タスク

お餅。

パニック


 息ができないということはどれほど残酷だろう。

 京都市四条河原町の路地裏は薄暗くどこか不穏な場所だ。いかがわしい黒い看板やライブスタジオの扉は、彼女を拒絶しているようである。

 陸に打ち上げられた魚のように喉を詰まらせて、高野唯織(コウノイオリ)はうずくまっていた。側のバケツに縋り付いて、何とか酸素を体内に取り込もうともがく。

 20代の女性の平均身長に当てはまるイオリは、黒い髪を低い位置でおさげにしており、全体的に地味で落ち着いた印象の服装をしている。ただ彼女の心中は、落ち着きとはかけ離れていた。

 男性と接触があったこと、これが一番の原因だった。大学院に久しぶりに行こうとしたことや、久しぶりに電車に乗ろうとしたことは要因でしかなかった。

 息ができないことで悲鳴をあげる肺は涙を生み出して、それは誰にも気づかれずにイオリの瞳の中で乾いていくのだ。もう、わかっている。助けてくれる人なんて、どこにもいないということは。今は、『これ』がどこかに行ってくれるまで一人で耐えるしかない。

 ふと、誰かの声がした。いや、あるいはしなかった。少なくともイオリには誰の声も聞こえないままだった。その誰かはうずくまっているイオリにゆっくりと近づくが、側までは来ようとしない。男性だった。イオリが今最も避けねばならない、生き物だった。

 男性が再び声をかける。やっとイオリの耳に声が届く。彼の方を見ることができない。心臓がどうかなってしまったような混乱のせいだ。そうでなくてもイオリは男性の方を見れはしなかっただろう。

 しゃくりあげるようにしてイオリは過呼吸を続ける。おさげが同時に揺れた。

 彼はしばらくイオリを見下ろしていた。

 男性は、息を吐いてから吸うんだとイオリを諭した。

 イオリは鼓膜で彼から発せられた音を何とか拾い上げる。逃れたい一心で、ギチギチに縮み上がった横隔膜を更に縮ませる。吐く。酸素が完全に彼女の中から消え失せて、回転するような目眩を引き起こす。

 男性はイオリに息を吸うように指示した。拍子にイオリの脳は正常の域に戻り、すーと酸素が供給される。風船のように膨らむ肺に、イオリは涙を滑らせる。こんなふうに誰かに助けてもらったことはなかった。どれだけもがこうと苦しもうと、『これ』がきている時彼女は、一人で耐えるしかなかった。

 イオリは振り返った。

「あの、ありがとうござ」

 しかしイオリの目に彼が男性だと判明した途端、声がかたまって出なくなってしまう。

 黒髪を右側だけふわりとパーマさせた、気位の高そうな男性だった。彼は震えるイオリをどう捉えたのか、ものも言わずに路地裏を去っていった。



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