憧憬





 憧れだったんだよ。


 煙雨の中。

 彼女の姿だけを道標に遅い歩みを続ける。


 図書館の。学校じゃなくて、市の司書さんが憧れだったんだ。

 覚えているかい。

 私は小学校ではよく片手で本を読んでいただろう。

 よくまああんなに重たい百科事典まで、小さくて、しかも片手で挑んだと感心するけれど、当時は必死。うん、楽しかったけどね。必死で。司書さんみたいになりたくて。話した事は一度もないんだ。ただその片手で文庫本を読む姿が。顎を少しだけ引いて、一枚いちまいをめくる姿が、すごく綺麗で、清らかで、静かで。彼女みたいになりたいって。強く思ったんだ。

 

「覚えている。すごく」

「そうか。今の君にも覚えられているくらいだから、私も彼女に少しは近づけてたのかな?」

「市の図書館に行くのかい?」

「いいや」

「梅田、さん一人では行けないのかい?」

「ああ。私一人ではあそこから離れられなかった………おや。私の名前も覚えていたのか?」

「梅田さんだって、俺の名前。覚えていただろう。野中泰智って」

「ああ。どうしてかな。君を見た時に、パッと頭にその名前が浮かんだんだ」

「記憶はあるのかい?」

「うーん。ない、かな。あんまり。どうして花嫁衣装を着ているのかは覚えていないし。君は今何歳だい?」

「三十九歳」

「じゃあ私も三十九歳だろうけど。今の姿。九歳までの記憶くらいしかないかな。ただ九歳ではないと認識もしている」

「そうか」

「野中さん」

「何だい?」

「いや。私の名前は覚えているのかなって思って」

「氷雨さん」

「覚えているのか」

「ああ」

「そうか」

「ああ」


 そうかそうかと声を弾ませる彼女の後姿から不意に目を逸らしたくなった。

 怖くなった。

 彼女は幽霊なのだ。

 つまり、


 もう、死んでいるのだ。


(やばい)


 心臓が恐怖できしむ音がした。











(2022.6.30)


 

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