運命の握手会

 

 この夜、イオリは一冊の本を胸に抱えて布団にくるまっていた。発作が起きた日の夜は、ベッドの中でその本を読み返すのが習慣化しているのだ。

『砂星桐 童話集』と書かれたそれは、分厚い児童書だった。イオリは表紙の名前を、うっとりしながら指でなぞる。砂星桐(スナボシキリ)。イオリが心の拠り所としている作家だった。

 人魚や妖精といったファンタジーな世界観、その中に優しくもあたたかいメッセージが込められた物語たち。イオリはそれらが、自分の命よりも貴いと信じていた。心酔、に近いかもしれない。涙目のイオリは本をゆっくりと開いてページを一枚ずつ指でそっと掴む。そうして目を通していき、指は32ページでぴたりと止まる。一番大好きな物語。

 彼女はそれを朗読し始める。一人の部屋の毛布の空間の中で、砂星桐の世界がぼうっと浮かび上がる。

「馬は、周りの嘘に騙されませんでした。自分はライオンのことを愛していると気づいたのです」

 白い毛並みの美しい馬、馬を心配する友達の蛙、馬に嘘を吹き込む人間、誰かを傷つけることを恐れているライオン。全てのキャラクターが、イオリの眼前に愛おしく浮かび上がってくる。

「馬はライオンに寄り添い、ライオンは馬と向き合って自分自身と戦うことを決めました」

 最後の行を読み終わった時、イオリの胸は自然と穏やかになっていた。深呼吸をすれば、もう何事もなかったかのように気持ちが晴れやかになる。パニック症が出た夜は、いつもこうやって生きていると再確認してきた。

 イオリはふと顔を上げ、壁にかかっているカレンダーを見上げる。明日は日曜日で、その枠の中ではピンク色のご機嫌な丸文字が載っていた。

『砂星桐さんの握手会!!』

 砂星桐が女性であろうことはほぼ間違いない。イオリはSNSでの情報や噂を元に、そう確信していた。作風が御伽噺風であったり、文章がやわらかいことも根拠の一つだ。だからこそ握手会も、実際に会うことも楽しみだと思えるのだ。

 イオリはスマホで砂星桐と検索をかけ、ホームページを開く。ブログの最終更新日は一昨日の朝だった。何度も目を通した彼女の文章に、もう一度目を通す。

『・・・・・いつか猫を飼いたいと思っているの。初めて目をみたときに、私の心にひりひりと響いてくるようなこがいいわ。今日は少し暑くなるとニュースで見ました。皆様もお体にはどうかお気をつけください。

                                             すなぼしきり』

 にやける頬をさっと手で誤魔化す。家には自分一人しかいないとわかっていても、その癖が体に染み付いていた。

 翌朝、日曜日。イオリは早る胸を抑えながら支度を済ませた。今日は目深に被るためのベージュのキャスケットを忘れない。アパートから地上に出ると、雲行きが怪しかった。7月の始めだとはいえ、まだぐつついた天気の日は残っている。閑静な住宅地を抜け、洛北阪急スクエアへと向かう。。イオリは白いイヤホンを耳に突っ込み足早に歩いて行った。一乗寺にある小さなアパートからだと、歩いて15分ほどだ。

 洛北阪急スクエアの中の、行きつけの本屋へと向かう。

 入り口に着くと、大きな黒い垂れ幕が見えた。『砂星桐 握手会』とあった。イオリはぎゅんと心臓を掴まれたようにして、誘い込まれるようにふらふら歩いて行った。

 レジの反対側、いつもはビジネス書や参考書があるスペースに棚がなくなっていた。取り払われたその場所に、30人以上が一列になって並んでいた。現在午前10時8分。まだ開始して10分も経ってない。それなのにこの並びよう、さすが砂星桐。

 イオリはわくわくしながら列の最後に加わった。どんな女性だろう、砂星桐。半ば信者のように崇拝しているその人が、数メートル先にいると思うだけで、イオリは今まで生きてきて良かったと思った。きっと髪なんて綺麗なストレートで、とても優しい笑い方をして、目なんてすごく輝いて。イオリは彼女から産まれゆく言葉の力を思い出して身震いする。

「はい、次の方〜」

 案内係が声をかける。視界が開けている。気づくともうイオリの前には誰もいなくなっていた。イオリはどきりとして、変にうわずった返事をし、一歩を前に踏み出した。

 しかし足はすぐに止まった。イオリの帽子が脱力したように床にすとんと落ちる。何かに頭を打ち付けられたような衝撃が、走った。イオリは砂星桐を、目の前の人間を知っていた。

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