憧れの人
釘付けになった。それは甘いときめきではなく、磔の感覚に近かった。イオリは完全に自身のコントロールを失い、立ち尽くした。彼だ。昨日イオリに指示を出してくれた人だ。
彼は、何も宿していないかのような黒い瞳だった。他のパーツは小さい。身長も高くはないしどちらかといえば細身だった。
それより、イオリにとってショッキングなのは、砂星桐が女性でないことだった。
また会ったな。砂星桐は、口の動きでそう囁いた。その顔は不自然なほど笑っているように、イオリには思えた。
案内係が困ったようにイオリに呼びかける。砂星桐が何かを探るような目でイオリを見つめてくる。イオリは血の気が失せて、体が石のように重くなっているのを感じた。
「あの・・・握手の方を・・・」
イオリに握手などできるわけがなかった。
『あとで話したい』。イオリはそんな状態であったのに、砂星桐の唇がそう動いたことだけはどうしてだか鮮明に読み取ってしまった。
それから数時間が経ち、イオリが本屋を出たすぐの場所で、帰ろうか帰るまいか曖昧なところで悩んでいると、砂星桐は本当にイオリの元にやってきた。二人は他に客のいない喫茶店【ばあむ】に入った。
最奥の席に隣り合って座る。観葉植物とオレンジの植木鉢、ゆったりとしたジャズが居心地のいい雰囲気を醸し出しているが、イオリには作用しなかった。
マスターにコーヒーを注文した砂星桐は、イオリに目で注文するように指示した、ようにイオリには思えた。イオリはレディグレイを注文する。マスターが持ち場に戻ったのを確認すると、砂星桐は一息ついて言葉を放つ。
「俺の恋愛小説に協力してくれないか」
まさに単刀直入といったところだ。冒頭の前置きも一切ない。
当然のことだが、イオリは意味を理解できずに固まる。
「見てごらん」
するとキリは自身の右手を差し出してくる。太陽の痕跡のない、白くて長い指がイオリの視界の中に入る。イオリは僅かに逃げ腰になる。
よく見ると、キリの指先は不自然なほどぷるぷると震えているではないか。
「俺は女性と触れるのが恐ろしいんだ。簡単に言えば・・・」
遠くでマスターがコーヒーの受け皿を鳴らした。
「女性恐怖症だ。特に触れられたり触れたりができない。話してる今も、手のひらに冷や汗をかいてるよ。だから、ああいう握手会は、本当は後でとても苦しむんだ」
キリの掌は確かに、汗が滴りそうなほどにはじっとりと濡れていた。
ジャズの曲が変わる。ピアノの効いた、しんみりと冷えた音が、空気に伝わっていた。
「しかし次に書くことになったのは恋愛小説。それも、異性間の!恋愛なんかしたことがないが、書けないと言うわけにはいかない。俺は砂星桐だ」
こんな人だったんだと、イオリは混乱と失望に迷い込んで、俯いた。
キリが一方的に話を進めようとすると、マスターが飲み物を運んでくる。
イオリは冷たいレディグレイにおずおずと唇を触れさせる。掠れた香りも何も感じられない。今のところイオリはただ怯えているだけで一言も発していない。
「俺が恋愛小説を書いている期間だけ、貴方に3階で住んでほしい。3階は今誰も使っていないから。家具は一式揃っている。鍵もかけられる。俺が行き詰まったら、色々と助けてほしいんだ」
見ず知らずの、男性と住むだなんて、そんなことがイオリにできるはずがない。それを目で伝えると、キリはあっけらかんとして答えた。
「大丈夫、俺も貴方が怖いから」
大好きな作家の家に住み、アシスタントまがいのことができると考えてみると、ファン冥利に尽きるとも言えなくはない。
キリが勝手に話を進めていく間、イオリはこの場所からどうやって逃げ去るかだけを考えていた。
「しかし、同じ場所で生活するだけでは、恐怖を克服することにはならない。そこで」
キリはノートのまっさらなページと、頭にユニコーンがついたボールペンをイオリにスッと差し出してきた。
「タスクを考えたい」
イオリは目をぱちくりさせ、膝の上で掌をぎゅっと握り込んだ。
この人は私の意見を聞く気がないのか。
「俺は恋愛小説のために、『ときめく』という感覚を理解して把握しなければならないんだ。まあ、今すぐ恋愛をするのは流石に無理だろう。まずは異性が怖いと思う気持ちを無くさなければ」
だから協力してほしいとキリは言う。キリはこれらの丁寧な説明で誠意を示しているつもりだった。
「貴方だって、男性恐怖症を治したいでしょう?」
「他の人に・・・頼んでください・・・」
イオリの掠れた声に覆い被さるように、キリが捲し立てた。
「貴方は俺のファンだ。貴方は俺に近づくことができるし俺は作品のために頑張れるからお互いにメリットがある。それに同じ恐怖を知っている。そして俺には時間がない」
沈黙が生まれる。キリが答えを待つように、イオリの瞳を見つめている。イオリにはそれが高圧的であるように思えたし、キリが女性に恐怖を抱いているなど信じられなかった。
同じ恐怖だと決めつけられたことに、イオリは胸がもやつくのを抑えきれなかった。今まで男性に対して抱いてきた恐怖が勝手に解釈されて否定されたような気分だった。
イオリが何も言えずに黙っていると、キリは眉を下げた。
「俺ばかり捲し立てて、申し訳ない」
キリが頭を下げると、ずっと震えていた自身のつま先が視界に入った。
「実は少し緊張していてさ。自分でも、何言ってんだかあんまりよくわかってないっていうか・・・変なことを言ってるかもしれないな」
キリが苦笑いする。その唇の端は、きちんと笑えていなかった。緊張していたのだ。怖い人では、ないのかもしれない。イオリの脳内に、砂星桐の物語が蘇る。美しくて、でも醜さを排除することはしないで、一緒に抱きしめるような物語の数々を。イオリはキリとは目が合わないようにしながら、キリの首元の方に視線をやる。
どれほどこの人の物語に命を延ばしてもらってきただろうか。そう思った時、イオリは愚かにも、頷くことを一瞬考えてしまった。
そしてその時だ。キリが呟いたのは。
「そう言えば会ったのって、昨日だっけ?」
それは本当にただの呟きの声だったか、少なくともイオリにはそうは感じられなかった。イオリの背筋に戦慄が走る。あの時、イオリはキリに助けてもらったと感じたのだ・・・。
この長い沈黙の間で、レディグレイが冷めてしまった。
重圧に耐えかねたイオリの首がとうとう縦に小さく傾く。
キリはニヤリとした。キリにとって自分の作品を最上により近づけることは、至上の喜びである。自分のことより自分の作品の方が大事なのだ。
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