『③ 買い物に行く』

 そして、『③ 買い物に行く』が始まる。

 2人は一応のプランを決めた。まず喫茶店【ばあむ】で昼食をとり、少し遠くなるが、徒歩で洛北阪急スクエアへと向かう。これは2人ともバスと電車が苦手なためだった。

 イオリは、2人でキリの家から出て、昼間の蒸し暑い風を感じていることを不思議に思った。

「じゃ、行こうか」

 笑おうとするキリの口の端は相変わらずまだひくついていたが、2人は段々話しやすくなってきていた。互いがこの一週間半の間、一度も傷つけ合わなかったからだった。

 喫茶店【ばあむ】には相変わらず人がいない。二人は窓際の席に腰を下ろす。壁についている時計を見上げると、十一時だった。

 無口なマスターに飲み物とランチセットを注文する。流れているのはボサノヴァだった。

 ランチが到着すれば、話を区切ることができる。以前から気になっていたことを聞くチャンスは今しかない。イオリは勇気を振り絞って、と声をかけた。キリが少しびっくりしていた。

「・・・童話の中によく出てくる『楽園』のモデルって、もしかして・・・」

「ああ、つきよみ公園だよ」

 やっぱり、とイオリは目を輝かせる。コーヒーとレディグレイが二人の手元に届いた。

「・・・高校生の頃はよくそこで・・・」

 イオリは途中で諦めるように言葉を閉じたのだが、キリがじいっと見つめるとやがて、少し照れたように再び口を開く。小さな声だった。

「砂星さんの本を読んでいた」

 キリは僅かに目を見開き、視線をコーヒーに戻した。にやけているのがわからなくて良かったと思った。

「『夕焼けがやさしくて、平な丘があって、辿り着いた全ての動物の悩みを解決して魂を救ってくれる』っていう、楽園の描写が、すごく好きで」

「待って、暗記してくれてるの?」

 ランチセットが届いた。ホワイトソースのかかったオムライスと、付け合わせのサラダと、コーンスープだった。

 天井についた扇風機が2人の髪をさらりと揺らした。

 2人の話は止まなかった。そして2人は、2人の間に沈黙が訪れないことに気づかないままだった。キリの物語の裏話が、イオリの眼前で繰り広げられていた。

 キリが微笑むのを見ると、イオリはキリに抱いていたおぞましいオーラのようなものが、自然に出るときの優しい笑みと不釣り合いであることを再認識する。キリもキリで、イオリが前よりも自分のことを怖がっていないことを感じとると、どういうわけか安心した。

 食事が終わる頃には客がちらほらと現れ始めていた。時刻は十三時だ。

 歩いている間もキリの物語の裏話は終わらなかった。イオリがいろんなことを質問したためだった。洛北阪急スクエアについた時、二人の背中はじっとりと汗ばんでいた。

 雑貨店を見て回ったが、一番話がよくまわったのは本屋だった。この本は良いやら良くないやらを話していると、2人はまるで、知り合いたてで少し遠慮が抜けていない友人同士のようだった。

 この場所で再開したのだと、2人は自然と思い出す。砂星桐が、『再開は運命である』と物語の中で書いたことも、同時に。

 驚くことに時間はあっという間に過ぎていった。辺りはもう夕方になる。外に出ると、日が伸びていて、薄い緑色の空が広がっていた。燃えるような夕焼けは今日は期待できない。

 買い物に来たというのに二人とも何も買わなかった。それでも満足だった。

 京都の道のりを歩いている途中で、細くなった路地に入る。左右に寂れた家屋がずらりと並んでいた。イオリはこの夕方の時間が好きだと思った。

 隣で歩いているキリが砂星桐であることに、そしてキリが紛れもなく男性であることに、イオリは改めて実感する。身長の違い、掌の大きさの違い、それは確かにイオリにとって恐怖の対象であるのに、他にも感情が存在していた。まるで胸の奥をくすぐられているような、無意識に秘められた感覚。

 歩いていった先で、おじさんが一人で立っているのが見えた。キリはパッと目を輝かせ、はしゃぐようにイオリにささやく。

「ゲームしよう。あのおじさんが城の番人ね。俺たちは盗賊。宝物を城から盗んだから、逃げ出すところ。おじさんに見つかったら負けね」

 砂星桐の考えそうなことだった。

 キリがそろりと歩む。一歩を生きるか死ぬかの戦いのようにして。イオリは突然のことにキリの背中を見つめたが、キリが止まらないので仕方なくついていく。始めてみるとなかなかスリルがあった。おじさんの目に集中しながら、イオリはキリの後につく。とーぞくだよ、とキリがまた囁いてくるので、イオリはつい想像してしまった。

 私たちは盗賊。ビリビリの服と頭に巻いた黒い布、背中の袋には宝物がどっさり。

 おじさんは高級なスーツを着て、怖い顔で見張っている。おじさんは悪い支配人だ。

 私たちは、同じ仲間。そう思うと楽しくて、キリの背中をリーダーの背中だと思った。

 おじさんの首はずっと向こうを向いていたのに、何が皮切りだったのか、急に首がグルンとこちらを向いた。見つかった、捕まる。

 ビクッとしたイオリをよそにキリは悪戯がバレたように笑い出す。プククク、グハハハと品のない笑い方だ。思わず釣られて笑い出したイオリは、空を見上げて薄い満月に気づいた。

 おじさんは急に笑い出した2人にびっくりして家の中に入っていった。それがまた、どういうわけか愉快で、2人は声を押し殺して笑い続けるのだった。


 今日が楽しかったことを認めたい自分と、奥に引きこもっていたい自分がいた。そして帰ってきてから、2人はリビングのソファの端同士で座って少しの間だけ話していた。お互い、異性とこんなふうに話し合ったり買い物に行ったりしていることが、不思議であった。

 イオリは、キリの物語の大ファンであることを遠慮がちに伝えてみた。

「キリさんに恩返しがしたくて。人生を支えてくれた人だから」

 言ってしまってから赤面する。もう遅い。

 キリはそんなイオリをしばらく見つめていた。信じられなかった。自分の作品を愛してあげているのは自分だけだと今まで思ってきたのだ。それは、周囲にどれだけ「ファンです」、「好きです」と言われても変わらなかったのに。

 キリはありがとうと言った。自分の目頭が熱を持っていることを、誤魔化す余裕がなかった。

 目があった時、お互いの胸の中で花火のように弾けるものがあった、ような気がした。

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