓になれるようにしてくださるそうです、っていうか、母の失踪の手続きもやってなかったわけで」


 そうだよ。お母さんは幼いシュガーを残して男と失踪したんだ。離婚って聞いてたけど、その手続きは取られてなかったわけで。


 ん? 失踪…… いなくなった…… 


 失踪の手続きもしないまま十年以上?


 いや、まさかだよね? 


 オレは、最悪の殺された可能性をシュガーのために心のなかで懸命に否定した。いくらクソだと言っても、長い間一緒に暮らしていた「自分の父親」が母親を殺した犯人だなんて可能性は考えたくないだろう。

 

 まあ、自分を殺す計画を立てていた相手に、今さらだけど。

 

『大丈夫、シュガーのお母さんは、どこかできっと生きてるから』


 でも、自分が信じてもいない「その一言」を安易に出す勇気は無かったんだ。


「とりあえず、学校では先取りして田中珠恵になります。あ、そっちはもう学校に連絡してくれました。学校も、それを受け入れてくれるって言ったそうです」

「たなか、たまえ、ね」


 しかし、すごい。そこまでを一日でやってくれるなんて。スーパーマンだな。


 あ~ そういう弁護士が、将来、友達にでもいれば良いんだろうけど。


「ふふ、佐藤から田中になるって。私、よくある名前シリーズしかないんですかね?」


 無理して笑っているのが痛々しい。


「先輩。本当にお願いがあるんです。シェルターに行ったら、たぶん、しばらく会えません。あの「ストップ」」


 その目を見たら、もうヘンなこだわりを捨てるべきだって思ったんだ。


「それはオレが言うから」

「え?」

「珠恵。君の全部が欲しい」

 

 きっと大げさに喜んでくれると思ったのに、涙をポロポロとこぼしながら「ありがとうございます」と言われたオレは、立場を無くしてひたすら狼狽えるしかなかったんだ。


 だから……


 さっきから、なんどもスマホが震えていることに気付いても、敢えて無視していたんだ。



・・・・・・・・・・・



 悩みに悩んで、でも、結局「やめる」という選択肢は採れなかった。でも、ためらいが、電話するのを後へ後へと押し込んでしまった。


 学校を出てから、家に着いてから、落ち着くために水を一口飲んでから。


 早く掛けたい気持ちと、後に伸ばそうとする自分がせめぎ合う。


 時計は8時を回った。


『もうすぐ、お母さん、帰って来ちゃうよね』


 思い切って、アプリからゆーを選ぶ。


 音声通話。


 呼び出しが鳴る……


 出ない。


 タイミングが悪かったのかな?


 深呼吸して、もう一度。


 掛けたときに「ただいま~」と帰ってきた。慌てて切る。


「お帰りなさい」


 それだけ言って、自分の部屋。


 3回目のコール。


 また、出てくれない。


「やっぱり、ダメなんだよね」


 自分が何をしても、なんでも認めてくれるし、なんでも応援してくれた。優しくて、包み込んでくれる人だから、自分がどんなワガママを言っても、最後は必ず許してくれる。


 今までに何回ケンカしたかわからない。覚えているケンカは、全部、自分のせいだったね。そのくらいの自覚はある。


『最後は、必ずゆーは許してくれた。でも、それだけじゃないからすごいんだよ』


 謝るのは自分のためでもあるのを、ちゃんと知っているのがゆーだ。


『私がどんなに意地を張ってみても、ちゃんと、少し経つと私から謝れるようにしてくれるんだよね』


 すごく大きくて、優しい人。


『だけど、一度決めると絶対に変えない頑固なところが、昔っからあるんだよね』


 そんなのわかってたはずだ。もうちょっとだけ、自分が我慢していれば良かったのに。例え心が佐藤さんにあったって、ゆーは、まだ好きなふりをしてくれようとしてた。


「あぁ、あの時、ゆーの口から『さよなら』さえ言われなければ、もっと違っていたかもしれないのに」


 何度、そう思っただろう。


 いや、そもそも、留学なんて考えなければ、ゆーの横はずっと私だけだったはずだ。


 別れを告げられてから、いや、そのずっと前から「なんで、歌を取ってしまったんだろう」と後悔ばかりしている。


『でも、仕方ないよ。もう…… 今さら戻れないもん』


 もう、私は汚れてしまった。


 これから、もっと汚れていくのに、今さら言えない。


『二番目でもいいから』


 そんな風にすがりついても、ゆーは絶対に許してくれない。そんなのわかってる。


 不思議と、頭に浮かぶゆーは、必ず笑顔で言ってくれるのだ。


『しーは歌の世界を目指すんだろ。オレなんかにかまってないで、全力で進むんだ。応援するから』


 笑顔の拒絶だ。


 いっそ、怒ってくれれば、謝り続けられるのに、と自分勝手なことを考えてしまう。


 笑顔で応援されてしまえば、何を謝れば良いのかさえわからない。


 頭の中に浮かぶゆーは、常に優しすぎるほどに優しくて、その度に、絶望が心に残るだけ。


 4度目のコールも、けっきょく、出てくれなかった。


 諦めた、その時、スマホがバイブした。


「ゆー? 先生からか」


 そこに失望があったのは確かなこと。それでも、酒井先生からの電話に出ないなんてありえない。


「静香です。先生、今晩は。お電話ありがとうございます」


 意識して、トーンをあげる。


「私だ。さっきノエルと話したんだがね」

「はい!」


 いったい、何を言われるのだろう?


「どうにも、レッスンに心が入ってないようだ」

「すみません」


 絶不調は続いていた。特に視唱すると、音程などのテクニカルなところはともかく「お前のは、歌になってない!」と楽譜を投げつけられるのも、毎回のことだった。


「技術的には高校のコンサート程度は問題ないんだ。学校の練習なんていいから、いっそ、ウィーンに行ってみてはどうかという話になったんだ」

「ウィーンにですか?」

「もちろん、私は行かれないので、ひとりで行ってもらうぞ。君の予定に問題はないか?」

「は、はい! 先生のレッスンと合唱部以外、予定は入っていません」

「そうか。もうパスポートは持ってるね?」

「はい。この間受け取ってきましたので」

「よろしい。では、留学先の見学もかねて、来週だ」


 おそらく、静香の返事の前に、巨匠の腹の中では、もう決まっていたのだろう。断るどころか、迷いすら見せられる雰囲気では無い。


「えっ、あ、は、はい」

「日程や、エアチケットのことは、明日、前沢から連絡させる。向こうではオーティオススのルイ君達が世話をしてくれるように。お母さんにも、そう話しておきなさい」


 やっぱり。もう、その形で決まっていたのだ。


「はい! わかりました。先生、ありがとうございます」


 スマホを持ちながら、お辞儀をしてしまうのは日本人ならではだろう。


「ありがとうございます」

 

 お礼をもう一度言ってから「おやすみなさいませ」と電話を切った静香は、部屋の真ん中で、ただ、立ち尽くしていた。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

作者より

今話の手続きを行うためには、どう考えても最低2週間は掛かります。未成年後見人に選定される前に、これらの手続きを取ることはできません。ちなみに相続放棄の手続きも、1~2ヶ月掛かります。

それと、警察署にある「引き取り人のない遺体」は行政がします。今回はタマちゃんが遺体の受け取りを拒否というか「引き取り手続きが未成年のためにできない」という理由をつけて、正式に放棄しました。警察は大変ですが、それはお仕事です。


タマちゃんの記憶の中で、お母さんは突然いなくなりました。「男と逃げた」とか「離婚した」とかいうのは一方的に父親から聞かされた話です。小さいときから父親に繰り返し言われていたら「ああいうクソだから、お母さんが逃げ出しても不思議はない」と思える点もあって、信じ込んでしまったのでしょうね。弁護士さんにも珠恵は会ったことはありませんが、子どもだったら、そういう人と会ってなくても不思議はないわけです。ただ、心の片隅に「自分を連れて行ってはくれなかったんだな」という残念さとか寂しさは、ずっと持っていたかもしれません。


オーストリアは「観光」扱いだと、それが留学に絡むことであってもビザはいりません。この時期だと、2月下旬だと安いチケットも取れます。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



   




 

 


 

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